Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

(5)間宮林蔵 2

間宮林蔵はシーボルト事件の後、幕府の隠密になっています。
いや、この時になったんじゃなくて、そもそも樺太とか千島とかの北方探索が隠密の職分だったみたい。
事件を挟んでの毀誉褒貶が激しすぎるのか…


間宮林蔵、隠密としては凄腕だったそうで、有名な話がいくつか残っている。

南国薩摩は非常に出入りの難しい国だったことが知られており、幕府の探索が行っても帰ってこないことが多かったといわれます。
「生きて帰らぬ薩摩飛脚」なんて言われる。(※”行きて”か”生きて”かよく分からん)
間宮はいきなり薩摩の国境を超えることはせず、隣国の経師屋(表具師)に弟子入りし、その親方が薩摩のお城に仕事で入ることになった時について行った。

そして時間が経過。
薩摩の殿様が江戸で幕府の人間と話している時、あんたの所の城、こうこうこうなってるだろう、と城内の事を詳しく話し出して薩摩の殿様はメッチャびっくりした。
なんで知ってるの。
そうしたら幕府の人間は笑って、
「あそこの襖の下を見たら分かるよ」
殿様が帰って襖紙の下張を確かめると、間宮林蔵の名刺が挟まれていた。
そういう話。


また同様に有名な話ですが、この薩摩への往路、間宮は浜田藩(島根県)を通った。
その際国産でない物品を見つけて地元の人間に問い質したのですが、その答えに「ん?」と思うことがあった。
当時、浜田藩は藩財政の立て直しのために密貿易を行っていました。
竹島(現鬱陵島)を介して清国、朝鮮、果てには東南アジアの国々とやり取りしてたようです。
勿論ご法度ですな。
密貿易といえばこれまた薩摩が有名ですが、そもそも間宮の薩摩行きもこの密貿易の探査のようだったみたいだし。
不審を感じて幾らか当たってみたもののよく分からず、更には別命もあるためそのまま九州に下ったのだけれど、復路に大阪町奉行所に寄った。

当時の大坂町奉行は矢部駿河、矢部定謙でした。矢部定謙でした!(いい笑顔)
「浜田藩、ちょっとおかしい。気を付けた方がいい」
そう間宮に教えられた矢部は浜田藩の調査を開始し、密貿易が露見。
当時老中であった藩主は蟄居、藩は転封処分となっています。(竹島事件)
(素朴な疑問なんですけど、これなんで町奉行が探索なんだろう…大目付とか勘定奉行の所管じゃないのか…)


隠密として3年ほど行方不明とか、え?と思うような話もあります。
流石に上役も困ったらしい。
部下にも拘わらず間宮に「先生」をつけて呼び、尊敬をもって接していた川路聖謨が随分「今どこにいるの?」とか聞いてたらしいし。
死んだんじゃないかとか心配するわー^^;

また隠密として行動する時は乞食の格好をすることもしばしばで、薄い着物で荷物もなく、それでも路銀として100両は持っているので、これを隠すのに随分苦労したらしい。
上役の家に物乞いとしてやってきて、そんなことを知らない家人が本物の物乞いだ、狂人だと咎めるようなこともあった。
後者は上役本人から渡辺崋山が直接聞いた話。


シーボルト事件で人が離れていったと書きましたが、それでも間宮林蔵に一目置き、付き合いを続けた人物がいる。
その最たるものが水戸の徳川斉昭、藤田東湖であり、幕臣の川路聖謨でした。
ロシアへの備えを忘れなかった人々。
いやー…
みなさんすでにお気づきだと思いますが、藤田東湖と川路聖謨、ほっんとうにどこにでも名前出てきてます。笑
幕末よりも少し前の歴史を追おうと思うと、特に川路を見ていたら大枠はわかる気がする。
川路を追えば明治維新まで追えるかな~


間宮は晩年は深川に居を構えていまして、本人の人嫌いも手伝って人的交流は繁くはなかったようですが、そこに佐久間象山が訪ねてきたことがあるそうです。

佐久間象山、信州松代の出で、藩主に非常に目を掛けられていました。
藩主真田幸貫は松平定信の次男になります。
天保の改革の際に老中に抜擢され、更に海防掛に任じられている。
その関連もあり、高島秋帆の高弟であった江川太郎左衛門に高島流砲術を伝授して欲しいと川路聖謨を通じて佐久間以下松代藩士の入門を願っています。
天保13年ごろ。

