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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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(20)岩手人脈 4 / 終

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原抱琴が入院した当時、原敬は第2次西園寺公望内閣の内務大臣兼鉄道院総裁でした。
大臣を務めながら、他方で政友会を切り盛りをする忙しい時の人だった。
そうであったけれど、週に1度は抱琴の見舞いに行く。

優しく細やかに気を使い、そっと入院費を払って帰る。
そういう姿を抱琴の友人たちが見ていた。
議場では白頭鬼なんて言われていたのに、果たしてこれが同一人物かと思われるほどだったと野村胡堂が語っています。
この辺りは養嗣子・貢から見た家族としての「原敬」と随分重なる気がします。
というか、そのものだ。


ふとこの時期の『原敬日記』があった事を思い出してファイルを出してきたんですが、やっぱり肺結核だったみたい。
明治43(1910)年5月14日条には以下のようにあります。


達昨年十月より肺患再発にて赤十字病院に入院中の処、病勢鎮静に帰したるに因り昨夜十一時の汽車にて帰県の途に就けり


また原抱琴が亡くなったのは明治45年1月17日ですが、原敬の元にはその日の内に電報が入っています。
更にこう記されている。


達は十一二年前高等学校在学第一期中に肺尖カタルに罹り、爾来休学せしも全快の様子に付
外国語学校に入り優等にて卒業し、再び試験を受けて大学法科に入り常に特待生となり居り、
去四十二年秋盛岡より帰郷し間もなく発病久しく赤十字病院に入れ
稍々快方に付一昨年五月盛岡に帰り爾後同地にて静養し
不思議にも左までの事もなく去月迄経過せしも、
末頃より病勢募りて遂に起たざるに至れり、
実に有望の少年なりしも不幸肺結核に罹り後には咽喉結核を併発して遂に死亡せしなり



肺尖カタルは初期の肺結核、大学法科は現東大法学部。
原は元々達の弟・彬を養子に迎えていましたが、達が不治の病に罹ったことから彬を返すことになり、そこで達の甥・貢(原敬から見たら姪の子)を養子に迎えることになります。


抱琴の初七日に、野村胡堂ら仲間が集まって彼の追悼会を築地本願寺で開いたそうです。
当時議会の真っ最中でして、さすがに今日は来ないだろうと仲間内で言いあって焼香を済ませていた所に、車が止まった。
原敬が静かに会場に入ってきて挨拶し、かなりの時間を彼ら若い人たちと抱琴の思い出話に費やしたそうです。


所で野村胡堂、前回からふっつーに何の説明もなく出てますが、わ、分かります…?^^;


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銭形の親分の作者である。
神田明神下に住む江戸っ子の話を岩手県人が書いていた。
 ^▽^;(笑)


野村胡堂、もともとは作家ではなく新聞記者です。
ありとあらゆる記事を書き、触れたことがないのは相場の記事だけだそうです。
『銭形平次捕物控』は新しく雑誌を創るから『半七捕物帳』みたいなの書いてよ!締め切りは1週間後ね!と言われたのが始まり(笑)

前回触れましたが野村は盛岡中学から一高、帝大法科に進んでいるので、原抱琴とはまさに同じルート。
ただ在学中に父が亡くなったのをきっかけに帝大を辞めています。


とりあえず新聞記者になりたいということで、入社希望の候補として挙げたのが朝日新聞、中央新聞、報知新聞という当時の一流新聞社。
初めは朝日新聞の知り合いにあたってOKを貰ったものの、警察回りが嫌ですっぽかした^^;

中央新聞へはね、原抱琴が「紹介状書かせる」とか言って、原敬の秘書に頼んで、原敬名義の紹介状を作ってくれた(!)。
ただ、それを持って中央新聞横井時雄編集長(横井小楠の子供)に会う前に、ぱったりと友人に会ってしまいまして。
それが盛岡中学で同窓だった安村省三。
新渡戸稲造(岩手・盛岡)の甥になります。

