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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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ふりさけ見れば春日なる(2)

三笠の話を書いていて昨年目にしたニュースでじゃんけんの「軍艦」が出てきてたなとふと思い出す。
良い内容ではなかったので何とも言えませんが、懐かしいというか、驚いたというか。
グーは軍艦、これは同じだったのだけど、チョキが朝鮮、パーがハワイですって。ですって。
そうなんだ。
私の時は(所は?)、チョキが沈没、パーが破裂だった。
縁起でもねえ。笑
地域差とか年代差とかあるのかなと思ってさ。
というか今どきの子供でもそんなのでじゃんけんするん?っていうのが。笑


話は変わりますが、三笠と言えば手許にはこういうものがある。
展覧会のパンフレットと三笠保存会の会報『三笠』(2号)。


三笠


昭和35(1960)年に大阪三越で開催されたもののパンフレットで、会報はそれに挟まれていた。
多分一緒に会場で配られたのだと思う。
京都に住んでいた時に古本屋の雨曝しにされてるパンフばかり入っている箱の中から見つけた。100円。
アンジェリーナの前にある古本屋なー間部詮勝寓居跡の隣ですよ(そんなローカル情報いらん)

三笠保存会の会員でないからよく分からんのだけど、今の会報の前身だと思う。
戦後に三笠が荒れるに任せていた頃のもので、それをどうにかしようという動きが漸く実現してきた時期のもの。
内容を見ると当時は復元工事の為の調査中で、また寄付金を募っている真っ最中。
展覧会も寄付金を集めるというのが眼目だったようです。
ちなみに当時の三笠保存会の会長は渋沢敬三(渋沢栄一の直孫)、副会長は伊藤正徳、石坂泰三、沢本頼雄。
流石に錚々たる名前が並んでいます。
山梨さんの名前はないなあ…


三笠


完成予想図も載っている。
三笠復元工費の見積もりは約2億円、昭和35年の時点でその約半額が寄付済か寄付決定となっていたそうです。
寄付額は神奈川がダントツで(桁が違う)、流石に地元(で荒れっぷりを実見する人が多かった)ということだったのか。
あと海軍関係者が多かったこともあるだろう。
記念艦みかさの公式HPによると、最終的な募金額は1億6千万円(含米海軍の2400万円)。
それに国の予算9800万円を加えて復元工事が実現した。

『戦艦三笠』(船の科学館史料ガイド6)によると敗戦後に占領軍が三笠の武装解除を命令し、上甲板以上にあったマスト、煙突、主砲塔、副砲その他の艤装品が撤去されて周辺の地上に放置されていたとのこと。
そして甲板にはダンスホール(下写真右奥の丸い屋根の建物)が設置された。
これは有名な話です。


//blog-imgs-72-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20150111.jpg
(34・5年かも)

昭和25(1950)年の朝鮮戦争で金属価格が高騰した結果放置された艤装品が盗まれ、また喫水線下の砂も掘り出されてボイラーやエンジンも盗難に遭ったそうです。
同じく公式HPにはその当時の写真が掲載されていますが、上甲板にあった構造物を取り払った後三笠の周辺地の使用を委託された民間企業がダンスホールと水族館を作りマストや大砲を売り払ってしまったとある。
名前も分からないような有象無象が持って行ったのかと思いきやこれって特定できんじゃねーかorz

そういうこともあって会報には艤装品の寄付(若しくは購入)の募集も載っている。
現在三笠に残っているオリジナル品は錨とダビッドだけだそうです。
それでもよく残されたと思うし、残っていて良かったと思う。
大切にしないとね。


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こういうのはご時世だなと思いますねえ。寄付興業だよ。
相撲が大好きで大日本相撲協会の会長までした竹下勇が生きていたらさぞ喜んだだろうと思います。
竹下は昭和21年に亡くなっている。
会長就任時の挨拶で、子供の頃によく相撲を取って遊び、安保清種を投げ飛ばしたりしていた、なんてしれっと語っていて、あれを読んだ時は思わず笑った。


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私は三笠も随分ご無沙汰しております…
リニューアル前はよく行っていたんだけど、リニューアル後に広瀬武夫の柔道着が常設展示から外れてしまい、そこから足が遠のいた^^;
同じ理由で遊就館からも足が遠のいている。
現金ですまぬ。
ただ東京に行った時は靖国神社へは極力お参りするようにはしているのだけれど。
じーちゃんの戦友が沢山眠っているのでなー。


記念艦三笠展で出品されていた物は、目録を見ると殆ど東郷平八郎関連のものでした。
着物や軍服といった身の回りのものから勲章や書、日記など。
日露戦争関連のもの、三笠関連のものが流石に多い中で、広瀬武夫の柔道着がある。
この出品者が防衛庁になっている。
防衛庁か…
多分三笠にあるあれだと思うのだけれど、移管されたのかな?
三笠は国の所有物だから別に不思議でもないけれど、去年テレビで出ていた道着と同じなのかなと。
よく分からんことが多い^^;





今回のエントリの題は百人一首に採られている阿倍仲麻呂の和歌より。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

戦艦三笠の名はこの三笠山から。
阿倍仲麻呂は哀愁を伴って思い出される人物のひとりです。
何時からというと子供の頃からなんですよねえ。
遣唐使船で唐に渡って、科挙に受かってどんどん出世、最終的に玄宗皇帝に気に入られて帰りたくても帰れなくなってしまった(許してくれなかった)。
漸く帰国の許可を貰って、乗った遣唐使船が難破(ベトナムに漂着)。
結局唐で亡くなっています。
この歌は帰国に際して開かれた送別会で詠んだとされる。
8・9歳の頃の私には、この人の事が子供心にかわいそうでかわいそうで仕方なかった。
いまだに強い寂しさやもの悲しさを感じる歌でもあります。


ちなみにこの時の船団には鑑真和上もいました。
仲麻呂とは船が違ってたらしい。
和上はこれが6回目のトライで、漸く日本に辿り着いた。
ただ度重なる苦労と疲労によりこの時には両眼とも失明していたと言われます。

奈良の唐招提寺は鑑真和上が創建した寺。
有名な和上像が安置されていますが、年に2日だけ初夏に公開されています。
一度は拝顔したいのだけれど、未だ機会に恵まれず…
お寺には何度か行ったのだけど。

この和上像と聞くと思い出す人がいまして、それが2・3年程前に亡くなった米長邦雄名人。
唐招提寺にふらっと訪れた時に、その辺にいたお坊さんに和上に会いに来たと告げると御影堂に通されそうです。
和上像の前でじっと座っていると、鳥の声が聞こえてきたと。
そういう話をお坊さんにしたら、それは迦陵頻伽の声ですね、と。
その辺にいたお坊さんは実は唐招提寺の偉い人だったらしく、いつもはそんなことしないのに、なんとなくしてしまった、そうで。
仏縁というか、何かがあったんでしょうね。

1:1のトーク番組で米長名人がそういう話をしていた。
『徹子の部屋』かなあ…10年以上前です。
そして笑いながら瀬戸内寂聴(実名言ってた)には悟りは開けないし迦陵頻伽の声は絶対に聞こえないとか言ってて爆笑した。
流石米長名人(笑)

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