Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

軍歴証明到着

軍歴証明がやってきました。
香川県の方は申請してすぐ来ました。2月初旬ごろ。


軍歴証明 


複数枚に亘る原本。うわー凄いわこれ…
所属部隊担当者が作成した書類の原本写しから傷病証明書まで。
中耳炎で入院した記録がある。
上官のビンタで一時耳が聞こえなくなったと母が祖父から聞いたと聞いたことがある。
所属部隊が参加したのはインパール作戦が最後っぽい。
祖父が復員したのは昭和22年で、ビルマで敗戦を迎えたのち2年ほど開いている。
見ていると連合国軍の作業に従事とあって、これは現地の復旧作業に従事していたらしい。
復旧作業なのか使役なのか、実際の所は調べてみないと分からない。


軍歴証明


一方先週末奈良県からやってきた軍歴証明である。
1枚。ぺらーん…
戦争末期におっさん部隊で招集されたので、軍歴らしい軍歴は殆どないというのは分かっていたのだけれど。

記録昭和20年の4月10日で途切れとる上、知りたい情報皆無っちゅう。
聞いてくれ、敗戦時の所属部隊すら書いとらんのだこれ。
何時復員したのかさえ不明。抑留されているのにシベリアのシもない。どういうことなの。
寧ろ重要なのはそこなのだが。

抑留先で亡くなった方の名簿はあるのだけれど、復員した人の名簿は見当たらない。
調べ方がイマイチなのか。うーん…
舞鶴で聞いてみるにしても何も分からない状態では聞くに聞けないしなあ…

抑留先の様子を知りたくて、しかし所属部隊さえ分からなかったので調べるに調べられずの軍歴証明申請だったのだけど、全く何の役にも立たねえ。
駐屯先から自分で割り出せということなのか。
見せていい情報を書き出して送るとは言われていたのだけれど、正直ここまで簡略されたものが来るとは思っていなくて、がっかりを上回る残念さ。
頼んどいて文句言うなよと言われたらそれまでですけど、香川県のが詳細を極めていただけになあ…

そして6連勤がまだ今週来週と続きますよ。今3周目。
少し疲れてきた…

続きにお返事があります。

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広瀬武夫*113回忌

広瀬武夫の御命日です。
書きたいこともあったのだけれど間に合いませんでした。
しかし触れないというのもどうかと思うので、ちょっと古い雑誌をば。


2017327_1


右のは明治37年4月、真ん中のは明治37年5月、左のは明治37年4月。
左の征露図会は復刻版。
去年鹿児島に行った際、維新ふるさと館で開かれていた古本市で350円やった…
実は中身は持っているのだけれど、本になっているものなら欲しいなと。


2017327_1

ぼろぼろですわ…

久しぶりに征露図会をぺらぺら見ていたのだけれど、広瀬の同期近藤常松の書簡が一部掲載されている。
内務省土木監督の技師であった兄宛。
(この兄が近藤仙太郎と言う高名な技術者だったらしく、利根川や大井川、天竜川の改修でかなりの功績があるようです)


向井弥一_海大講習員 
(左から2番目が近藤。荒川仲吾と向井弥一も同期)


近藤常松は旅順口閉塞作戦当時、駆逐艦漣の艦長で、閉塞隊の援護と収容の任に当たっていました。
大島正毅や松永光敬、九津見雅雄といった同期たちも同様の任に就いており、送る方も送られる方も感慨一入であったのではないかと想像します。


近藤は日清戦争直前、広瀬と同じく水雷術練習所「迅鯨」の分隊士でした。
周囲がどんどん出征していくのを見て、当時の広瀬は焦り、自分の番が来ないことに落胆する日々だったのですが、果たして同僚の近藤までが先に出征することに…
「貴様、俺より先に征くのか」
そう広瀬から言われたと近藤本人が話を残しています。
当時の広瀬(の日記)が大変かわいくて(おっと失礼)、私としては大好きな時期です。
近藤が兄に宛てた書簡の最後に、


