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藤原家隆墓@大阪

大阪の史跡第何弾目か。数えろよ。
今日も大阪天王寺、先日の心眼寺からやや南下しまして四天王寺傍の夕陽丘の方へ。
最寄駅は四天王寺夕陽ヶ丘駅です。
地名は夕陽丘なのに駅は夕陽ヶ丘なのね。

真田幸村の安居神社は後回しにしまして、今日はそれ以外から。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201458.jpg


位置としてはこんな感じです。
駅の5番出口から、一番近い史跡が陸奥宗光関連。歩いて2・3分だと思います。
この辺り、非常にお寺が多く、また歴史的著名人の墓所も多い点から歴史散歩道になっており、道路のあちこちに史跡名と距離を書いた案内板が出ています。
出ているんだけど、陸奥宗光に関しては何ひとつ案内がないっちゅうのはどういうことなの。

藤原家隆墓を目指したらすぐそばにあります。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05020725.jpg


こちらはまた別エントリで紹介します。
今回は家隆墓のご紹介。

藤原家隆の墓(家隆塚)


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05020328.jpg


家隆塚 由来

藤原家隆は藤原時代末期の五代の天皇に仕えた有名な歌人で七十九歳の時に官を辞してこの地に隠棲した。
その翌年の春の彼岸に此処の高台から西の海に落ちる夕日を見て、その荘厳さに心を打たれ

契りあれば なにわの里にやどりきて 波の入日を拝みつるかな

と歌によみ、直に落髪して仏性と号し、その四月九日に消え入る様に一生を終えました。
この北隣の浄春寺は家隆の庵の後を寺としたと伝えられています。
夕陽丘の地名は、この歌の「波の入日」から出たものです。
塚の前に享保六年に秋野坊盛順が安井門主道恕の撰文を得て建てた碑がありますが風化が甚だしく大部分が読めなくなっています。 
<後略>



http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05020331_R.jpg


奥まで入って写真を撮ればよかったんですが、時期柄む、む、虫が…((((;゚Д゚))))
あんまり知らない人のためにそこまでする根性は私にはなかった。


家隆卿は優れた歌人で長年朝廷に仕え従二位を賜り宮内卿に至っている。
家隆は藤原俊成に和歌を学び <略> 精進して「彼は歌仙になる」と俊成に言わせた。
<略>
時の摂政が「家隆は現代の人麻呂だ。和歌を学ぶなら彼を師とすべきである」と後鳥羽上皇にお勧めしたことで家隆の名声はいよいよ高まったのである。 (解説版)


『日本古代中世人名辞典』を見ますと、家隆は若い頃から藤原俊成に和歌を学び、俊成の息子の定家ら共に詠歌に励んで、新進歌人として知られたとあります。
鎌倉時代初期の人物ですな。
後鳥羽上皇に可愛がられたようで、『新古今和歌集』の選者のひとりとなり、順徳天皇の時代には定家と双璧の如くみなされた。
「官途には恵まれなかった」とあるけれど、従二位で宮内卿は恵まれてなかったのか…
どういう判断基準なんだ^^;
後鳥羽上皇と近い人物ということで、1221年の承久の乱で不遇になりつつも、和歌への意欲は失わなかったそうです。

実は小倉百人一首に歌が選ばれてもいます。

風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける


98首目。
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