Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

Home > サイト > サイト更新 竹下勇(2)

サイト更新 竹下勇(2)

■サイト更新 近代 【 『竹下勇日記』を読む 2 】

前の話の続きです。
雑多にいろいろ取り揃えてみました。纏めろよ。(放棄しました
前回は財部彪と向井弥一の話が中心でしたが、今回は日露戦争中の山下義韶、セオドア・ルーズベルトとの話、また大正10年皇太子の外遊時の話などを。

竹下は日露戦争前より米国公使付武官としてアメリカに赴任していました。
戦争中ずっとアメリカにおり、ポーツマス講和会議の海軍代表にもなっています。
在米中縁あってルーズベルト大統領と懇意になったことはよく知られています。
えー…一般的に竹下の事績として知られているのはこれだけの気がする訳ですが…
竹下が大統領から直々に「君とは会うからいつでもおいで^^」と言われるようになったその切欠が”講道館の四天王”と言われた柔道家山下義韶になります。


また竹下は大正10年の皇太子外遊の供奉員でもありました。
この皇太子は昭和天皇です。21・2才の頃。
供奉長は先日鈴木貫太郎の件で名前を出した珍田捨巳。
珍田元々外交官ですが、外遊時に一流の人を付けるという事で宮内省御用掛となり、それ以降宮中に入っている。

この御外遊については大分昔にサラッと触れたことがあります。
当時の国家首脳、原敬首相や山縣有朋、松方正義、西園寺公望といった元老らが随分苦労して実現にこぎつけました。
この時の外遊を見ていて思うのは、リアル「可愛い子には旅をさせろ」(笑)

裕仁皇太子、本当にすごく聡明な方だったようです。
が、この外遊の頃は大変箱入りに育てられ、生活を送る上での常識が欠如している所があったようです。
その状態を国家上層部の人間がものすごく心配した。
一番若い元老でさえ70歳ですから、特に彼らは自分の目の黒い内にこれだけはどうにかと相当焦ったと思います。


竹下はその外遊の供奉員のひとりだったのですが、供奉員とはいいつつ実質的には半ば教育係だったのでは?と思います。
竹下だけでなく供奉員全員が。
行路でもこれはあかんということで、ポーカー・ブリッジ・柔道・デッキゴルフといった娯楽においてもわざと皇太子に花を持たせることをしない供奉員も出てきましたし、また言動や挙措動作においてかなりあれこれと申し上げるというようなことも多々あった。
外遊には見聞を広げるという目的と共に、短期間で強制的に実地で実際教育するという目的があったのですが、それが大変成果があったという話。

後は秋山真之の話も少しだけ出しています。


ウィキペディアの竹下の項目を見ていたのだけれど、なんというか…うん…(言葉少な)
まあいつも通りだなあと。
前見た時も思ったのだけど、あの写真どこから取ってるんだろう…欲しい…
あと東京の竹下通りの名前は竹下邸があったのでそこからというのは本当なんですか?
ウィキで竹下通りの項目見ても竹下通りの公式HP見てもそんなこと一言も触れられてないし。笑

随分前だけど飯田延太郎がケマル・パシャをもじってエンタル・パシャとあだ名されていたという話を阿川弘之『軍艦長門の生涯』で読んで、そうなんだと思ってさ。
そういう話他にあるの?と思ってググったらウィキペディアが出てくる。
読んだら『軍艦長門の生涯』がそのまま引き写されてて笑った。参考文献も出典も脚注もなし。
流石にどうかと思う。

旅順攻略戦の際児玉源太郎が乃木希典の所に赴く際、指揮権を預ける云々の為一札を持って行ったという話が『坂の上の雲』にあったけど、あれも数年前にウィキで見たらあれは確証がない、司馬の創作であるってあって笑った。今はどうだろう。
そんなことはないんだが…
便利ですごいとは思うんだけどね、自分が知っている分野でこれだけ荒が見えてくると知らない分野を見るのが怖いんだよなあ。


ランキング 日本ブログ村 ブログランキングならblogram 

歴史ブログランキングに参加しています。よろしければぽちっと。
拍手してくださった方、ランキングクリックしてくださった方、ありがとうございました!
関連記事

Comments

post
Comment form

Trackback

Trackback URL
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)