一言之を云へば唯壮絶惨絶と申すの外無之候
遂に我親愛なる広瀬武夫を失ひ申し候


とある。
同期ですから当然と言っちゃ当然ですが、やっぱり仲が良かったんだろうなあ…


また作戦に赴く広瀬を見送った霞艦長・大島正毅の回顧も残っている。
霞が福井丸と並走していた際に大島が

今夜は星光微かにして薄き靄あり、決行最上の夜と思はる。
已に天佑あり成功疑ひなし


こう信号した。
そうしたらすぐに船橋天幕に登ってきた広瀬が手旗信号で返信。


我又成功を確信す、有難う左様なら


そのまま福井丸を見送った霞はその後、閉塞隊援護・警戒に回る。
その内に空が白み始め、海を漂う端艇を見つけて近付けば乗っていたのは福井丸の乗員だったそうです。


広瀬中佐は「どうされた」と問ひしに、「戦死しました」と答ふ

それから乗員を収容したのだけれど、


能くゝゝ見れば戦死者負傷者多数端艇の底に倒れ、血肉は飛散し端艇は破れ
実に凄愴惨憺の極みにて、暗愁痛惜無限の感に打たれつゝ、
中佐の肉片を大切に白布に包ましめ、其他の戦死負傷者を丁寧に収容し、
全部終了せしを以て、端艇を舷側に横附けの儘繋止し、沖合に向へり。


この肉片はアルコール漬けにされた上、大島艦長であった兄勝比古の元に届けられ、4月初旬に帰国しております。


日露戦争直前_同窓会_広瀬武夫


向井弥一のご子孫様から頂いて、自分で人物の特定をした15期の集合写真は私の宝物です。
これは明治37年2月5日撮影。
後年の写真でもなく、当時のまんま戦場にいる時まんまの姿で写っているというのは、なんとも感慨無量になります(出征前日ですが)。
この写真には大島も、松永も久津見も写っている。
近藤がいなくて残念ですが、この人たちか、と当時の回顧等を読むと思います。

広瀬についてはもっと多くの人の証言なり回顧を集めたいと思うのですが、それがなかなか難しい。
上の写真の中では、特に町田の話を私は聞きたいと思うのですね…
町田に限りませんが、”軍神”じゃない、”軍人”広瀬武夫の話がもっとあると思うのですよ。
杓子定規な広瀬武夫像でもなく、「広瀬中佐!」と変に敬う感じでもなく、もう少し自然体で広瀬に触れられる機会があればと思うし、そういう場をサイトやブログで作って行ければいいなと思います。

そんなこんなで広瀬武夫の113回忌でございました。
合掌。
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つれづれ

かっふーん…
花粉のせいで何事につけてもやる気がありませんヒジハラですこんばんわ。
ここ何年かは本当に平和だったのでこの苦しさを忘れておりました。
眼も痒いし鼻詰まって息できん。
取り外して水洗いできたらいいのにね。

それやこれやで明日広瀬武夫の御命日なのに何もできないまま迎えてしまうorz
関東近郊にでも住んでいたらお墓参りにでもいけるのになあ…
唯でさえ土曜も出ているのに年度末の最終週に仕事休んでは流石に無理である。

昨日は昼まで仕事であとは大阪まで買い物にいっとりました。
久しぶりに千日前の道具屋筋に行ったのですが、難波、ちょっと変わりましたね。
道頓堀の辺りからでてうろうろしていたのですが、外国人の多いこと多いこと。
あれ、これこの前もなんかで書いたな…

たこ焼き屋さんが滅茶苦茶増えていたのと、各店舗ともめちゃくちゃ並んでいてびっくりする。
そして大阪ってこんなにたこ焼き高かったっけ?^^;


2017336 


しかし少し離れたところにあるなんばグランド花月の隣のわなかが大変空いていたのでふらっと。
たこせん。100円。
久しぶりやな~子供の頃のおやつでした。おいしい。

坂の上の雲ミュージアムからご連絡頂きまして、先日書いていた秋山真之の書簡釈文を頂けることになった!
寄託史料の所有者の方に許可を取っていただくという、思っていたよりも大事になってしまって何だか申し訳ない感じに…
と思っていた所、所有者の方よりもご連絡を頂いてとっても驚いております。
はい、以前鑑定団で出ていた書簡2通でございます…
申し訳なかったなと思いつつ、どんな内容が書かれていたかも、自分の釈文が合っているのかも知りたいので、とっても嬉しい。
やって来る史料が楽しみです!わー!

