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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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サイト更新 閻魔4(海軍)

サイト更新。

■近代 【 閻魔 4 (海軍) 】

あと2・3話続くと書きましたが、これで終わることに。
いつも通りのちゃらんぽらんで御座候
本日日中書上候者是非共御一読可被下願上申候(誰やねん

2回に分ける積りが、分ける事に意味を見出せず(大袈裟)、ひとつに纏めた処結構長く…
しかも文字ばっかである。
なけなしの山口多聞の写真。
だらけて眠る家の犬の写真でも張ろうかと思ったのだけれど、流石に思い止まりました。
クーラー付けてない部屋に長時間いると酷いことになりますな。


前回に引き続き、海軍の考課表の話になります。
今回紹介している話は昭和期の話になります。
恐らく大正頃からああいった感じであったのだろうと思うのだけれど、広瀬武夫が生きていた頃はまだあんな整った感じではなかったのではないかと思う。

明治30(1897)年では海軍省人事局ではなくて海軍省人事課ですし、課員なんて課長を含めて4人、軍属入れても10人(人事局になるのは33年)。
士官も大正・昭和期と比較すると少ないし、それでも十分回ったんでしょう。

考課表自体は明治23(1890)年からあるもので、その後何度かの改正を経て昭和3(1928)年改正のものが最終。
なので広瀬も上司より考課表を作成されていた筈ですが、それが前回サイトで上げたような内容かどうかまでは調べてない。
もう少し簡素だったのではないかと想像。

とまれ海軍の人事評価については称賛も多いし、否定的意見も多い。
何年か前に簡単に読んだ『海軍反省会2』で印象的であったのが、
先の戦争が終わる頃にペーペーだったり中堅だったりした士官からは人事に対する不満は殆ど聞かなかったという旨の話があったこと。
配員配置に関しては多くの人が納得していたようだし、公正だと見ていた感じ。

その一方で山本五十六や黒島亀人、山口多聞等の指揮官、参謀などの高級人事については、海軍反省会に限らず批判が多い。
戦時という非常時に平時のルールに縛られすぎた硬直性…
誕生から70年近く経つとそんなものなのか。
米軍がやってのけた大抜擢人事を見ると、民族性がありそうだなとは思います。


当時の上層にしっかり戦争を経験していた層がいなかったというのが一因としてはありそうかなとは、個人的には思う。
山本五十六でも日露戦争の時に少尉候補生なんでなあ。

日露戦争の時は、10年前に日清戦争時に、軍事行政の中枢にいた、又はばっちり現地部隊の指揮を経験した層がそのまま据え置き/上層にスライドしている。
赤煉瓦であれ現場であれ、「経験者がいる」事は、本当に何事にも代えがたいことであったと思います。
(実際15期近藤常松も日露戦争時(駆逐艦艦長)の体験を30年後に回顧して歴戦者は尊重すべきと同趣旨の話をしています)

第1次世界大戦(1914-8)で海軍は地中海迄赴いているけれども、やっぱりどこか遠い国の話なんだよなあ…
そのなけなしと言っていい程の戦争体験から太平洋戦争(1941)までは24・5年ある。
日露戦争からは34・5年…

伊勢神宮の式年遷宮は20年に1度ですが、20年という間隔には技術の継承という面もあるのです。
20年なら、まだ前回の式年遷宮の経験者が生きていて、且つ引き継げる。
24・5年、ましてや34・5年の歳月というのは、経験を引き継ぐにはもう無理なんでしょうねえ…

現場指揮の話だけではなく、軍事行政についても、まだ引き継がれる経験があれば「こういう時はこれではだめだ」と根本的な問題を解決できる一助になったのでは、とも思うのよ。
まあ、他にも多様多種の要因があると思いますが。
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