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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
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(9)蘭方医たち 2

今書いている話もそろそろ出口が見えかかってきて、何とか終われそうで個人的にはホッとしてます…
え、終われるの?という感じですけど、終われます。多分。
出口は岩手県になる予定ですが、予定ですが(2回言う)、岩手県繋がりということで今日は1件リンク張っとく!
岩手県主宰の無料WEB漫画配信サイト…の漫画更新のお知らせページ…^^;

お知らせページ
(別窓)

直接リンク張ればいいんですけど、岩手県への申請がいるのでめんどくさい。ごめん。笑

平泉中尊寺関連で、『金色の思い』という藤原清衡の話が無料配信されています。
漫画は『遮那王義経』の沢田ひろふみ。
他にも吉田戦車とかひうらさとるとか池野恋とか、有名漫画家の漫画も配信されてますので、興味がある方はぜひ。


***

「疱瘡の見目定め、麻疹の命定め」という言葉があります。
江戸時代に流行した病気をそう言ったそうですが、疱瘡は江戸時代後期によく流行したそうです。
疱瘡は痘瘡といったり、古くはもがさと言ったりした。
天然痘です。

日本には古くからあった病気でして、有名なのが奈良時代の大流行。
藤原4兄弟、その他大勢の貴族が天然痘で亡くなり、政治の担い手が激減したというのは歴史の教科書にも載っています。
また伊達政宗は幼少時に天然痘を患い片目を失った。
高杉晋作も幼少時に天然痘に罹患したものの、シーボルトの弟子であった青木周弼により命拾いしています。

「見目定め」というのは全快しても酷い痘痕が残るためで、幕末の写真を見たらよく分かる。
咸臨丸でアメリカに行った塩田三郎が有名だと思いますが、ちょっとすごいです。
男性もさることながら、特に年頃の女子だと死にたくなるような病気だったと思う…(;△;)


天然痘自体の伝染力が非常に強く、また江戸時代には有効な予防法などがなかった為、特に小さな子供が死んでいく。
治っても深刻な後遺症が残ることが多い為、これを何とかしようと戦ってきた医師が大勢います。
鎖国が邪魔になり、日本への牛痘法導入はジェンナーの発見から随分タイムラグが生じたようですが、佐賀藩の楢林宗建(シーボルトの弟子)が成功したのがその濫觴になります。

というか、ジェンナー以前に日本では人痘法に成功した医者がいまして、それが秋月藩の緒方春朔になります。(中国の書物から得た知識)
求める人には惜しみなく方法を公開したので、緒方の元に人痘法を学びに来た人が随分いたそうです。
ただやっぱり偏見があったりそれが罹患予防になるとは信じてもらえなかったりで、中々難しいものがあったみたいです。


各藩や各地方では割と除痘所や種痘所が設けられていたものの、江戸はそれに若干の遅れを取っていた。
とはいえ、前回書いたように江川太郎左衛門は自分の子供に、そして領地に種痘を広げていました。
また川路聖謨も(川路の弟が川路の)孫に受けさせてから、家族や知人に接種を勧めている。

江戸で種痘所を作ろうとしても漢方の方から横槍が入っていたようですし。
江戸では種痘が自分の一存でできるような立場の人、理解のある一部の知識人位だったんじゃないかなあ…

それに治癒をまじないに恃む位の知識のなさですので、牛痘という言葉から牛になると信じた人も多かったようですし、金儲けを考えてでたらめなことをする輩もいたそうで、普及に至るには大変な努力が必要だった。


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0020.jpg


江戸で種痘所を作ったのが前回出てきた伊東玄朴と大槻俊斎(宮城)、戸塚静海、箕作阮甫といった人々。
場所は神田お玉が池、建築費・運営資金は趣旨に賛同した江戸にいる蘭方医83人が拠出しています。(安政2(1855)年)
その中のひとりに手塚良庵という『陽だまりの樹』の主人公がおりまして。
手塚治虫のひいじいちゃんになります。
大槻俊斎の兄弟子だったようで、手塚の妹が大槻の妻になっているという関係。


で、この種痘所を立ち上げる際、伊東らが頼った先が当時勘定奉行であった川路聖謨になります。
バックアップというか、発起人というか、そういう立場だった。
そしてなぜ場所がお玉が池かという話ですが、この種痘所、元々川路の土地ですねん。
それを無償貸与してくれた。
川路は江戸に3か所拝領地を持っていたのですが、その内のひとつで、ここが一番広かったらしい。
ただ残念なことに、半年程でこの種痘所は近所で起きた火事で類焼、直ちに再建されたものの、場所は他に移っています。
あーあ…

その後、伊東玄朴らの運動が功を奏してお玉が池種痘所は

万延元(1860)年 幕府の直轄の種痘所(初代頭取大槻俊斎)になり、
文久元(1861)年 西洋医学所になり、医学所(初代頭取緒方洪庵)になり
明治に入って東京大学医学部になった。

はい。
蘭方医たちの私営で始まったお玉が池種痘所は東大医学部の前身でござった…


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0020.jpg


ちなみに川路自身も幼少時に天然痘に罹患していまして、顔に痘痕が残っていました。
上の写真は日露和親条約が締結された時期のものでして、ロシア側の申し込みにより撮影されたもの。

1度は断ったんですよ、川路。
元来の醜男が老境に入って妖怪の如くであるのに、これが日本男子だと思われたら日本の美男子の心や如何、ロシアの美女にも笑われるだろうとか何とか、ユーモアでロシア側を笑わせた。
2度目は断れず、嫌々写したのが上の写真。
皺とかできもの(痘痕のこと)迄写ってる、という感想を漏らしています。


大槻俊斎という先生、一般的には知られていないけど、すごく偉い先生じゃなかったかと思うんだ…
気を付けて見ていると、実に色んな所に名前が出てくる。
宮城出身の人ですよ、宮城の人。
桃生出身です。
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