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パラべラム~堀悌吉(余滴)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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『明治天皇と日露大戦争』という映画があります。
今年の初夏頃にデアゴスティーニから出てましたなー
解説だけ立読みするつもりでいたのに完全に忘れてて、気付いた時には書店からはもう姿が消えていた。笑

昭和32(1957)年封切の約半世紀前の大ヒット作ですが、いまだに評判がいい。
多分一番評価が高いのはエキストラによる行軍で、まだ昭和32年ですからね~
映画の為に練習した、ではなくて、軍隊経験者が兵隊さんのエキストラで出てる^^;
本物が出てる。
これだけでもちょっとみてみようかな、という気にはなる。
(※見たことない人はツタヤに置いてある)


主人公は明治天皇ですが、戦死者名簿に目を通しておられたりと割と細かい所にまで描写が及んでいます。
これは作られた美談等ではなく実際の話で、一兵卒に及ぶまで全員の名前を見ておられました。
読みが分からなければ調べるように、変わった苗字は由来を調べるように指示されたり、階級が上の方になると写真も併せてご覧になっていたと日野西侍従の回想にある。

あまり知られていませんが、陸海軍の忠勇を長く伝える目的で、戦争ごとに御府も建てられています。
日清戦争は振天府、日露戦争は建安府という、まあ倉庫ですが、戦争の記念品、戦利品を収めていた。
こちらにその戦死者名簿も収められていました。

映画の封切は戦後まだ12年しか経っていない頃で、作る側も見る側も戦前の教育を受けた人が殆ど。
こういうの、当たり前の知識だったのだろうなと思います。

この映画を見ながら同じく当時は知ってて当然だったのだろうなと思うのが軍歌で、戦闘場面の折々にゆかりのある軍歌が流れてます。
中々絶妙に、しかも自然に流れてきて、知っていれば分かるけれど、知らなかったら分からない(笑)
色々知識が試される(笑)(何の)


実はですね、製作顧問として堀悌吉がこの映画に関わっています。
映画監督から考証を頼まれている。
このエントリを書くために一応確認と思ってレンタルしたのですが、名前は出てなかった。
『不遇の提督堀悌吉』(宮野澄/光人社/1990)を見ると、同期の広瀬彦太と一緒に現場であれこれ聞かれたりしていたみたい。

このことについてやや詳細が書かれている書籍、私の手元にあるのは『不遇の提督堀悌吉』だけなんです。
小説で申し訳ない。
日本海海戦の東郷ターン撮影の際のカメラの回し方は堀のアイデアだったという話は『堀悌吉』(大分県先哲叢書)にも出ていたのですが。

出典は恐らく広瀬彦太編集の『堀悌吉君追悼録』(堀悌吉君追悼録編集会/1959)。
確認したかったのですが所蔵が大学図書館だけで貸出し無理やった…
(そして同時に頼んだ『加藤友三郎元帥』に至っては「広島に行ってください」って言われた。酷い。笑)
今の段階ではこれ以上確かめようがない。誰か詳細を知らないか。

小説の方では三笠艦橋(勿論セット)での撮影の様子を見て、広瀬彦太が
「玉木がいない」
と叫ぶシーンがあるんです。
あーと思うよね…

今まで何度か書いてきましたが、堀や広瀬彦太ら海兵32期は日露戦争の真っ最中に卒業、余り間をおかず各艦に配乗されています。
三笠に配乗された候補生は11名で、クラスヘッドであった堀悌吉もここ。
広瀬彦太はどの艦だったのか私は知らないけれど、同じく同期であった玉木信介も三笠。


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07260322.jpg


使い回し写真でごめんね。
右後ろに写っている白い服の候補生が玉木信介。
日本海海戦で勝利をおさめ、帰港した佐世保で三笠は爆沈しますが、その時に亡くなった堀たちの同期。
本当に色んな思いがあったのだと思う。


この映画、当時本当にヒットしたそうです。
会う人会う人が「良かった」と言って薦めてくるけれど、山梨勝之進はあんまり乗り気がしなかったそうです。
ただそんなに良いのならと映画館に足を運んで、実際に見たら涙が止まらなかったと本人が回想してる。
良かったらしい。

山梨さんは明治33(1900)年、三笠回航委員として渡英しています。
就航する前から関わったフネで、青年時代の肝脳を捧げたと自分で言っている程思い入れがある。

出ている人もね、みんな知ってるんですよ。
知っている人ばっかり。
明治天皇にも会ったことがある、山本権兵衛の副官を務めていた時期もあるので伊藤博文や小村寿太郎の所にも何回もお使いに行った。
日露戦争前には朝日艦で広瀬武夫と用談をしていることも、本人の口から伝わっています。
秋山真之に至っては第1次世界大戦の視察旅行のお供で8か月間一緒にいた。

堀にとっても山梨にとっても、本当に感慨ひとしおの映画であったのだと思います。



***



http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141215.jpg


これ何年か前に前ブログで一度出したことある写真。
とある本の中表紙に書かれていたのに気づいて超ビビる
思う存分撫で擦るというセクハラをはたらいてから返却した。笑

河野三通士は同郷杵築の友人のようです。
『英文毎日』の主筆を勤めたことのある人物で、ジャーナリストか。
堀が予備役編入後の昭和10年4月に来阪した際、河野と大阪湾を巡航したのだそうで。
そこに偶々居合わせたのが水野義人という大学生。

