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矢部定謙と大塩平八郎(3)

矢部定謙と大塩平八郎の話、続き。

矢部は旗本でして、最終的には旗本の出世街道の頂点、江戸の町奉行にまでなっています。

今まで何度か書いてきましたが、町奉行は職掌が広かった(今で言う東京都知事、最高裁判所長、警視総監、消防署長、東京駅の駅長などを兼任)。
江戸の対町人の行政を一手に引き受けるだけでなく、町奉行は幕閣にも参画しており、言ってみれば東京のトップでありながら国務大臣も兼任していたことになります。
町奉行は老中の腹心になるわけで、有名な人物としては8代将軍吉宗の時代の大岡忠相なんかが挙げられる。

お奉行様は朝10時から昼過ぎは江戸城に詰めて国務大臣としての仕事をします。
幕末にお奉行職を務めた人の話によると、どう頑張っても城から下がるのは昼2時頃になる。
そこから奉行所に帰って都知事+αの仕事が始まり、就寝が深夜に及ぶのも珍しくなかったといいます。
お察しの通りめちゃくちゃ忙しく、過労死の多いこと。
町奉行在職中に亡くなった人は、町奉行経験者の約2割に及ぶ。
仕事量も多く、携わる仕事も重要であり、町奉行職は能力主義であったといいます。
流石にぼんくらでは勤まらなかった。

しかしながらいくらぼんくらでないといっても、しかるべき役に就くのは結構大変なわけです。
当時は往々にして家柄>才能なもんで…
貧乏旗本だったりすると小普請組とか言って、そもそもお役につけないことも多い。
勝海舟の父勝小吉は小普請組で、そこからなんとか抜け出ようと運動するわけですが、うまいことは行かなかった。

矢部もステップアップするために賄賂を使っています。
矢部自身が300俵の番士からここまでの出世できたのは賄賂を使ったからだと友人藤田東湖に語っている。
書いておくと、当時、善悪は別にして賄賂の風習は普通にありました。

出世するには、才能に加え、好むにしろ好まぬにしろ色んな事をしないと難しかったんだろうとは思います。
先日大塩平八郎が矢部の告発文を書いている旨を書きましたが、どの程度までが真実なのかとは思うけれども、全くの事実無根とも思われない。
それをやや極端な大塩がどう見たか、というのは考証の必要があるとは思うけれども。
剛直な人ではあっても、現在世間一般で言われている程の清廉潔白ではなかったんじゃないかなー。
川路聖謨や藤田東湖らの矢部評に偏りすぎている嫌いはあるんじゃないかなー。
…なーんて。
どちらかが嘘を言っているとかではなく、どちらの面もあったんじゃない?
良い面もあれば悪い面もあっただろ、という感じはする。


大塩平八郎が江戸の老中に宛てた告発文・建議書。
大塩が大坂町奉行所の不正を書き連ねて江戸表に送ったということは大坂町奉行所が知る所となり、既に江戸に到着していた書簡をすぐさま大阪に返送するようにと手を打った。
しかしながらこの書簡、返送の途中で盗難に遭っており大阪に戻ることはありませんでした。


それを奇しくも手に入れた人がいる。
韮山のお代官、江川太郎左衛門。

//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0020.jpg

発見されたのが韮山代官の管轄下だったようで、江川の元に届けられた。
何かと思って内容を見てみたら、幕閣のお偉いさん方の不正告発であったわけで、流石の江川も相当驚いたと思われます。
うん。
というか、江川自身も老中水野忠邦とは近い関係ですし。
つーか水野は江川の上司だよ…^^;
これらの書簡、江川から幕府に提出されたようですが、まあ普通に考えて握り潰しです。
なかったことになった。
そんな告発状や建議書の存在がなぜ分かっているのかというと、提出前に江川が写しを取っていたからで江川家文書の中から出てきているんですな。
矢部は江川から告発状の内容について聞いていたようです。
自分が弾劾されているのも、勿論知っていたことになる。


大塩平八郎の乱は半日程で簡単に鎮圧されました。
ただ、大塩軍が大砲や焼夷弾を天満の与力役宅に打ち込んだ為、天満一帯、更に船場へと火が広がり、大阪キタは火の海に…
この時起こった火で大阪の5分の1が焼けたと言われ、鎮圧の易さに比せず被害は甚大だった。

首謀者である大塩平八郎と養嗣子格之助は戦線を離脱しております。
1か月程探索の目を逃れて潜伏していたもののとうとう見つかってしまい、しかしながら捕縛される前に自刃、その場を焼いています。
当然遺体は焼けて、人相が分からない状態になった。
自刃したのは本当に大塩親子だったのか、いやそうじゃない。実は替え玉で、実は生き残って…
そういうことが囁かれるようになり、あっちに大塩さんが出たとかモリソン号に乗ってきただとか、そんなことが言われるようになった。

乱が早くに鎮圧されたのは、大塩の門弟が奉行所に密告したからです。
これだけを書くと「この裏切り者ー」という感じですが、どうやら町を焼き払うことで関係のない庶民が巻き添えを食らう、そのことについて疑念を持ったかららしい。
それはそれで人として正当な理由だと思うなあ…

確かにこの乱のせいで、米価は更に高騰(※大飢饉中)、家は火事に遭い焼き出された庶民がかなり出た。
ただ、そんなことになっても「懸賞金が上がっても大塩さんを訴人にされようか」と歌われたように、大塩を恨む声はなかったといい(流石に皆無であったとは思わないけど^^;)、そう言い伝えられる位の好意を大阪の庶民からは抱かれていたんじゃないかと思います。


大塩平八郎_墓所
大塩父子のお墓


大塩に対する判決が出たのがその更に1年後。
その時の際の判決文にはかなり侮辱的な文言があり、それが養子の許嫁と姦通していたというもの。
これは心ある人々からは大分顰蹙を買っていますが、矢部もそのひとりになります。
尋問して話を聞いたわけでもなく、まして自刃した大塩にこんな罪状を与えるのは公のお裁きとは言い難い。
そう藤田東湖に漏らしている。

大塩の乱の当時矢部は勘定奉行でした。
三奉行(町、勘定、寺社)のひとつで、こちらも幕閣の重要な役職のひとつ。
どうもね、そこで随分大塩を擁護していたみたい。
幕府は大塩を反逆罪に問おうとしたが、矢部は幕府への忠義心から出たものであるから反逆ではない。大不敬罪にすべきと主張した。
随分罪人の肩を持つじゃないかと重職連中からも謗られていたようです。
勿論といいますか、矢部の意見は聞き容れられなかった。

上記した通り矢部は知っていた筈なんですよね、大塩が自分のことをどう書いていたか。
普通できることじゃないと思います。
しかも勘定奉行の後の異動、あれは左遷だと思うなあ…
多分この時の主張が影響していると思われますが、どうだろう。

一般的には、どちらかというと、いい面ばかりが強調されることが多い気がする矢部駿河。
調べてみると色んな側面があるな、と思いつつ、こういう所を見ると、流石に同時代の名の知れた人々に評価されただけの人物だなと思うんだなあ。
確かに剛直という言葉がよく似合うと思うよ。
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