Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

(8)蘭方医たち

シーボルト事件の際はうまい具合に難を避けた高野長英(岩手)は、その数年後に江戸に戻りました。
蘭書を翻訳しながら医者として開業していた。

当時伊東玄朴や戸塚静海、林洞海、大槻俊斎といった後輩たちも江戸で開業していたそうです。
蘭方医として名の知られた人々ばかりですが、高野の方が抜きんでていたそうで、傲慢・傍若無人さに「腹立つ…」と憎たらしく思いながらもその実力は認めていた。

病人を診て分からないような時、高野を呼んで診察してもらう。
で、処方させたら、患者の病気が治ってしまう。

そんな感じだったので、長英がお金に困った時は伊東玄朴等の家に金を貸せと押しかけ、5両、10両と持っていく。
度重なるので断れば、強奪同然に持っていくこともあった。
多分この、「伊東玄朴等」の、等の中に坪井信道も入っていたんだと思う。
この奥さんが「長英さんは人の悪い方で」とそういうことを言い残している^^;


で、この伊東玄朴はかの有名なゲバールレイキ事件(勝手に命名)の当事者になります。

蘭学者の集会で誰かが「今日はオランダ語オンリー。日本語話したら罰金ね!」 → みんな段々日本語が混じりだす → 長英一言も日本語話さず → 玄朴あまりに憎らしく、散会時に梯子段より長英を突き落す(……) → 長英「ゲバールレイキ!」(危ない!)


こういう紹介のされ方だとあまり碌な感じを受けませんが、伊東玄朴、立派なお医者さんです…


高野長英は天保10(1839)年、蛮社の獄で罪に問われ、小伝馬町入りしています。
入牢していたのは5年程で、その最後に起こった火事で切り離しをされた末、逃亡した。
切り離しは牢で火事が起こった際、人道的見地から囚人を一時的に開放することで、3日以内に奉行所か回向院に戻れば罪一等を減じられました。

しかしながら脱獄するために人に金を与えて火事を起こさせたのは他ならぬ高野で、彼は3日経っても戻りませんでした。
これから6年に及ぶ長い逃亡の旅が始まることになります。
ちなみにこの時の南町奉行は遠山景元(金四郎)でした。遠山の金さんだった…


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140316.jpg


高野は牢を出た後、すぐに蘭学仲間の家を訪ねたことが分かっている。
訪問先は大槻俊斎の家で、牢から近かったという理由のようです。
近所には伊東玄朴宅もあったのだけれど、そちらには行かなかったらしい。
先に記したふたつの話は恐らく両者のエピソードの氷山の一角でしょうし、頼る意味では顔を出し辛かったんじゃないかなあ…


大槻俊斎は出身が仙台藩、宮城の人です。
出身藩が同じ、そして名前や同じ蘭方医ということからして大槻玄沢・盤渓らと何か関係があるのかと思いきや、ないみたい。

伊東玄朴の所から来たと明け方に戸を叩く者がいるので、開けてみたら数人を引き連れた高野が立っていた。
身なりを整えたいというので便宜を図ってやり、3日以内に帰れと忠告すると、分かっているという。
去り際に高野はもぎ取るようにして刀を持って行ってしまい、それが気になって大槻俊斎は町方同心に相談したそうです。

で、高野は逃亡してしまう。
後に捕縛された高野と一緒に大槻宅を訪れた仲間が、大槻宅で刀を貰ったとペロッと吐いたので、大槻は何度も奉行所に呼び出され、挙句の果てに3年に猶予をやるから探し出せと奉行所から言われてしまった…
勿論3年経っても探すことはできず、無理でしたと報告した挙句30日の閉門。
形式的なものだったようですが、罰を受けている。
き、気の毒だ…


この大槻俊斎、江川太郎左衛門に庇護された蘭方医のひとりになります。
大槻が記した銃創関係の書物を通じて知り合ったというのを何かで読んだ。
主治医のひとりだったんじゃないかと思う。

