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サイト更新 広瀬武夫人物関連数珠繋ぎ13

■サイト更新 広瀬武夫【数珠を繋ぐ13】

第13回。
内田良平(柔道)→末永節(扶桑)→国木田独歩→押川春浪→
川上俊彦・常盤(汁粉)→生方敏郎→広瀬中佐銅像→辰野隆→
上泉徳弥→財部彪→田中義一→江頭安太郎・安保清種→三宅雪嶺→広瀬武夫


前回のサイト更新時にも書きましたが、江頭・安保・三宅のセットで扱うつもりが、思いの外三宅雪嶺が長くなってしまい…
というものです。
今回はちょっと短め。

『広瀬中佐壮烈談』という戦前に出版された本があるのですが、それに三宅の広瀬武夫人物評が載っている。
原文を探しまして『断雲流水』までは突き止めた。
この本、志賀重昴との共著になります。
出版年と共著者を慮るに恐らく『国会』(新聞です)に掲載されたのではないかと思うのですが、それ以上は分からなかった…

今回テーマにした広瀬武夫『航南私記』の舞台になった明治24~5年の遠洋航海(海兵18期)時には民間人が数5・6名程便乗しており、三宅雪嶺はその内のひとり。
当時の農商務大臣榎本武揚が植民に意がありその旨を承けたとのことで、探検に志あるものが便乗を許されたそうです。

その中に松岡好一という人物がおりまして、三宅と同じくジャーナリスト。
三菱の高島炭鉱における労働者の非人道的な労働状況を『日本人』で告発したところ、当時『朝野新聞』の記者であった犬養毅がこれに反論、決闘を申し込んだことがある(この時の介添人が三宅と志賀でした)。
決闘には至らなかったのですが、周りを巻き込んで結構な大論争になった。
日本では明治22(1889)年に決闘が禁止されるのですが、この事件が法律制定の一因になったそうです。


この松岡氏ですが『航南私記』にも名前が見えておりまして、それがオーストラリアで行方不明になったという内容。
出身地安曇野市の説明によると、


南洋航海後に、シドニーで在留邦人の相談相手をして領事館の必要を感じ、
政府に設置要請をするために帰朝し、領事館はタウンスビルに設置されました。
木曜島で日本居留民団長となり、香港で宮崎滔天・平山周等と中国問題を討議し、旅館「日本館」を経営し日中親善に努めました。
台湾では総督の依嘱を受け、機密通信事業に従事して政治活動を行いました。
1916年(大正5)、日刊新聞「南国報」を発行するため、一時帰国しましたが、翌年の 1917年(大正6)、神戸にて病気のため亡くなりました。


ほう…
ただ三宅雪嶺の話によると(思ひ出す人々)、


メルボルン上陸後、或る日本人に文身術を習ひ、これを土地の人に施し、失敗して木曜島に逃げ、真珠採取者の間に斡旋した。


なんかエラい話が違うんやけど。笑
そしてメルボルンではなく正しくはシドニーです。

しかしながら少尉候補生として参加した安保清種も三宅と似たようなことを書いているのですね(銃後独話/昭和14年)。

安保曰く、当時海外渡航はお金もかかる上旅行免状など色々と手続きも面倒だった。
そこで軍艦に便乗してオーストラリアに到着したらどこかで逃亡しよう、それが便乗者の魂胆だったとある。
おい。笑
もっとも逃亡と言っても全然行方不明という訳でもなく…
安保は上陸した時に逃亡組が間借りしているアパートを訪れた。
彼等はオーストラリア人に内地で覚えて行った刺青(簡単なもの)を施して生活していたそうです。
珍しいから結構儲かっていたらしい。
彼等は訪れた安保に


「中々儲かつて面白いですよ」
と笑つて済し込んで居る逃亡組には私も笑つてしまつた。
明治二十四年の事であり、のんきなものだと、今でも、をかしく思ふ。


大らかで逞しいですな。

実際に逃亡したのは松岡ひとりですけれども、シドニー滞在は明治24年12月9日~29日。
そこそこ期間があるので、色々あったのではないかと思います。
しかし少尉以上の人々が全くこのことを知らなかったとは思えないのだけれどなあ…

しかし安曇野の「南洋航海後に、」の説明…
この書き方だとちゃんと日本に帰ってきてからまたオーストラリアに行ったみたいじゃん。笑。

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