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秋山真之の書簡(続)

昨日の続き。
大正5年末から6年の秋山真之と言えば、大本教と出会ってのめり込んだ時期になります。
当時、秋山と初対面を果たした大本教の幹部、浅野和三郎による秋山の印象は以下(詳細は「Changing ~ 秋山真之と大本教」をどうぞ)。


頭脳の働きの雋敏鋭利を極わめ、為めに停滞拘泥することを嫌い、自分が善と直覚するものに向かって、周囲の一切の顧慮を打棄てて勇往邁進する勇気にかけては、確かに天下一品の概を有して居た。

一つの仕事をして居る中に、モウ其の頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居るといった風で <略>


こちらのパンフに載っている平岡宛書簡では体調が悪く2・3日療養していた旨が書かれていますが、6月の前川宛書簡でも「出勤できるようになったら」という一文がある。

パンフによると秋山は大正5年頃から体調が思わしくなく、翌6年春からは通常勤務が難しくなっていたとあります。
秋山は6年5月に盲腸炎で入院し、7月中旬には第二水雷戦隊司令を免ぜられ将官会議員に補されている。
将官会議員はまあ閑職・名誉職ですので、病気療養のための陸上勤務ですな。
勤務ちゅうてもほぼ勤務あるかないか…
まともに働けない状態だったと思われる。


秋山真之


浅野の言に「頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居る」とありますが、6月の前川宛書簡は
既に水雷の話ではなく、飛行機に搭載する機雷の話になっております。
機雷とか小魚雷と書簡には書いてあるのだけれど、要するに爆弾のことだろう。


前川義一の当時の所属は横須賀海軍工廠造兵部になります。
造兵部は海軍の兵器製造部門。
技術畑方面に強い方であったのか、ご子孫様によると、無線電信の開発にも関わっておられたそうです。そうなんだ。
無線電信と言えば木村摂津守(大好き)の三男・木村駿吉博士が海軍の懇望と言う名の無茶振りに応えて日露戦争までに開発、実用に漕ぎ着けており、その木村に日露戦後、秋山は感謝を記した書簡を送っている事が知られています。

今回の2通の書簡を見れば、前川から考案書を送っていたり、秋山から兵器について具体的な改良案等を意見していたり…
前川氏、兵器を初めとする技術方面で秋山と結構関わりがあったのではなかろうか。


しかし飛行機か…
日本の海軍機というと昭和に入ってからの印象が私は強いのですが、実は結構古くからあり、この大正6年の時点で既に帝国海軍には実戦経験者がおります。(大正3年青島攻略戦)
満喜の弟よ!(誰やねん
明治42年の気球研究から始まって45年には海軍航空技術研究委員会が設置され、同年の観艦式と海軍演習では既に飛んでいる。その時点でたった数基(1桁…

大正3(1914)年夏に始まった第一次世界大戦で現れた新兵器には戦車、毒ガス、潜水艦、機関銃等が挙げられますが、飛行機もそのひとつ。
戦争開始当初は偵察を目的として利用されていましたが、その内相手の偵察機の邪魔をするとか、敵地に手榴弾を落とすとか…
終いには敵地を爆撃、敵軍機を機関銃で攻撃といった爆撃機、戦闘機への発展を遂げるようになる。


つ、つづく…(ごめーん!
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