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ダイバーシティ

秋山真之繋がりです。
先日こういう本を見つけまして。


父・山本信次郎伝


『父・山本信次郎伝』。
これだけでは誰か分かりにくいですが、山本は海軍軍人で最終は海軍少将。
海兵26期で、同期に小林躋造、野村吉三郎、清河純一、匝瑳胤次、南郷次郎、樺山可也といった錚々たる顔ぶれ。
水野広徳も同期になります。

今迄ブログ/サイトどちらかで触れたことがある気がしたのだけれど、気がしただけでした。
今村信次郎の方だった。笑


三笠艦橋の図
これな。


今村は日本海海戦時三笠乗組みでしたが、山本信次郎も三笠乗組み。当時大尉。

日本海海戦が終了した後、ロシアの旗艦ニコライ一世に秋山真之が軍使として派遣されますが、それに随行したのが山本になります。
そして東郷平八郎が佐世保の海軍病院に収容されたロジェストウェンスキーを見舞に訪れた際、随行したのが秋山と山本のふたり。


軍使の随行に山本が選ばれた要因のひとつは語学力の為だと思われます。
特にフランス語に堪能であった為かと思われる。
まあそれだけが理由かどうかという所はあるけれど、通訳として随行者として選ばれていたのなら「要因のひとつ」ではなくて「語学力の為」だろう。

フランス語に関してですが、当時のロシアでは、外国人がロシア貴族と付き合うのに仏語が話せることは大変なアドバンテージであったそうです。
その為、明治30年代初頭に露国公使館附武官であった八代六郎が広瀬武夫に仏語の勉強も勧めていたのですね。
しかし広瀬がどれほど仏語をものできたのかは謎。
「し始めた」という程度の記録しかないのを見ると、大して上達しなかったのではないかと思われます…


旗艦ニコライ一世の司令官ネボガトフ少将が降伏の意を示した後、山本は加藤友三郎参謀長、伊地知彦次郎三笠艦長に呼ばれます。
要件は秋山参謀と共にネボガトフ少将と会見、東郷司令長官の命令を伝達した後、三笠に連れてくるようにというものだった。


日露戦争、連合艦隊幹部


秋山・山本の両者がネボガトフと会見した際、先ず秋山が英語で東郷の命令を伝えたそうです。
然しそれが中々伝わらず、秋山は山本に交代させた。
初めは山本も英語で伝達していたが、その内仏語の方が伝わることに気が付いたと、本人が回顧しています。

山本、八代の後任露国公使館附武官である野元綱明から、ロシアのフランス語事情を聞いていたのですが、ド忘れしていた模様。笑
数百名いる敵艦に秋山とふたりで、ほぼ丸腰で乗り込む事になり、これは何かあったら死ぬかなという覚悟があったそうなので、そこまで気が回っていなかったっぽい。

続きます。
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Comments

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2017-05-01 01:36  同期の絆
MV #523[Edit]
水野広徳の昭和14年9月21日の日記には、
「午後一時ヨリ級友山本信次郎氏ヲ訪ヒ(牛込区田町)ノモンハンニ於ケル愛息ノ戦死ヲ弔問ス。」
という記述があります。
「山本信次郎氏」とは他人行儀なようですが、水野は家族ぐるみの付き合いであった野村吉三郎さえ日記では氏を付けていますし、級友と書いているのですから隔意があったわけではないでしょう。

水野は人生半ばで反戦主義の評論家という、軍人とは相反する道に進んだわけですが、それでも同期たちとは変わらず友人。
普通に考えれば、敵対陣営(?)に行った相手とは縁が切れそうなものですが、海兵同期の絆というのは強いんですねぇ。
2017-05-01 07:44  >MVさん
ヒジハラ #524[Edit]
財部彪も日記では同期に氏をつけていまして、当時の感覚としては余程親しくてもそういうものだったのだろうな、という感じがします(それに「氏」に対する感覚が今と当時とでは少し違いそうかなというのも…)。

海兵同期の絆は血よりも、なんて言いますが、道に分かれてもそういう気持ちは途切れないんですね。
水野の場合は単に「海軍を辞めた」というよりかなり厳しい状況ですのに、余程だなあと思います。部外者からは中々推し量るのが難しいものだなあと。

山本の長男が戦死したという記述が伝記にはあったのですが、ノモンハン事件だったのですね。もう少し後の話かと思っておりました…
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