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(2)江川太郎左衛門と斎藤弥九郎と桂小五郎

題が長い。

江川太郎左衛門の剣術の兄弟子、そして江川が韮山代官を継いだ際にその手代となった斎藤弥九郎。
この江川と斎藤は深い信頼で繋がっていたようで重要な場面での連係プレーが見られます。

例えば先日書いた大塩平八郎の乱の際。
噂は関東に流れてくるけれど、実際の所はどうなのかと江川が大阪に派遣したのが、この斎藤でした。
天保の大飢饉の頃、民情視察として甲州に微行した際に行動を共にしたのも斎藤。
高島秋帆の徳丸ヶ原での砲術演習を見学した際にも、江川が伴った部下の中に斎藤が入っており、後に高島門下に入門している。
品川のお台場造築の際、実地検分から工事指揮に至るまで、江川を補佐していたのも斎藤でした。


斎藤弥九郎は「幕末の高名な剣術家のひとり」、「練兵館の道場主」という印象が強いです。
幕末維新期に興味を持っている方の、恐らく殆どがそうだと思う。
私も中々そうした印象が拭い去れないのですが、こうして見ると、実際には江川の補佐役・相談役の方が本筋だったかと思われます。
斎藤のとある一部分だけが有名になりすぎたんじゃないかなあ…
「一介の剣術家」というだけでなかったのは確かだと思う。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140306135223ca9.jpg


斎藤道場には長州藩の子弟が多く通っていました。
二代目の斎藤弥九郎(新太郎)が諸国を回って修業していた際、萩にも立ち寄っています。
強かったらしく、いくつかの藩で神道無念流が正式採用されていて、いくらかの経緯を経て長州藩でも採用の運びに。
確か後年江戸の長州藩邸にも剣術指南で出入りしていた。

で、斎藤新太郎が再度萩に来た際、優秀な若者を江戸に出して修業、他藩の士とも交流させろと藩に進言。
その時に藩の人選からは漏れたものの、自費留学するということで江戸に出たのが桂小五郎、後の木戸孝允になります。
それが嘉永5(1852)年のこと。

泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず

そう狂歌に詠まれた黒船来航は翌年の嘉永6(1853)年で、桂が江戸に出て間もない頃だったんですね。


江川太郎左衛門は先日書いたように川路聖謨を通じて老中水野忠邦に抜擢された人物です。
上知令(天保の改革の重要項目のひとつ)の失敗で水野は失脚しまして、水野派と見られていた江川もその煽りを食い、その後10年程は重用されずにいます。
とはいえ無為に過ごしていたわけではなく。
江川はその間海岸防備についての建議を度々していた為、それが幕閣の海防への認識を深めることになり、海上の要衝・下田の警備を任されることになった。
それがペリー来航の2・3年ほど前のこと。

ペリーがやって来たのが嘉永6年6月3日。
江川はその後すぐに江戸に召し出され、勘定奉行川路聖謨の配下となり、品川のお台場築造を任されることになる(更に後日海防掛に任じられる)。
起工前に台場築造の場所の検分や測量を行うわけですが、桂は斎藤弥九郎に頼み込み、数十日間江川の従僕としてそれに参加した。

勿論身分を隠してであり、江川もそういう人物は加わっているとは知らなかったようです。
ただ非凡なのがいるな、とは思っていたようで、それは江川の長男が後に語っている。
そしてこの検分と同年のようですが桂は江川の塾に入門し、西洋砲術を学ぶことになります。
江川塾の門下生には大山巌や黒田清隆、大鳥圭介といった人物がいたことは知られていますが、この人たちは江川没後の入門者になる。

江川家と桂小五郎の縁はこれだけでは切れませんで、江川の嫡子を岩倉使節団に参加させたり、娘を養女として同じ長州人河瀬真孝と娶せたり。
桂が木戸孝允と名乗るようになってからも続いています。
それなりの恩義を後年になっても感じていたようです。


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