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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
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震災*廿


特に何かを書くつもりはなかったのだけれど、地元で写真が張り出されていたのを見て何となく。
自分が生まれ育った町は形が変わり過ぎてしまって、もう思い出すことが難しくなっている。
写真は大事だ。

地震が起きた時は早朝だったので流石に布団の中だった。
前の晩は夜更かしして(好きになりたてだった)秋山真之と広瀬武夫の落書きをしていたオタクは私です。
ドーンと下から突き上げがあって、がたがたがたっと横に強烈に揺れた。
大した秒数じゃなかったみたいだけど、ものすごく長い時間に感じる。あちこちから悲鳴。

暫くして家族の安全確認、そのまま家の外に出ていたら、近所の人も続々と外に出てくる。
でもこういう時ってどーしようもないんだよね。
大きな地震だったねって、大丈夫だったって、言い合う位しかできなくて。
家は本当に大きく揺れたけど、家族は誰も怪我さえしなかった。
6歳だった弟がいつもと同じ場所で寝ていたら一番重い箪笥の下敷きになっていた。
その日は偶々違う所で寝てたので何事もなく。

向こう三軒両隣も家屋倒壊とかはなく、向こうの方に在る3階建ての家(1階が柱の少ない駐車場)2階建てになってたくらい。
そんなには被害は出てないように見えた。
多分近所の人も皆そう感じたと思う。
揺れた割には…という感じで。
すぐにあちこちの親戚宅に無事だと電話して(一体何の事か分からなかったらしい。電話はその後不通に)、両親が家の点検をしている間に弟と近所のコンビニに買い出しに行った。

ら、この様子。


2015_01190229.jpg


高速度道路落ちてた… (下写真は今の様子)
流石にぎょっとする。
家に帰って「高速道路が落ちてる」と話しても聞いている方はよく分からない。
あんなものが壊れるとか、そんなの考えたことないから。

テレビは全部落ちててつかなくて、地震がどんな規模かもよく分からず。多分テレビもそれどころじゃなかった。
電気は通ってたんだけどね。
道路挟んだ向かいは電気アウトで、近所に声を掛けて炊飯器を持ち寄って何家族分もの米を家で炊いた。
水は微妙だった。記憶がちょっとあやふや。
お風呂の残り湯をお手洗いに使った覚えがあるので、困った時期もあったのだと思う。

古い地域はどうなったのか、知り合いもいるしということで市場に行く。


2015_01190223.jpg


絶句。市場は軒並み全壊。本通りも、脇のアーケード街も全部。
古くからある地域だし、市場という性格上1階部が店舗で柱が少ない。もたなかった。
表通りの写真、これはすごくきれいな方で、裏通りのもっと古い所は目も当てられない状況だった。


2015_01190225.jpg


こんなの、もうどうすればいいのかわからない。
山の方では火事も起こっていたみたいだけど、自転車で20分以上かかるので流石に当時はそこまでは分からなかった。


2015_01190226.jpg


阪急今津線。この上下の写真が同じ場所とは思えんでしょう。


2015_01190224.jpg


ここも同じ場所だったと思ったのだけど、違う気がする。ちょっと場所ずれてる。
駅の脇出入口みたいなところがあったように記憶してるので、多分そこ。
上写真の左側に見えているのが駅ですよ。
小さい細い路地で、手前に向かっていくと商店街の入り口があった。
本屋さんとかおもちゃ屋さんとか、沢山あったんだよ… 本屋さんは場所を変えてまだ健在。

あんな風に突然日常が奪われるなんて想像もしてなかったから、こんなところの写真なんて全然ないんだよね。
自分の中では写真を撮るような場所でもなかったし。
だからこういう写真を見てじゃないと、もう思い出せない。
懐かしいなこんなのだったよなと思い出すよすがになるのがこういう写真だというのが悲しい。
それほどまちの形が変わってしまった。


 2015_00222.jpg


これは甲東園の市場の様子。


2015_01190.jpg 2015_011907.jpg  


阪急神戸線もずたずたになったので。
右のは新幹線(上)、下に通っているのは阪急今津線。甲東園の辺りかな?この辺りは171号線の高架部分も落下。
西宮北口から大阪への電車は出ていたので、神戸からみんな西北まで歩いてきていました。
西北から梅田へは特急で15分くらいなのだけれど、全く別世界なんだよ、梅田。
大きい地震あったねっていう位の感じで、あそこは昨日までの日常の延長で、それがものすごいショックだったのは覚えてる。

