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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
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広瀬武夫の写真(2)

広瀬武夫の写真、続き。
広瀬というか今回は広瀬の同期の話ですが。


https://blog-imgs-72-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20150115.jpg


この写真の中央にいる石川寿次郎の情報が更新されました(私の中で)。
この人については兄弟が軍人や軍事スパイだったこと、甥が作家の石川達三だという事くらいしか分かっていませんでした。

そうした状態だったのが昨年11月に『遥かなり帝国海軍の提督達 肖像写真集』の著者の方よりコメントを頂きまして。
大変ビビる。
15期の人物鑑定に対する努力を褒めて頂いて大変嬉しかったのですが(うひひ)、その際に石川の死は当時結構な騒ぎになった事件だとご教示頂きました。
新聞記事になっているとも教えて頂いたので図書館で確かめたのですが、不運だったとしか言いようがない亡くなり方をしていた。


当時の新聞を見た所、明治39(1906)年7月末頃に石川関連の記事が出ていました(朝日新聞)。
当時石川は厳島副長で厳島は練習航海中、その終盤に差し掛かっていた頃の話。
『海軍』(外山三郎/東京堂出版/平成3)によると厳島、橋立、松島の三景艦での遠洋航海になっています。
2月中旬に日本を出発し目的地はオーストラリア、帰路シンガポールを経由して8月末に帰国している。

練習艦隊が香港から佐世保への航行中、7月18日の官報で突然厳島副長石川が佐世保鎮守府附となり、機関長が待命となった。
何があったのかと記者が訝しむに、果たして事件が起こっていた。
朝日新聞7月25日に第1報があり、それによると、

石川と機関長が争議の後激論となり、機関長が憤怒に任せて石川を切りつけた。
石川は大小20の重軽傷を負い、そのまま佐世保海軍病院に入院したものの容態は難しい。

後日の新聞を見ると事件が起きたのは15日。
石川の父の話によると、航行中の軍艦では思うような治療が出来きず怪我による破傷風が死因になったとのこと。
事件の第1報が出た7月25日に石川は亡くなっており、同日付で斎藤実海相より西園寺公望首相宛てに特指叙位の依頼が出ています。


https://blog-imgs-72-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014124.jpg
(objectさんより頂きました)


練習艦隊が帰国したのは8月末ですが、日付を見ると厳島は事件後すぐに帰国したのが分かる。
佐世保への航路中、将に後は帰るだけという状況だった筈で、日本領海内の寄港予定地もすっ飛ばしたのではないかと思います。
7月28日の朝日新聞には佐鎮副官加藤某の談話があり、もう少し詳細が分かります。

事件が起きたのは15日、石川が機関室で他の士官と碁を打っている時に機関長が無言で切りつけたとのこと。
その後機関長も咽喉を突いて自刃しようとしたが、気力が切れて死にきれなかったそうで。
機関長は石川に恨みつらみがあったのかと言えばそうではなく、寧ろふたりは普段仲が良かったそうです。
加害者となった機関長も快活で極めて評判の良い人物であったそうで、本人を知っている人はこの事を聞いてかなり驚いた。

ただ、航海中は少し様子がおかしかったようです。
記事を読んだ感じからすると鬱だったのじゃないかと思う。
発狂とか精神異常といった言葉が出ていて、神経衰弱でもあったんじゃないかなあ。
計画的であったとか怨恨があってとかでないのは、掛けられた軍法会議で無罪になっているあたりからも分かります。
本当に突発的に起きた不幸な事故であったのだと思う。


石川、剛毅で公平な人だったみたい。
竹を割ったような感じで、何かあっても引き摺らず、すぐに気分を入れ替えてしまうような好漢だったようです。
この事故についても自分が重傷を負っているのに機関長はどうしていると相手の方を心配している話が伝わっていました。
ビリヤードと大弓が好きだったそうです。 
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