佐久間と川路は個人的な繋がりがあったみたい。
佐久間は天保10年に江戸に象山書院を立ち上げますが、その頃に知り合ったようです。
象山書院は儒学系の塾でしたので、儒学者繋がりではないかと想像…
佐藤一斎とかさー古賀侗庵とかさー


佐久間象山


そういうこともあって、佐久間は川路を通じて、間宮と先代からの誼がある江川に面会を依頼した。
江川はとりあえず間宮家に足を運んで佐久間面会の可否を伺ったものの、答えはNO。
やっぱりねー
迷惑だから来るなって言われるの、江川も大体想像できてたんじゃないかと思うんだけど…(笑)
でも川路からの頼みならなあ…

ただ、象山はそんな先方の気遣いも断りも全く無視して間宮家を訪れています。
仲介を頼んだ意味って何だったの。
間宮も間宮で、他ならぬ江川からの頼みであるから、無下に追い返すこともできなかった。
…顔を潰された江川の苦々しい顔が目に浮かぶようだ…

しかしこの話、江川の学術書1冊でしか確認したことがない。
一応間宮林蔵、川路聖謨、佐久間象山の伝記も確認したのだけれど…
多分江川の話として伝わってるんだろうと思う。


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拍手いただきました方、ランキングクリックしてくださった方、ありがとうございました^^
3年前のちょうど今頃、前のブログで「Strings」いう江戸時代の人物数珠つなぎの連載をしていました。
前野良沢、杉田玄白らの解体新書組から工藤平助、林子平、桂川甫周、大槻玄沢、大黒屋光太夫といった人々が出てくる、今の連載の濫觴になる話でした。
あれをどう繋げていこうかと考えている内に連載がとまってしまい、今に至っています。
地震を挟んでの連載で、東北の人物が割と出ていたこともあり続きが読みたいとおっしゃってくれた方もいて、この話はこれまた途中で終わった「お奉行様!」以上に気になってました。

先月アップした「お奉行様!」ですがこれが、これから、という時に連載が切れています。
個人的に触れたかった矢部駿河の事も大塩平八郎の事もない、それがすごく残念で、せめてちょっとだけでもブログで書いてやろうと。
初めはその位の気持ちだったのですが、彼らを触るとなると必然的に江川太郎左衛門や川路聖謨、そしてその周辺の人々のことも触るわけで。うん。
あーこれ「Strings」の続き書けってことかなと。
書いているのは自分なので変な言い方ですが、なんとなくそんな風に感じたんだなあ…

江川や川路といった方々、私が考えていた「Strings」の話の終着地に近い所にいらっしゃる。
本当は連載が止まったあたりからは岩手水沢出身の高野長英に話を繋いでもらうつもりで、幕臣の人々の名前がここまで飛び交う予定はなかったのだけれど、それもまたいいかと話を前に進めていくつもりでいます。
この前林子平の話が出た段階で気づかれた方もおられたかもしれませんが、前ブログでは海国兵談から江川太郎左衛門、渡辺崋山、高野長英に持っていこうと思ってた。

大体どんな感じで話を進めるかはぼちぼち考えていますが、まあ…
東北で、うまく纏まればいいなと。
今の所程遠い感じですが、ちゃんと繋がりますので。

震災については色々と思う所がありますが、どんな言葉を書くより話を進めて終わらせることが今このブログでできることかなーと。
そんな感じですので、暫くの間よろしくお付き合い願えれば幸いです。
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Comments

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2014-03-12 01:22 
ジゴロウ #29
結果論にもならないかもですが、この当時の偉人たちって、幕末まで生きてれば、対外政策とかは特に違った流れになった気がするんですよね…

もしくは後進をしっかり育て切れていれば…

間宮のお墓は深川にもありまして、この間お参りしてきました。
質素というか、分骨だからでしょう。
2014-03-12 05:52  >ジゴロウさん
ヒジハラ #30[Edit]
>幕末まで生きてれば

本当にそう思います。
この時代の開明派の人々は色々な点で優れた人が多かったように思います。
川路や江川は知識や態度で外国人を感服させたりと「人物」として通用する人物でしたが、こういう人材が数少ないというのはなかなか…
後継者を作るにしても、幕府のとろくさい対応でスムーズにいかなかったというのが大きかったんじゃないかと思います。
関係者がヤキモキしてもぎりぎりの段にならないと、中々動かないorz
対外政策や軍の刷新という点では、天保の改革がダメになったのが本当に後世に響く大痛手でした…
本当に、鳥居の為に…

間宮の本墓は生まれ故郷の茨城県にあります。
深川の方はジゴロウさんが仰るように分骨で、歯だけのようです^^
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