風化する風化するとは言われるけれど、確かに記憶は風化するのだけれど(あやふやな所増えてるし…)、それでも20年経っても鮮明に覚えていて強烈に思い出す所がある。
経験した人はみんなそうだと思う。

そういうことを思いながら、多分みんな写真パネルを見ていたのだと思う。
足を止めて目を細めて鼻をすすっている人が多かった。 
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Comments

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2015-01-19 23:27 
ジゴロウ #225
自分は10代だったんですが、高速道路の倒壊もそうですが、食料を高値で売りつけたり、亡くなった方の家に侵入したりとの、人災がショックでした。

どうにもならないことが起きた時ほど、信じられないことがおこります。

もう、こういう災害は、起こらないで欲しいですね。
2015-01-20 06:41 
object #226[Edit]
自分が生まれたのがちょうど阪神大震災から2ヶ月後の3月17日だったんですが、
母の実家のある下関の病院で医薬品が不足していたらしいので日本にとっても未曾有の大災害だったんだと思います。
それにしても1995年は色々ありました。
あったようです。が自分にとって正しい表現かもしれませんw
2015-01-20 11:06 
yhさん、大変な体験をされていたんですね。改めてプロフィールを拝見したら
兵庫県の方だった…写真、すごいです。町の復興ももちろんですが、
こうして、20年経って、写真を載せて振り返ってブログにお話を載せて下さるという
強い精神が胸に突き刺さるようで、グッときました。
弟さんも含め、皆さん無事で本当に良かったです。
心から、この事を風化させてはいけないって思います。
少しずつでも、どうか強烈な思いを発信していてください。
ありがとうございました!
2015-01-20 17:27  >ジゴロウさん
ヒジハラ #228[Edit]
空き巣の横行は聞いていましたが、食料品を高値でとかは当時は知りませんでした。
でも随分あったでしょうね。欲しくてもない状況が普通でした。
幸い地元駅から電車が出てましたし父が大阪勤務だったのもあって、仕事帰りに戦後の食糧買出しのような恰好で帰ってきてました。
その日は父だけがそんな恰好だったようで曰く「電車で笑われた」、でも次の日からは同じような格好の人が増えたようです。

災害だけは人間の力ではどうにもできませんからねえ…
せめて人災で被害を広げないようにする備えや工夫は必要なのだと思います。
2015-01-20 17:38  >objectさん
ヒジハラ #229[Edit]
おお若い…(笑)
1995年3月は地下鉄サリン事件が起きた時で、地震からたった2か月しか経っていないのに余りの大事件で震災が忘れられてしまうとこちらではすごく危惧されたんですよ。

甚大な被害が出た地域であったにも関わらず通っていた学校(戦前からある)もヒビが入った程度、生徒や教師も全員無事だったので、地震後1・2週間程は学校が休みになっていたのですが、その頃にはもう普通に授業がありました。
私たちの学年は1・2週間後に行くはずだった修学旅行が潰れました。笑
地震が起きた2・3日後に町内の掲示板にその連絡が張り出されていて、今思うと先生も大変だったと思います…

下関でも医療品の不足ですか…
本当に色んな地域の方々に助けて頂きました。
物資の面でも心の面でも資金の面でも。本当にどれだけ助けられたか。
被害の大きさもさることながら、こういう事も感謝の念と共に忘れたらいけないと思いますねえ…

2015-01-20 17:58  >シャインさん
ヒジハラ #230[Edit]
震災を思い出す時大変だったなと思う程度で済むのは、家族も家も無事だったからだと思います。
ただこれで家族や知り合いが大怪我だったり亡くなったりしていたら、同じような心持ちでは思い出せないのだろうなと。
あと私もまだ子供でしたので…
子供3人を抱えて両親は物心ともに本当に大変だったと思います。
もし自分があの時の立場だったら同じように出来るかと思うと、自信がありません。

しかし20年という年月はやっぱり長くて、忘れていってしまうことが増えてきます。
月並みではありますがこういう日を捉えて悼むこと、思い出すこと、忘れないようにすることは大切ですね。
こちらこそありがとうございました。
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