この安村君がそういうことならおれの所に来いよ!と報知新聞に引っ張っていき、そのまま編集長と政治部長に引合され、その日の内に入社になった。
あらま。
政治部外交記者で、担当は政友会本部。
政治部記者として原敬の芝の家には度々訪れたことがあるそうです。
そういえば田子一民も原敬に斡旋してもらって内務省に入っています。


この野村胡堂の交流に石川啄木がいます。
野村が上京した後、石川も上京し結構やり取りがあったみたい。
石川が帰郷する際にお金を貸したりもしていたそうですが、そういう面で面倒を掛けられた人物というと金田一京助が頭に浮かぶ…^^;
金田一の奥さんがすごく石川を嫌っていたそうです。
うーん。そらそうだわな…
石川に貸す為に家財道具を処分したりしてるのに、当の本人は借金した挙句プロのおねえさんといちゃいちゃだもんなあ…
勤め先である新聞社だって遅刻欠席当たり前、給料前借りでプロの(以下ry
それがなんで「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじつと手を見る」なんだよ。楽になる訳ねーよ。
正におまゆうですよ。
申し訳ないが私は石川啄木は嫌いですorz (島崎藤村も嫌いだ)
短歌は好きなんだけどなあ…


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金田一京助が盛岡中学で米内光政と八角三郎の2学年下であったことは前回触れました。
その当時の話として、柔道の朝稽古を一緒にしていた思い出を語っていますな。
わざと投げられて花を持たせてくれたりして、良い先輩だったみたい。


先に書きましたが、戦前岩手出身の総理大臣は3人いまして、それが原敬、斎藤実、米内光政になります。
原敬は政治家としての立場もありますが、後のふたりは軍人です。
そんな彼らが揃って軍国主義を止めようとしていたというのが、不思議といえば不思議な話だと思います。

その一方で同じく軍人になった板垣征四郎は満州事変の首謀者のひとりであります。
また及川古志郎は、米内光政・山本五十六・井上成美らがあれだけ頑強に反対していた日独伊三国同盟を、大臣になった途端にあっさり認めた人物である。
これらは日本の戦争への針路を決定的にした事件のふたつで、あの時期の歴史を見ていると本当に肝が冷える思いがする。
ただ、先の戦争を終わりに向かわせるべく尽力したひとりは米内光政です。

軍人については、色々触れてきていますし、また触れることもあると思うのでここでは措きます。
それに大東亜戦争辺りのことについては何か書けるほどの知識は私にはない^^;
とまれ良いこともあれば悪いこともありますが、国政に影響を与えた人物を、よくもこれだけ岩手県は輩出したものだと思います。
ここでは触れなかったけれど後藤新平(水沢)も、ポーツマス条約時小村寿太郎に随行した高平小五郎(一関)も岩手の人だし。

***

この連載は元々「String」という題で前ブログで連載していたものの続きでした。
初めは平賀源内から蘭学黎明期の辺りで終わる積りでいたのですが、震災が起こりまして、途中で東北出身者の話へとシフトしました。
で、その時は源内先生から解体新書の人々(前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周)、そこから大槻玄沢(一関)、林子平(仙台)、工藤平助(仙台)…
と続いた所で頓挫(笑)
あれから3年orz

こちらのブログでは矢部定謙の名前を出した辺りから続きを書く気になりました。
矢部定謙、大塩平八郎、更にそこから江川太郎左衛門と続けて、そこから登場人物を東北出身者、ここでは特に岩手県出身者ですが、そこに焦点を絞っても近い近代までそれなりに話が繋がる訳ですよ。
長州薩摩ならいざ知らず、こういう県っていうか地域っていうか、そんなには無いんじゃないかなあ…


江戸時代は基本的には組織・住所を中心にした縦社会だと思うのですが、江戸も中期を過ぎてくると学問や剣術を通じて横の輪が広がっていくのがなんとも面白いです。
藩の垣根を越えたり、身分の垣根を越えたり。
生まれた所も身分も違うのに、とある塾で同門でそれが縁になって…、という事例がこの連載で書いただけでもどれだけあったことか。
ただ、そういった人的な繋がり、不思議と明治以降よりも江戸時代の方に広がりを感じるのは私だけでしょうか。

