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大村益次郎@大阪

司馬遼太郎の『花神』に、緒方洪庵の息子が幼かった頃に塾頭であった大村に背負ってもらう(子守りで)場面があります。
私はそこが大好きでなんですが、その場面に出てくるひとりが緒方惟準(これよし)になります。
名前を知っている方も多いんじゃないかな~

この方、維新前にオランダ留学、帰国後(慶応4年)は明治天皇の侍医となり、維新後にはボードウィンと大阪府病院医学校、大阪軍事病院を設立。
その後は中央に出仕して軍医養成や医務制度を作るのに尽力した。
大阪鎮台の軍医長やったり、軍医本部の次長やったりと、特に大阪の医学の発展の基礎を作った人である。
すごい人なんである。うむ。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2011_10160055.jpg (京都木屋町)


明治2(1869)年9月4日、大村は京都で遭難します。
宿にいる時に7人の刺客に襲われ重傷を負ったけれども、辛うじて一命を取り留めた。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140420.jpg 
大村の定宿があった場所は現在さつきという京料理店になっています。
桂小五郎と幾松のロマンスで有名な幾松のすぐ隣。


当時大阪府立医学校病院勤務であった緒方は大村遭難の報を聞いてすぐに京都に行くつもりだったそうですが、ボードウィンが止めた。
京都からきた病状報告を見て、そんなに深刻な状況だとは思わなかったみたい。

とはいえ大村の傷は右額に縦12センチ、頭から左額にかけて9センチ、これらは皮膚と筋肉が削がれて骨が露出している状態。
ついでに動脈も切られていて中々血が止まらない。
右手に加え、右腕・右膝もそれぞれ長さ10センチ±α、深さ1センチ+αで斬られていて、結果としてはこの足の傷が致命傷になっています。
なんでこれを重体だと思わなかったんだ…

ただ、大村自身がボードウィンらの診察を希望したようで、また京都では治療が手に負えなくなったということもあるようで、約1ヶ月後に大阪に搬送されています。
この時、京都から大阪へ、川を下って移動する際に大村の担架を担いだのが児玉源太郎、寺内正毅、長谷川好道といった後年の大物になります。


ボードウィンらが大村の診察をした際、足の傷は化膿が進み、腐敗臭がしていた。
即刻大腿切断の必要があると診断したものの、当時は政府高官の大手術には勅許が必要だったそうです。
東京大阪間の電信も列車もない時代で、両都の往復には少なくとも10日かかった。
勅許を得て切断手術は行われたものの、その時には既に手遅れになっていまして、手術の9日後に大村は亡くなっています。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080362.jpg


亡くなった病院があった辺り、現在大阪医療センターになっています。
司馬遼太郎が亡くなった病院ですが、この一角に大村の記念碑が建っている。
右端に人が写っていることから分かると思いますが、これめっちゃ大きいんです…
この写真は信号の向こう側から撮ったもの。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080364.jpg


建立は昭和15(1940)年で、発起人は畑俊六やら林銑十郎やら東条英機やら。
陸軍軍人や関西の政財界の著名人がずらずらーっと名を連ねている。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0420.jpg


地図ちょっとちょん切りすぎた…
阪神高速のすぐ北(上)に大阪城があります。


切断された大村の右足は、大村本人の希望により師・緒方洪庵の傍に埋葬されています。
北区の龍海寺。
こちら、緒方家の菩提寺なんですって。


地図_大阪キタ_太融寺


緒方は江戸で没しておりそのまま江戸で埋葬されました。
こちらに納められているのは緒方の髪になります。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080447.jpg


緒方と緒方夫人のお墓は一段高い所にあるのですが、そのすぐ隣に大村の足塚があります。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2008_05080454.jpg


埋葬したというものの、こちらの足塚の存在は長い間秘匿されていて知られることはありませんでした。
『緒方惟準伝』(中山沃/思文閣出版/2012)によると昭和12(1937)年、陸軍軍医中将飯島茂が毛利家所蔵の文書『従三位大村君事績(写本)』からこの事実を明らかにしたそうです。
で、これによって昭和14年に阪大医学部学友会などの有志によってこの碑が建てられたとのこと。

緒方惟準伝にこの碑の裏面にある碑文が載っていたので引用します。


大村兵部大輔公事を以て京都に在り、
明治二年九月凶徒の襲う所と為り前額右膝等数所を創せらる、
十月二日大阪病院に入り加療す、廿七日右大腿戴断術を行う、
肢を旧師緒方洪庵先生の旁に瘞む、大輔の希望に従うなり、
惜しいかな経過不良、十一月五日溘然逝く、
星霜已に七十、方今国家多事、天下皆偉人を思う、
大阪医界有志の者胥碑を建て遺蹟を明らかにせんと欲す、
以て追慕の至情を表すなり。

昭和十四年十一月五日 陸軍軍医中将飯島茂撰並書



原文は漢文のようです。
書き下されてて大変助かります。笑

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Comments

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2014-04-21 00:01 
ジゴロウ #55
長州の大村の顕彰に、會津の畑俊六ってことに、時代を感じます。

大村は、根回しみたいのを無駄に感じていて、急がば回れ的なところがないのが好きなんですが、それが少しでもあったらな…と思います。
2014-04-21 05:23  >ジゴロウさん
ヒジハラ #56[Edit]
畑俊六は会津出身だったんですね。
東条英機も(東京出身だけど彼自身の意識としては)岩手県民ですし、確かに時代といえば時代ですねえ。
まあ発起人には当時の陸軍上層部の名が多く上がっていますので、個人としてどう思ってたかというのは別かもしれません。

もう少し愛想があれば随分違ってたところもあったかなと思いますが、でも愛想が良かったり根回し上手な大村って言うのも想像できませんね…^^;
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