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大村益次郎先生寓地址・福沢諭吉誕生地

地図_大阪キタ_適塾


旧除痘館から大村益次郎先生寓地跡までぼちぼち歩きます。
2・30分位かなあ…寄り道しながら歩いていたのでよく分からない。

場所は西区江戸堀、フコク生命ビルの前。
大阪市立科学館・国立国際美術館を挟んで斜交いに福沢諭吉の誕生地があります。
科学館を目指していけば早い。


「大村益次郎先生寓地址」


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190378_R.jpg


寓居だと思ってた。寓地ですかそうですか。

大村益次郎が適塾に入ったのは弘化3(1846)年のこと。
その翌年に長崎に留学して、さらにその翌年に適塾に戻ってきた。それが緒方洪庵が道修町に除痘館を作った前年のこと。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0416.jpg


こんな感じ。
塾生の時は適塾に寝泊まりしていたのだけど、戻ってきてからは塾頭になっていまして塾外に下宿していました。
それがここ。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190375_R.jpg 


石碑の隣に設置されている解説版によると、嘉永2(1849)年から倉敷屋作衛門宅の座敷に住んでいたとあります。
ただ、こちらにいたのは短期間で(家人が煩わしかったらしい)、すぐに引っ越すことに。
引っ越し先はここから随分離れた大阪城の目の前、谷町台地の方(名付けて漏月庵)になります。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_0416_02.jpg


漏月庵の方にも石碑があったそうなんですが、今は無し。
空襲で無くなったんじゃないかなあ…よく分からん。

大村益次郎についてはもう少し書きたいことがありますがそれは後回しにしまして。
この石碑から歩いて数分の所にあるのが福沢諭吉誕生地。


地図_大阪キタ_適塾


場所は堂島リバーフォーラムの西の端!


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190379_R.jpg


こちら、3つの石碑が建っています。
手前が「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」、『学問のすすめ』より。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190380_R.jpg


手前にあるのが中津藩蔵屋鋪之跡で、中心にあるのが福沢諭吉誕生地。
福沢は大阪生まれでした。
中津ではない。

初代記念碑は金属製で戦争中に供出され、2代目は戦争が終わって数年後に建立、そして現在のは3代目。
字は小泉信三。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03190381_R.jpg


幕末明治の大教育家福沢諭吉先生こゝに生る。
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)。
こゝは旧豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。
先生の父百助は一面に於いて、経学者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀会計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。
彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時
「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」
と語ったと伝へられてゐる。
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを仏門に入らしめる以外にはなかったのであらう。
当時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見し得たであらうか

昭和29年1月  慶應義塾社中建之
            題字 小泉信三
            撰文 高橋誠一郎
            書  西川 寧



特に書く必要もない気がしますが、福沢も適塾の生徒でした。
まーいろいろやらかしてますな、塾生の時代は。
万引きしたり、よそで万引きと間違われたのに腹を立てぶち殺すといって脅して商売やめさせたり。
どうなのよそれ…(と真面目に)

…この書きっぷりで大体お察しかと思いますが、福沢諭吉は好きじゃないんだ…
昔書いたこともあるけど、やってる事見てたらなんでこれが人格者扱いされるんだよと思うんだなあ。
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Comments

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2014-04-19 00:06  超訳『学問のすすめ』(笑)
MV #53[Edit]
>なんでこれが人格者扱いされるんだよと思うんだなあ。

それはあれでしょう。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
のあとに、
「と言へり」
がついてることを知らない人がほとんどだからでは。

『学問のすすめ』の序文って、
「そう言われてるけど、実際には上下あるよね~。上にいる人は社会の仕組みを知ってるから上手く立ち回れるんだよ~。だから勉強しようね♪」
とゆ~意味ですよね。
(うわ、あちこちからお叱りを受けそう……。)

私は社のご神体を石ころと取り換えたという話が嫌いです。
自分が信じないのは勝手だけれど、人の信仰心を踏みにじる行為ですから。
2014-04-19 08:17  >MVさん
ヒジハラ #54[Edit]
>「と言へり」がついてることを知らない人がほとんどだからでは。

正にそうだと思います…
そもそもこれが福沢諭吉の言葉ではないことを知らない人が殆どかと…^^;
MVさんと同じ理由で、ご神体を石と交換して人の信心を笑いものにした話が大嫌いです。
こういうこととか、万引きの事とか、オモシロおかしく書いてますけど、こういうことを本人が世間に発表する神経って一体とは思いますねえ。

福沢には『痩我慢の説』という勝海舟と榎本武揚の個人攻撃がありますが、これは福沢が仲の悪い勝に借金を申し込み、それが断られた直後に書かれたものだということは案外スルーされてます。
しかも本が出版されたのは勝海舟の死後(説が書かれたのはもっと古いけど)。

ちなみに、当時福沢は三田に広大な土地を持っていました。(多分現慶応大学のキャンパス)
勝はそれを知っていて、その土地をを売却して足りなかったら相談に乗るといっていました。

同説で、幕臣だった勝と榎本に対して政府から去れというものの、同じく政府にいた適塾の同門で友人だった大鳥圭介については触れもせず。

福沢は勝・榎本の両者を二君に見えたとか、徳川の為に最後まで戦わなかったと批判するわけですが、
命を懸けて江戸を救ったわけでもなく、兵を率いて五稜郭まで行ったわけでもなく、
戊辰戦争の時に(幕府に留学までさせてもらいながら)俺は関係ないと生徒に勉強を教えていた人間にそんなことは言われたくないだろうと思います。勝も榎本も。
それに勝も榎本も没落した幕臣の救済に奔走してますが、じゃあ福沢は何してたのっていう。

『痩せ我慢の説』については、福沢は両人に訂正等何か言いたいことがあれば言えと発表前に示していますが、
勝は自分がしたことは自分が知ってりゃいいんだ。人の評価なんて知るかい。公表したい?どーぞどーぞ公表しなよ。
榎本は今忙しくて時間ない。公表する?どうぞご勝手に。
総スルー。
相手にしてられるか、って感じだったんじゃないかと。
勝が、福沢とのやり取りについては国家の責任ある立場の人間と学者の立場は違うということを言っていますが、そういう感じだったんだろうなーと。

これは人物の一面だということは分かるのですが、他にも色々見ていると私的には一体何なのこの人っていうのが…^^;
というか長くなりましたすいません。
つい熱くなってしまう…(笑)
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