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陸奥宗光・小松帯刀墓所跡@大阪(1)

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この史跡は2回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 史跡 > 近代 > 関西 > 大阪 よりどうぞ。

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大阪、天王寺にある史跡の続き。
今回は近代、陸奥宗光に関するもの。

藤原家隆墓の紹介の際にも書いた通り、なぜか街角の史跡地図には入れられてもらえていない陸奥宗光…orz


四天王寺夕陽丘附近地図


大阪市営地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅5番出口から歩いて2・3分です。


家隆墓と陸奥宗光関連石碑


こんな感じの位置関係なので、家隆墓を目指して行けば到着する。


陸奥宗光_天王寺史跡


7年ぶりの訪問なのですが、新しく石碑が建っていたり解説が新しくなっていたり…
新しい解説版は平成22年、4年前に差し替えになっていました。


陸奥宗光_天王寺史跡


上の写真から分かるように、以前のは木製でした。
経年劣化で字が随分読み辛かったというか、読む気失せる感じだったので、こうした変化は非常にありがたい…


陸奥宗光_天王寺史跡


伊達家・陸奥家 墓所跡

向かって右側の石碑を「夕日岡阡表」といい、陸奥宗光が先考(実父)伊達宗広の行実を漢文で述べたものである。
伊達宗広は紀州藩の重臣で、政敵によって蟄居させられたが、赦免後脱藩して、主に京都で勤王活動を行った。
鎌倉初期の歌人、藤原家隆を敬愛していた宗広は、明治初期、この地に来て、この地の風趣を愛し、自分も家隆卿の傍に眠らんと、自在庵を建てた。
また家隆卿の和歌にちなんで、当地を「夕日岡」と名づけ、伊達・陸奥一族の墓地と定めた。
宗広は明治十年、東京で亡くなったが、遺言により夕日岡に葬られた。

以来、陸奥宗光を始め、妻子など合わせて九人の人々が葬られた。
しかし、子孫によって、昭和二十八年に墓は鎌倉にある寿福寺境内に改葬された。



陸奥宗光_天王寺史跡


解説版の前に石碑が建っていますが、
正面が 夕日岡(夕陽丘)命名の地
右側が 伊達宗広 陸奥宗光墓所跡
左側が 小松帯刀墓所跡


はい。こちら、小松帯刀の墓所でもありました。


この地には薩摩藩家老、小松帯刀清廉が埋葬されていた。<略>
明治初年には参与として大阪にも在勤し、明治三年(1870)7月20日、大阪で亡くなった。
「墓陵は天王寺村之内家隆塚有之夕日の岡ト申ス所、摂海見はらし至極眺望宜敷所ニ御座候(略)」
と、薩摩藩士木場伝内が大久保一蔵(利通)に宛てた書簡に記している。
大久保や五代友厚が、小松の墓参りに夕日岡を訪れている。
その後、明治9年(1867)鹿児島に改葬された。



http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_05110306.jpg http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/VC00005.jpg


右のは鹿児島にある小松帯刀像。
左のは本格焼酎「小松帯刀」、大関が出している焼酎。
何年も前のなので、ラベルは変わってるかも。
大関、思いっきり地元なんだけどね、大関の先々代(確か)の社長が小松帯刀の子孫で、その関係での商品だったそう。
解説版にある通り、小松は明治9(1876)年、鹿児島日置のお寺に改葬されています。


陸奥宗光・小松帯刀旧墓所(2)に続く!
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