Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

Home > ヒストリ:近代MTS > 明治 > (15)野辺地尚義・紅葉館

(15)野辺地尚義・紅葉館

京都を去り上京した野辺地尚義、とある高級料亭の立ち上げに加わります。
それが東京芝・紅葉館。
紅葉館。
いかにもありがちな感じの名称ですが、当時もそうであったようで、あまたの紅葉館から区別するために地名を冠して呼ぶことが多かったようです。
なので芝・紅葉館。

創立は明治14年ですが計画は12年頃からあり、13年に東京府に土地家屋等に関する伺い書が出ている。
ちなみに当時は東京府東京市です。
東京都○○区になったのは戦時中、昭和18年。
昭和20年の東京大空襲の際に燃えてしまい現存はしていませんが、紅葉館の跡地には現在東京タワーが建っています。
広い庭、渓流、築山を備え、土地は約4600坪といいますから、料亭というにはかなり広大だったと思われます。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03270609.jpg


設立の理由は、集会が盛んに行われるようになったというのに、貴顕紳士の集会に適した場所がない!というもの。
設立趣旨から分かるように、芝紅葉館はハイ・ソサエティ向けの料亭でした。
料亭っていうか…
う~ん…会員制高級クラブ?
明治16(1886)年に鹿鳴館が完成しますが、それと併せて和洋でよく引き合いに出されたようです。
和風社交場って言い方がいいのか。


東京府に設立申請した人物は岩橋轍輔、子安峻、小野義真でいずれも実業家になります。
子安は読売新聞の創業者で初代社長。
小野義真は三菱系で、岩崎弥太郎に信頼された人物で、岩手の小岩井牧場を作ったひとり(野義真、崎弥之助、上勝)。
岩橋は知らん。ごめん^^;

また明治35年の書類に出ている出資者の名前は、筆頭が小野義真、ついで川崎金三郎、木谷市郎右衛門。
野辺地尚義の名があり、安田善次郎の名もあります。
川崎は川崎財閥、安田は安田財閥です。

木谷は実母散のメーカーな。実母散ってほれアレだ。
秋山真之が「頭がクリアになる」とか言って飲んでたっていう、産前産後に服用したり、生理不順とかつわりを抑えるための薬だよ(笑)
秋山(笑)

まー…なんといいますか。
芝紅葉館設立の趣旨とか出資者から勘案するに、自分たちが使えるような社交場がないから、いっそ自分たちでそういう場を作ろうっていう感じだったんじゃない?^^;


で、なんでそんな所に野辺地が呼ばれたのかということですが、彼に声を掛けたのは子安峻だと思われます。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_03270311.jpg


子安峻、この方元々洋学者。
美濃の人、江戸に出て下曽根金三郎に砲術を習い、その後佐久間象山の門人になる。
そこで舎密と蘭学を学んだそうです。
佐久間象山から蘭学…と思わんことも、ナイ…^^;けれども。笑
舎密、せいみ、と読みます。ケミカルから来ていて、化学の事。

あと、この方も英語の勉強をしていたみたいですな。
文久2(1862)年に幕府に雇われて横浜の通訳官になっている。
明治維新後は外務省入り、同じく通訳をしていたようです。
その傍らで新聞出版に関わり、創刊したのが後の読売新聞なら成功者だろうと思いきや、他の事業で失敗したそうで、明治20年代で身を引いた。
上記明治35年の出資者の中に名前がないのは何故かなと思っていたのですが、明治31年に亡くなっていました。


下曽根はこの連載で一度名前が出ています。(下曽根金三郎
江川太郎左衛門の塾を40日程で辞めた佐久間象山が、江戸に帰ってこの人に高島流砲術の伝書を見せてもらった。
子安が佐久間の門人になったというのはこの繋がりからだと思います。
でね、この人この後大村益次郎より蘭学を教えてもらっていた。
野辺地とは鳩居堂繋がりだった。


野辺地は招かれて紅葉館の開館までの諸事に関与、開館以降は幹事、つまり支配人となった。
高級料亭と一口にいうものの、今の私たちが想像するそれとは随分かけ離れています。

会費10円、会員数は300人に限られており、入りたくても中々入れない。
一種のステイタスですな…
完全予約制(電話)で、会員証は本人のみ利用可、家族友人などの同伴は認めるものの、会員証を人に貸すことは厳禁。
門に掲げられている表示には

雑輩入るべからず


^▽^;

会費は年会費だと思います。
以前計算したように明治30年で1円=1.5万円で考えると15万。
明治15年や20年だともっとしたでしょう。
確かに庶民マジでお呼びでない(笑)


変な所で切れるけど続く^^;

昨日は広瀬武夫の御命日でしたが華麗にスルー(…)
…いや、1月頃に考えていた予定では広瀬関係の連載を動かすつもりだったんです本当ですorz
まーしゃーないわ!(笑)
とりあえずはこの連載を終わらせます!頑張ります!やっと近代…!!
ごめんやけどもうちょっと付き合って…

関連記事

Comments

post
2014-03-29 03:18 
ジゴロウ #41
社交場というと、高級料亭とか花街とかは、明治の高級官僚や軍人、旧大名を招いた県人会など、そこにばかりいっていたイメージがあります。

秋山兄みたいに、旧旗本の離れを借りていたりした人もいましたが…
2014-03-30 14:57  >ジゴロウさん
ヒジハラ #42
明治初期については”社交場”に対する印象があんまりなかったというのが正直な感じです…^^;
高級料亭ねえ、という感じでしたし、どちらかというと鹿鳴館かなあ…
それに明治中期以降の上野精養軒の印象が強いというか。
でも精養軒は社交場っていう感じではないですね^^;
Comment form

Trackback

Trackback URL
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)