Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

(13)江戸へ

高野長英の後釜として宇和島に入った大村益次郎。
適塾の緒方洪庵に紹介されてですが、宇和島で大村を招聘すべく動いていたのは二宮敬作と大野昌三郎という人物だったようです。

高野長英が宇和島に滞在した際、藩士数人に蘭学を教えていたと書きましたが、大野昌三郎はその中のひとり。
大村が滞宇していた際の身元保証人というか、後見というか、そういう立場だったということを読んだことがある気がする。
記憶曖昧ですんまそ^▽^;


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大村は約3年程宇和島に滞在していますが、高野同様軍事関係での登用で蒸気船や砲台を作ったりしてますなあ…
ちなみに砲台を作る際は高野が記した本を参考にしたそうです。

提灯張りをしていた町人嘉蔵(後、前原巧山)と共に純国産の蒸気船を作った話は非常に有名なので、ご存知の方も多いかと思います。
嘉蔵さん、手先が器用で町のなんでも屋のような感じだったそうですが、技術を買われて後宇和島藩のお抱えになってますな。藩士になったのか。
精米機やミシン等も作っていたそうで、そりゃ蒸気船を作れる理解力と技術力があるならその位は作れただろうと思ってしまう^^;
勉強しろということで長崎に3度、そして薩摩にまで留学させてくれており、藩の嘉蔵への期待の程が窺い知れます。


大村と同時期に長崎に滞在していた時もあり、その時は二宮敬作も長崎に赴いています。
大村と二宮はほどなく宇和島に帰る訳ですが、その際二宮はシーボルトの遺児・イネを宇和島に連れて帰っている。
高野長英と同じく大村は宇和島藩の軍制改革に関わる傍ら蘭学を教授していましたが、そこの学生になったみたい。


二宮敬作。
シーボルトの高弟で、高野長英とは兄弟弟子です。
シーボルトよりの信頼が厚く、彼よりイネの面倒を見て欲しいと頼まれたということは前に触れました。

二宮は自らが医学の手ほどきをした後、イネを岡山の石井宗謙という医師の元に修業に出します。
石井はシーボルトの弟子でして、二宮はそれを信頼して預けたということだったのでしょう。
イネは7年程岡山で産科医としての勉強をしていますが、石井に暴行された挙句妊娠してしまい、長崎に帰ることになった。
二宮が長崎にいたイネを連れて宇和島に帰ったというのは、その後の話になる。

ウィキのイネの段をちらっと見たのですが、「フィクション設定では暴行されたことになっているが真相は不明」となってるなあ…
うーん、これ、多分史料あるよ…史料というか、資料というか。
私もこの手の話がなんで伝わってるのか、不思議だったんですよねえ。
普通だったら秘匿しておきたい筈の話で、出所はどこなのかとずっと思っていたのだけれど、何年か前に吉村昭の本を読んでたら載っていた。
イネと石井の間にできた娘本人が「長崎学」の古賀十二郎(『長崎ぶらぶら節』で渡哲也が演じた)に話したことで、長崎図書館の書庫にあるそうです。

ちなみにイネの娘・タダ(高子)は、後二宮敬作の甥・三瀬諸淵と結婚します。
三瀬は大村益次郎の下で学んだ語学力に優れた人だったそうで、シーボルトが30年ぶりに再来日(安政5(1859)年)した際にはその下で勉強し、シーボルトが江戸に向かう際には共について行っている。
そこでちょっと問題が起こってますが、そこは割愛^^;


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140323_04.jpg


そんなこんなで数年を宇和島で過ごした大村益次郎、当時は村田蔵六ですが、藩主伊達宗城の参勤交代について江戸に向かうことになります。
そして江戸で塾を開いた。
それが鳩居堂。
正直な所鳩居堂と聞くと京都寺町、本能寺の近くにある書画文房具店しか思い浮かばん…
何か関係あるのかと思いきや、何の関係もないみたい。笑

ちなみに江戸に出た後、大村は眼病に罹ったそうです。
その時に診てもらったのが大槻俊斎。
伊東玄朴らとお玉が池種痘所を立ち上げ
高野長英が脱獄した際に立ち寄り刀を持って行かれた蘭学仲間
高野と大村、直接会ったことはないですが何かと繋がりがあって面白い。
てゆーか、ほんと狭い世界だわー^^;

戦前に出た大村の伝記の復刻版に鳩居堂の入門者名簿が載ってるらしいんだけど、私が確認できる範囲ではその本がないんだ…
なので2・3人ほどしか知らない。


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有名な中では、後、海軍中将にまでなった伊藤雋吉がいます。
『陸海将校の書生時代』(墨堤隠士/大学館/M37)には江戸に出て林洞海、江川太郎左衛門の塾に入り、後鳩居堂に入ったとある。
とはいえこの本、広瀬武夫の部分を見ている限りでは嘘と創作が多いので大丈夫かと思う所がないでもないですが、当時の蘭学(洋学)吸収熱ってこんなもんだったんだろうと思います。

また鳩居堂に入門した中には野辺地尚義という人物がいる。
南部藩、岩手の人です。


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