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法性寺(蘭医ボードウィン逗留の寺)@大阪

法性寺_ボードウィン
ボードインゆかりの地(法性寺)


今まで何度か名前が挙がっていますボードウィン所縁の地が大阪にもあります。
大阪にもということは、よそにもあるということですが、多分知らない人はいない。
上野公園です。

正確には上野恩賜公園ですが、当初あそこにできる筈だったのは病院(現東大医学部の附属病院)でした。
戊辰戦争の際、上野は激戦地区(彰義隊の戦い)になっており、戦後焼け野原になった跡地に病院を建てようというのが政府の考えだった。
それに猛反対したのがボードウィンでして、街には緑地が必要だ、残して公園にでもしろと政府に提言したら受け入れられて、現在に至る。
これが我が国の公園の第1号ですな。

そういうこともあり、上野公園にはボードウィンの胸像があります。
上野の方の像にはボードワンとある。
名前の読みがボードウィン、ボードワン、ボードイン、と揺れがありますが、どれがベストなのかイマイチ分からん。

上野の胸像には面白い話がありまして、長らく別人の胸像が建っていました。
別人っちゅうか、ボードウィンの弟だった…
ちょっとどういうこと。笑。
え、これ別人じゃね?ということで、本人に差し替わったのが10年位前のこと。


ボードウィン、オランダの人ですが、幕末に弟が長崎の出島に来ておりまして、その伝手を使って幕府が日本に招聘した。
当時長崎には幕府が海軍伝習所を作っておりました。
その伝習所の生徒たちが、





榎本武揚だったり、沢太郎左衛門だったり、肥田浜五郎であったり、赤松則良であったり。
勝海舟もおるぜよ。

この伝習所の軍医がポンぺで(その弟子が松本良順、伊東玄伯、林研海等)、ポンペの後任がボードウィンだった。
当初長崎で医学を教えていたわけですが、その時の弟子のひとりが緒方惟準です。


上の写真の人々は幕府のオランダ留学生ですが、緒方も幕府の留学生としてオランダに行った。
ボードウィンが幕府に依頼された医学校設立の準備をするために帰国する際、一緒に連れていってもらってます。
ついでに書くと松本良順の息子も一緒だった。
ただその最中に幕府が無くなってしまい緒方は帰国を余儀なくされます。
その後ボードウィンも再来日し、いわゆるお雇い外国人になる。


法性寺_ボードウィン


蘭医ボードウィン逗留の寺 

明治元年大阪に行幸された明治天皇は、知事後藤象二郎に病院建設を命じ、大福寺(現天王寺区上本町)に大阪仮病院が設置された。
院長は緒方洪庵の次男惟準で、教師はオランダから招聘された蘭医ボードウィンであった。
惟準はボードウィンの身の回りの世話を「適塾」の門下生で薩摩藩出入御用商人薩摩屋半兵衛広長に頼み、法性寺がその寓居となった。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせもしたが、熱心な法華信仰者の半兵衛の教化を受け、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようになったという。
適塾と大阪仮病院は阪大医学部の前身である。
またボードウィンは日本最初上野恩賜公園生みの親でもある。



次男じゃなくて三男じゃなかったかと思って確かめたら、次男だったorz
勘違いしてました。第三子と勘違いしたか…
ちなみに緒方洪庵の長男は幼少期に亡くなっている。

ボードウィンは明治3年に帰国していまして、日本での滞在時期は短いのですが、まあ何かと名前の出てくる人でもあります。
以前書いたように京都で襲撃された大村益次郎の主治医であったのはこの方です。
もう少し早く判断してくれたら、大村益次郎も死なずに済んだんじゃないかと思うとね…


大阪に滞在していた時に住んでいたのがこちらの法性寺ということで、位置はこんな感じです。





三光神社まで歩いて2・30分じゃないかなあ…
ちなみに大福寺にもボードウィンと緒方惟準の記念碑があります。
大福寺、上本町?
近かったのかなと思って地図を見たら法性寺と真田山の間にあった…
地図真ん中あたり、念仏寺の少し上。
知ってたら寄ってたorz


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