伊東玄朴も江川とは関わりが深い。
大槻らと種痘所を作ったと上記しましたが、伊東は天然痘予防の牛痘種法を普及させた人として有名。
伊東の言を容れた佐賀藩での実施が濫觴として有名ですが、江川も伊東に頼んで自分の子供で試した後に支配領域全体で種痘を行わせています。


江川は安政2年に亡くなります。
過労によるものだと思われますが、不調を訴えるようになってから僅か1ヶ月での、文字通り急逝でした。
江川を診た医師団の中心にいたのが大槻俊斎でした。
それに伊東玄朴が加わり、 戸塚静海が加わり、林洞海が加わり、江戸にいた蘭方医オールスターという感じだったみたい。
ただその看病もむなしく、ひいた風邪から肺炎をこじらせて亡くなった。55歳。


ちなみに、江川太郎左衛門と遠山景元、面識があったそうです。
父親同士の関係からのようです。
それに、江川が代官見習いになった際その命令を江戸城で申し渡されたのですが、その申し渡しをしたのが遠山の父、遠山景晋になります。
景晋は北方関係でごたごたしていた時に外務大臣的な役職についていたこともあり、間宮林蔵の上司だったこともある。
以前読んだ江川の伝記では、江川と遠山の金さんで893を懲らしめたというエピソードがあったのだけれど、あれがどこまで本当なのかはよく分からない。笑
本当だったら面白いと思うけど。


で、ついでなので、出しておく。

http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014031602.gif

上から2段目の右に林洞海がいます。
義弟に松本良順、林董。
松本良順は幕末にはよく名前が出てきます。
林董は明治の外交官として有名。義弟ですが、養子になっている。

息子の研海、榎本武揚、赤松則良、西周は幕末に幕府がオランダに派遣した留学生です。
ちなみに伊東玄朴の養子もこの時の留学生。
洞海の娘は榎本と赤松に嫁し、息子は西周の所に養子に行った。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014031603.jpg

西周の従兄弟の子供が森鴎外で、森は赤松の娘と結婚しています。
なんでも結婚式の時の主賓、榎本だったそうで。
系図から分かる通り、森は離婚しなければリアル華麗なる一族だった^^;


赤松は韮山塾出身、そして肥田は江川の侍医の子供で、ふたりとも長崎の海軍伝習生となり、咸臨丸で渡米、オランダ留学。
また、咸臨丸にはジョン万次郎が乗っていたことがよく知られています。
万次郎は米国からの帰国後、一時土佐藩に取り立てられたものの、江川の要請で旗本に取り立てられ幕府の鉄砲方手付、つまり江川の部下になっています。
日米和親条約締結時に、身分のことなどもあり表に出ることはなかったものの、陰で随分尽力した人物でもあります。


更についでに言うと、林董は後にロシア公使になっています。
写真が趣味で、こういうのを残している。

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広瀬武夫さん。笑
明治32(1899)年2月12日、ペテルブルグでの撮影でした。

沢太郎左衛門は広瀬が兵学校に通っていた時、兵学校で教官をしていました。

で、前回出てきた黒田良安(坪井信道が佐久間象山に紹介した蘭学の先生)の甥が三宅雪嶺だと書きましたが、三宅は明治24~25年にかけての海兵18期生の遠洋航海時、比叡に便乗していた。
当時広瀬も比叡乗り組みで、当時の様子を『航南私記』に記しています。

色んな所に繋がりますな。


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Comments

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2014-03-16 21:49 
ジゴロウ #35
なんの偶然…というか、最近の記事を読んでたからですが、科学博物館の『医は仁術』行きました。

期待したような、人物の逸話とかはあまりなかったんですが、佐藤家の家系図をみたおばさんが、『この人、みんな養子に出してるわね~』と言ってたのが印象的でした。泰然さんですね…
2014-03-16 23:03  >ジゴロウさん
ヒジハラ #36[Edit]
あ、行かれましたか!いいなあ…
今書いている辺りと重なるのだろうなと思いながら書いてましたが、すでに展覧会始まってるのに公式HPで展示内容の紹介がいまだ準備中ってどういうことなのっちゅう…^^;
佐藤家の系図出てましたか。
確かに触れざるを得ない家ですよね~^^
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