Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

(12)宇和島へ 2

高野長英の話、続き。

天保10(1839)年に蛮社の獄で入牢し、弘化元(1844)年に人を使って赤猫(火事)を出して脱獄。
暫くは関東、東北、その後江戸に戻って潜んでいたのですが、それが伊達宗城の耳に入り、宇和島藩に招聘されたのが嘉永元(1848)年のこと。
長英逃亡の後半の話になります。


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高野長英は岩手水沢(奥州市)の人。
養父が杉田玄白の弟子で、初めて上京した時はその縁を頼ろうとしたということは以前触れました。
ちなみに高野は養子先の姓で元は後藤、親戚に後藤新平がいます。
後藤新平から見たら高野は大叔父になりますが、この人ももともとは医者だった。


水沢の三偉人といえば、高野長英、斎藤実、後藤新平の3人なります。
平泉を作った藤原清衡も水沢出身とされている。


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清衡ゆかりの地は水沢駅から随分離れていますが、他の3人所縁の地は水沢駅から歩いて10分15分ほどの距離に固まっている。


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みんな家が近所。
水沢駅前の狭いエリアに石碑やら記念館やらが犇めくようにある。
高野長英が亡くなってから7年、8年後に後藤と斎藤は誕生していますが、後藤は勿論ながら斎藤も高野についての話は随分耳にすることもあったんじゃないかと想像。


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高野も他の多くの蘭学者がそうであったように医を通じて蘭学の世界に入りました。
そしてシーボルトの門下に入り、尚歯会のメンバーになり…
伊東玄朴の件でも書きましたが、医者としての腕は抜群に良かったそうです。

ただ宇和島が高野に求めたのは医学ではなく、軍事関係、軍学書の翻訳だった。
あと伊達宗城が長崎で相当数のオランダ語の本を買っていたそうですが、当時の宇和島ではそれを自在に読める人がいなかったそうです。
本の目録、内容の摘要を作り、どの本を翻訳すべきかを考える、そういうことをしていた。


実は当時、宇和島には高野の兄弟子がいました。
それがシーボルトの高弟のひとり二宮敬作。
お白洲に出ても最後まで師・シーボルトを庇い通し、シーボルトの娘イネの後見を頼まれた人でもある。
シーボルト事件の後、長崎を追放されて故郷の宇和島に帰っていた。
そういう人ですのでオランダ語は不自由なかっただろうと思うのですが、この人は純粋な医者で兵学には意を向けなかった。
ジャンルが違う専門書の翻訳は難しいんだと思う。

高野は宇和島では翻訳だけではなく、砲台(御庄砲台)も作っています。
これは高野自身が調査・測量に従事した。
またこの他、藩士数人に蘭学を教授しています。
その中のひとりに二宮の次男がおり、藩からの指名でなく志願して教えを請うただけに一番上達が早かったらしい。
この人は後に大阪の適塾に学んでいます。
また敬作の甥はイネの娘と結婚している。


高野の宇和島での生活は長く続きませんで(幕府に気づかれた)、約1年で宇和島を出ることになる。
宇和島を出る際には二宮敬作の所にも何日か身を寄せていたそうです。

行先としては薩摩をあげていたようですが、当時薩摩はお由羅騒動の真っただ中で、とても身を寄せられるような感じではなかったようです。
薩摩に匿われていたら高野のその後も随分違っていたんじゃないかなあ…

宇和島を出た高野は最終的には江戸に戻っています。
硝酸で顔を焼くなどして人相を変え、そして名前を変えて暮らしていたものの、嘉永3(1850)年に捕縛されています。
捕り物の際に十手などで激しく殴打され、奉行所に送る際に死去したといわれている。

それが大村益次郎が適塾を辞して故郷の鋳銭司村に帰った年の事。


ちなみに佐藤昌介さんによると、長英逃亡の際、韮山代官の江川太郎左衛門が匿ったという話があるけれども、どうもそういうことはなかったのでは?という感じらしい。
意外な感じがするけれども、そもそも面識がなかった可能性が…^^;
尚歯会に出入りしていた斎藤弥九郎ならありうるけれど、と書いてあるものを読んだ記憶がある。

更にちなみに、鳥居耀蔵が正使、江川が副使となり行った江戸湾沿岸調査の際、渡辺崋山が優れた測量技術があるとして江川に推薦したのが高野長英の弟子・内田弥太郎(下級幕臣)でした。
長英が入獄し逃亡してからもずっと長英の世話をしていたのがこの人。



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大村が宇和島に招聘されたのは、その3年後の嘉永6(1853)年になります。
お察しのように大村は高野の後釜として迎え入れられました。


宇和島藩としては高野長英が去って後の人を探してはいたみたい。
タイムラグがあるけれど、そのあたりはよく分からん^^;
二宮敬作から大阪適塾の緒方洪庵に依頼があり、それで紹介されたのが大村益次郎だった。
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