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昭和天皇と周囲の人々(主に明治)

こぼれ話、その2。
いや、内容的には全然零れとらんのだけれど。
今回は以前紹介した『陛下、お尋ね申し上げます』から。

昭和天皇は戦後の記者会見で戦前の事を結構尋ねられていました。
あまり細かい話は無かったのだけれど、昭和天皇の言葉の中に知っている人物がちらほら出ていたのですね。
明治の人とか明治の人とか明治の人です。
やっぱりそのあたりに興味があるのだ。笑

とりあえず、引用に入る前に昭和天皇が幼少期~青年期に関わった人物を上げてみる。
その方が分かり易いと思うので。


昭和天皇は明治34(1901)年のお生まれ。
お名前は裕仁、宮号は迪宮(みちのみや)。

誕生から2か月で里親、川村純義(65歳)に預けられています(初めは大山巌の所に話がきたが大山は固辞)。
川村は維新後から内閣制度に切り替わる辺りまで海軍の実力者であった元薩摩藩士。
妻春子が西郷隆盛のいとこである。


川村純義


川村は当時の皇太子、後の大正天皇から直々に里親になるよう依頼されているのですが(人物選考は勿論宮内省や侍従長などの宮中関係者)、
「自分の孫と思って扱ってくれ。過度な遠慮は無用」
そう言われたそうで、本当にその通りに養育した。

迪宮が2歳の頃、嫌いな食べ物を出されて「これいやー」。
イヤイヤ期か。笑
そうしたら川村が、

「食べんでよろしい」
「じじいはもうご飯を差し上げません」

じじい強い。
宮様、泣いて謝ったらしい。
ちょっと笑った。どこも一緒か。

しかしながら川村邸での生活は長くは続かず、川村の死を以って終了します(明治37年秋)。
3・4歳頃(数え年で5歳頃)のことで、その後は青山御所に戻ることになった。
そのすぐ後なのかな?養育掛としてある女性がやってきます。
それが足立たか。

足立たかは当時東京女子師範学校付属幼稚園の教師をしていた22歳の女性。
東大教授に推薦されてやってきた。
侍従長木戸孝正(孝允の甥、養嗣子)にたか女史を紹介された迪宮裕仁親王、彼女に最初に掛けた言葉は、

「足立たかと申すか」

3・4歳の子供の言葉遣いではござらぬ。笑
教育とはげに恐ろしいものである。

たか女史は庶民の子供の相手しかしたことが無く、皇孫のお世話と聞いて非常に緊張していたものの、実際には母親のぬくもりを慕って甘えてくるひとりの子供であると分かり、気が楽になったそうです。

たか女史が宮中で養育係を勤めていたのは明治38(1905)年から大正4(1915)年の10年間。
その後鈴木貫太郎と結婚します。
鈴木貫太郎は明治45年に妻(出羽重遠の妻の妹)を亡くしており、この時は再婚になります。

鈴木は後年昭和天皇の侍従長を勤めており、また敗戦時の首相でもあります。
昭和天皇は鈴木の妻が自分の養育掛であった女性であるということで、鈴木には結構な親近感をお持ちであったようで、
「たかはどうしているか」
とか、
「たかのことは母のように思っている」
とか、そういうことを折に触れて言われていたそうです。
また2・26事件の際に鈴木の生命を救ったのもこのたか女史で、鈴木でないと戦争を終わらせるのは難しかったであろうことを思うと、何とも言えない感慨がわく女性でもあります。

幼稚園の課程が終わると小学校の課程に入るということで、学習院に入学。
学習院で院長として裕仁親王を迎えたのが陸軍大将乃木希典でした。


はーい、つづくー
(またか…)
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