とまれ、そうした人の繋がりを辿ってみようというのが、平賀源内から始まったこの話の大元でした。
縁もゆかりもないのにこの人どうして、と思うような人が、思わぬ人と思わぬ糸で繋がっていたりして、いろんな発見がありますな。
それが面白くてやめられないんだこれが^^;


この連載で触れた流れを大雑把に書くとこんな感じになります。

平賀源内
⇒ 解体新書の人々(前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周)
⇒ 建部清庵(一関):杉田玄白と文通、子供と弟子を玄白に弟子入りさせる
⇒ 大槻玄沢(一関):建部・前野・杉田の弟子 
⇒ 林子平・工藤平助(仙台):大槻や桂川と友人 
⇒ 江川太郎左衛門・斎藤弥九郎(⇒桂小五郎) :海防、海国兵談、尚歯会 
⇒ 幡崎鼎・渡辺崋山:尚歯会、江川の師、同志
⇒ シーボルト事件:シーボルト、高野長英、幡崎鼎、二宮敬作、楠本イネ
⇒ 間宮林蔵:シーボルト事件の切欠、江川の師 
⇒ 佐久間象山:江川に師事
⇒ 坪井信道:佐久間が蘭語を学ぶ切欠 
⇒ 高野長英(水沢):尚歯会、坪井と交流有り 
⇒ 伊東玄朴:ゲバールレイキ事件、江川と交流有り 
⇒ 大槻俊斎(宮城):伊東の盟友、長英と交流有り、江川の主治医
⇒ 緒方洪庵:坪井の弟子、伊東・大槻らにより江戸に召喚
⇒ 大村益次郎:緒方の弟子、宇和島藩における高野の後継、二宮敬作・楠本イネと交流
⇒ 野辺地尚義(盛岡):大村の弟子、紅葉館支配人
⇒ 山屋他人(盛岡)(⇒上泉徳弥(米沢)・斎藤実(水沢)):野辺地の甥、旧南部藩顧問
⇒ 東條英教・原敬(盛岡):旧南部藩顧問(世話役)、作人館
⇒ 米内光政・八角三郎・原抱琴・野村胡堂ら:盛岡中学


stringは糸・紐といった意味ですが、「紐に通した一連のもの」とか「数珠つなぎ」とか、そういう意味もあります。
ゆるーくではありますが、そういう感じ、繋がってる感じの内容になったかなと思います。
またそう感じて頂けたなら幸いです^^

というわけでこの連載はここでおしまい。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
頑張ったー!疲れたー!(笑)

後は広瀬の数珠つなぎだよ…

***


ここでついで書きでいいのかとも思いますが。
前ブログで林子平の『三国通覧図説』が幕末に小笠原諸島のアメリカ領有の危機を救ったと書いたのですが、それが後世の創作だと去年知りました…
シーボルト事件のきっかけとされたハウトマン号沈没が創作だったことといい、本当にブルータスお前もかって感じですわorz
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Comments

post
2014-04-04 22:31 
ジゴロウ #45
な、なんだってー(BYMMR)最後が一番衝撃的だったんですが…

一連のストリング記事、お疲れ様でした。
時代の区切り方とかで、実はほぼ同時代の人物なのに、すごい離れて感じたりしたので、この記事は、すごい勉強になりましたm(_ _)m

また江戸期記事、機会があったらお願いします
2014-04-05 05:45  >ジゴロウさん
ヒジハラ #46[Edit]
いやー…私も最後のあれの衝撃が強かったです^^;
出典が知りたくて調べた人がいるそうで、しかもいっくら調べても日本側の史料にはそういう記述がないそうで。
国か県の機関(だったと思う)に尋ねた所、そのような事実はない、的な…^^;
確かどこかの新聞小説に書かれた内容、つまり作り話だったということみたいです。

同時代の人なんだ!と思う点、すごく多いですよね…
そもそも人物単体で見ることが多いので、横並びの年表で見る機会がほとんどないっていうか。

こちらこそ読んでいただいてありがとうございました^^
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