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今日の財部日記(10) 伊木壮次郎6

日本郵船ウラジオストク支店開設が明治29(1898)年4月。
ウラジオに派遣されていた伊木壮次郎が一時帰国したのが明治29年6月(伊木壮次郎2)。
再度ウラジオに派遣ということで、無記名パスポートが申請されたのが同年9月11日。

②9/11 玉利軍令部副官→三須人事課長 (伊木壮次郎2参照)
海軍大尉伊木壮次郎嘗テ秘密御用ヲ以テ露領浦潮斯徳ヘ出張ノ処
去ル六月命ニ依リ帰朝之際旅行券ハ同所貿易事務官ニ於テ取リ上ケ相成候
就テハ今般ハ用済再ヒ同地ヘ出発致候ニ付 <以下略>


そもそも官民問わずウラジオにあった出先機関は軍事スパイのたまり場だったんじゃない?^^;


上引用の2行目に「貿易事務官」とありますが、ウラジオの貿易事務官といえばかなり馴染みのある名前も出てきます。
それが外務省の川上俊彦(かわかみとしつね)。

経歴を見ると、明治23~24年に浦潮港貿易事務官として勤務、25年に公使館書記生としてロシア在勤。
33年からまたウラジオの貿易事務官。
日露戦争前日本はウラジオに領事館を置くことが許されておらず、代わりに置かれていたのが貿易事務館になります。

ロシア駐在を終えた広瀬武夫がシベリアを横断してウラジオまで辿り着きますが、その時に滞在したのが川上の家でした。
川上は忙しかったようで、主に新妻常盤ちゃん(※結婚1年目)が広瀬の接待をしていた。
常盤ちゃん広瀬にスマートにエスコートされたりして(マジか)、危ない所を助けてもらったり、この人は自分の守護天使か何かかと思ったらしいよ。けっ(こら
3人で写っている写真もあります。サイトに転がってますのでよかったら探して(丸投げー

日露戦争中は満州軍総司令部附になったりしている。
そして有名な写真がこれ。





後列左端。
乃木希典とステッセルの水師営の会見の通訳をした人物です。
また伊藤博文が暗殺された際も側におりまして、流れ弾にあたっている。

川上は戦後に海軍から表彰されているのですが、その理由がウラジオ地域における諜報活動(明治30年代)。
日露戦争直前のロシア太平洋艦隊の動静についてだったり、ウラジオ軍港の要塞の状況を諜報員を使って情報収集していた。
海軍はこういう事が余り得意でなかったのか、外務省に頼むことが多かったみたいですね。
陸軍は自前でやってるんだけど…

こういうこともあって、川上、伊木壮次郎の事を知っていたのじゃないかと想像。
明治29年時点で川上がロシアいたのか、ちょっとわからないのですが、それでも名前くらいは知っていたのではないかしら。
手元に部分的にある川上の追悼録にはそういう話は勿論載ってはいないのですが。


 29年8月10日 海軍大尉伊木壮次郎転地療養の件
 29年9月11日 海軍大尉伊木壮次郎露領浦塩斯徳出張旅行券交付の件
 29年12月9日 海軍大尉伊木壮次郎転地療養願の件
 30年1月19日 海軍大尉正七位勲六等伊木壮次郎特旨進階ノ件

伊木のパスポート申請が9月11日で転地療養の申請が12月9日(伊木2)。
12月初旬にウラジオに渡っていたとして、亡くなったのが1月20日なら…

諜報活動で得られたもの、特にはなかったのではないのという気がする。
…外務省に頼んだ方が良かったのでは… (禁句
(『東亜先覚志士記伝』では1/20とありますが、実際には1/19だと思います)

伊木には壮之助という弟がおり、兄の非業の死を知って(どうやって…)台湾総督府勤めを辞め単身シベリアへ。
ロシア語を修めて、日露戦争時には第3軍のロシア語通訳になったとある(『東亜先覚志士記伝』)。
あら、ま。(乃木軍=第3軍…^^;
なんだか色んな所で接点が出てくる訳です。
世間狭くて恐ろしい。

伊木、ちょっと調べてみて思ったのは、石光真清的なニオイがするって所でしょうか…
要するにこれ、使い捨てじゃない?
派遣先で殉職しても公にできない職務に従事しているから、亡くなった理由も公表されない。
表彰もされない(ひょっとしたら恩賞もなかった可能性が…)。
他に海軍軍人でこういう職務に従事していた人っているのかしらと思うのだけれど。


伊木の訃報が入った時の記事、財部日記にはあるのではないかと思う。
ただ私が複写したのは明治30年3月からなのですね。くそう。
5月中旬に式を挙げた新婚の財部夫妻は墓参のために都城へ帰郷、その後鹿児島にも足を延ばしているのですが、

6月5日 夕知識氏ト同道故伊木壮次郎兄ノ墓ヲ訪フ
6月6日 午前来客ニ接シタル後喜入氏ト同道伊木氏ヲ訪ヒタリ
6月8日 伊木壮次郎君ノ墓ヲ詣ヅ

とある。
伊木氏を訪れたとありますが、実家だろう。
『東亜先覚志士記伝』の記述が確かなら当時伊木壮之助は台湾にいる筈なので、応対に出たのは親かその他兄弟かな。
日記には訪問時の内容は書かれていないけれど、どういう話がされたんでしょうねえ。


山本権兵衛長女との縁談が持ち込まれた時、財部はその場で即座に断った。
しかし話を持ってきた上村彦之丞はその後も中々納得してくれなくて、それを突っぱねるために同期の向井弥一や広瀬武夫を巻き込んで頑張る訳です。

権門より嫁を貰うのは平素よりの持論に反する。
答えるにしてもとりあえず伊木以下諸兄に一言する必要がある。

一旦引き取ってもらうために、そういうことを言い訳として言うのですね。
伊木はもう亡くなっているのですが、こういう時に一番に名前が挙がってくるというのはかなり仲が良かったのでしょう。

伊木の訃報、財部はどんな思いで聞いたんでしょうねえ。


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