続きにメールのお返事があります。

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戦利品

松山における戦利品。


IMG_3845.jpg


図録と小冊子と古本。あと自分用のお菓子いくつか。しょぼい。
旅先で寄ったらあかんスポットの上位に入るのが古本屋なのですが、入ってしまったわ。
今回は時間もあったし。
そして加藤拓川の伝記見付けた。わーい。

加藤は明治大正期の外交官。
秋山好古とは同郷同年代の親友で晩年にいたるまで家族ぐるみでの付き合いがあった。


原敬、加藤拓川、陸羯南


司法学校では賄い征伐で原敬、陸羯南らと共に退学になっています。
加藤が外交官になったのは原敬の斡旋があったため。
で、その後甥っ子正岡子規を東京に呼ぶわけですが、上京した子規は後に陸羯南の日本新聞社に入社し、更に後年原敬の自慢の甥っ子・原達(抱琴)を弟子にするという。
不思議な縁ですな。

帰って来てから知ったのだけれど、加藤のお墓も松山にあるそうです。
そういや市長在任中に亡くなってたな。
やや郊外だったのでどのみち今回は参拝の時間はなかったかなという感じですが、次に松山に行く時は行きたいな。

というかさ、この伝記ペラペラ捲っていて気付いたのだけれど加藤夙川に住んどったんや…
えーそうなの…
大阪新報の社長になったり北浜銀行の非常勤取締役になったりしとるしなあ。
この辺りは原敬に推薦されたと思われます。
原も大阪で大阪毎日新聞の社長をしていたり、北浜銀行の頭取もしている。
北浜銀行の方はもろに原敬との繋がりだろう。

そして昭和40年代には秋山好古の次男が仁川に住んでいたことを今回坂の上の雲ミュージアムの展示で知りました。うそん。
夙川も仁川も自宅からランニングで行ける距離である。
仁川の方は住所の番地まで出ていて、昔のこととはいえちょっといいのかコレっちゅう。

私は寧ろ加藤が夙川のどのあたりに住んでいたのかが知りたいわ…
苦楽園か香櫨園かの辺りじゃないかと思うけど。
香櫨園の方かなあ…
香櫨園附近には日露戦争時の第4軍参謀長であった上原勇作の別荘があったのですよ。
詳しい番地は分からんが昔の地図見たら分かりそう。
地元に何か史料残ってないんか…
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松山から帰ってきました

昨日の夕方に帰ってきました。
今回の目的は近場だけど旅行気分になれて旅費が安くて(重要)温泉に入れる所だったので、道後温泉でした。
歴史巡りは温泉のついで(笑
道後温泉も今年秋から長期間に及ぶ改修工事に入りますし(部分的に閉館しながらの営業になるそうです)、その前に行きたいとは思っていたので。
松山は行きたい所はもう行ってるので、温泉入って適当にぶらぶらして美味しいもの食べただけの1泊2日でしたん。楽しかった。


一昨日金曜日の8時頃に松山着で10時前に直接道後温泉まで(いきなり温泉行ったよこの女
何度目の訪問ですがびっくりするぐらいの空きっぷりでした。やだ、凄く快適…
その後秋山兄と白川義則のお墓参りに行き(道後温泉から歩いて5分ほど)、子規記念博物館に行き、水野広徳の墓所に行き、坂の上の雲ミュージアムに行って、もう一回温泉行ってこの日はおしまい。

次の日は行くつもりがなかった子規堂に行き、その目の前に大高源吾の遺髪が納められているお寺があって異様にテンション上がる。笑
大高源吾…!明日待たるるその宝船!
私前に来た時気が付かなかったのかしら…
あとは秋山兄弟生誕地に行って、もう一回ミュージアムの方に行ってデジタルミュージアムで文書を眺めとりました。
幾つか釈文が欲しいものがあり、お願いできるか確認したかったのだけれど学芸員さんが他の対応でなあ…
私も飛行機の時間が迫っていたので諦めた。


見ていたら寄託史料の中に広瀬武夫の写真があったのね。


IMG_3846.jpg


真ん中の有名な写真。
裏書に「謹呈 真之秋山盟兄 辱交広瀬武夫 明治三十六年正月」とあるそうです。

あと明治30年7月に、財部彪から贈られた財部の写真もありました。
明治30年7月と言えば海外留学の直前で財部は秋山真之、広瀬武夫とあっちこっちの視察旅行に行っていた時期。
そこででのやり取りの中でだろうと思いますが、なんか嬉しいぞ。

森山慶三郎から贈られた写真もあった。明治29年。
森慶と言えば森慶宛て秋山書簡でも気になるものがあって、もう少しちゃんと読みたかったのだけれど少し時間がなかったわ…

あとあーやっぱりあったじゃんと思ったのは、秋山真之、山梨勝之進、米内光政がワンショットに納まっている写真!(「Extraordinary」の時の写真です
うわー、すごい!欲しい!(笑)
2・3枚あったよ。
1枚は山梨さんから秋山家に贈られたとありました。

企画展の図録もいいのだけど、所蔵している書簡や写真の図録があればいいのになあ…
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