えっ。

えー…あの水野?
はい。あの水野です。
分からん人は阿川弘之の『山本五十六』を読みましょう(丸投げ)(笑)
事故死の多いパイロットの適性判断の為に、航空本部長時代の山本五十六が雇った観相見(手相・観相)です。
これがまた滅茶苦茶当たる。(当たるから航空本部の嘱託になったんだけど…)

堀はこの時に水野に観てもらい、現在の状況を当てられた上で、これからはそんなに悪くないということを告げられている。
こんなところで名前を見る人とは思っていなかったので少し驚いた。


***


大正6年海軍小演習の集合写真で、加藤亮一(主計)と思われる人がいました。
紹介で日本飛行機初代社長と書いたのですが、加藤の次に社長になったのが堀悌吉だった。
あ、同じ会社だったのか(笑)
堀の方は日飛、日飛、と覚えていたので、繋がっていなかった。笑
大分県先哲叢書『堀悌吉』によると、加藤の退任のタイミングを見ると、堀を入れるために辞めたんじゃないかという話。


***


ワシントンとロンドンの海軍軍縮で多くの海軍士官が予備役入りを余儀なくされました。
人員整理の必要性の有無に関係なく、リストラされた方には恨みが残る。
ワシントンの時は責任者である海相加藤友三郎ではなく、井出謙治にその矛先が向いたということはパラべラム(15)でも書きました。
堀も同じで、とある造船官から恨み節を聞かされたりしたそうで。


山梨勝之進の同期に宮治民三郎という人物がいます。
作家江藤淳の母方の祖父ですが(父方の祖父は江頭安太郎)、この方もワシントン会議後に予備役に編入された。
江藤には『一族再会』という家族の系譜を描いた本がありますが、その中でも一種強烈な印象が残っています。

宮治は海軍大演習で素晴らしい出来栄えを叩きだし、軍令部長に呼び出されて直々に褒められるような優秀な水雷屋であったそうです。
潜水学校の校長を最後として予備役入りしたのだけれど、これからという一番充実した時にまさかの宣告。
辞める積りも辞めたくもなかったのに辞めさせられた、そういう話を戦後に訪ねてきた孫江藤に語っている。
戦後ですよ。
余程の無念だった。
同じ思いを抱いて海軍を去らざるを得なかった人は、多くいたと思います。

加藤友三郎でさえ、同期の吉松茂太郎に

「友の野郎、あいつばかり偉くなりやがって、昔からの仲間である俺を邪魔にしやがる」

みたいな事を言われてしまう。
吉松は温厚で有名な人だったそうで、その人にしてこの言い草。(※吉松は軍縮以前に予備役入)

辞めさせられた人たちの思いは、まあなんというか。
海軍に残った人間への恨み節では収まらないだろうし、推して知るべし、でしょう。
ロンドン海軍軍縮会議の際、多くの予備役後備役の将官が決起会や会合を開いていたというのは、そういう感情の話もあったのだと思う。


予備役入りとなった時は潜水学校の校長だった宮治。
大東亜戦争が始まった時に、後輩たちの様子を見に行ったらこう言われた。

「大丈夫、教えられたとおりの事をしています」

えっ
宮治が辞めてから何年経ってんの…(※17・8年)

「馬鹿野郎!この戦は負けだ!」

そう怒鳴り散らして帰ってきた。そら負けてもしゃーないわ…
ただ日本も伊400とか伊401とか終戦間際にすっごいの作ってたんだけどね(本当にすごい)、本当に終戦間際過ぎて全然間に合わなかった。
こんなの作る事をもっと早くに許容できる組織だったら、歴史の推移も色々と変わっていたと思う。
(※12/21にナショジオで放送されます。『日本軍の極秘潜水艦』)

何時の時代も技術はすごいんだよ、日本。
何がダメってマネージメントが全然あかん。今も昔も。
経営が技術をダメにする。
伊藤博文や山本権兵衛がいなかったのが当時の日本の悲劇でしょう…


***


判明の変遷


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


財部と若槻はひと目で分かる。
前列3人は名前が入っていたので、谷口もその時に自動的に判明。
長らくこの3人しか分からなかった。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉


この連載を始めてから改めて見て、堀悌吉が写っていることに気付く。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真、堀悌吉、左近司政三、古賀峯一


サイトの「追憶(2)」に載せる左近司政三の写真を拡大加工した後にこの写真を見て同人であることに気付く。笑
中将の礼服を着ているので調べれば分かるだろうとは思ってたけど、そこまでする気はなかったのでラッキー。

そして大正6年海軍小演習の写真に古賀峯一が写っているのが判明した後、この写真を見てあれ?同じ人?
あとは左のふたりですが、調べる気はない(笑)
海軍の軍縮関係者だろう。


***


堀悌吉は阿川弘之の『山本五十六』の印象がとても強いです。
堀という人物を知ったのがこの小説だったからというのがあるのだろうなあ。

「山本五十六の親友」という話で終わってしまうことが多い気がしますが、見ていると「こんな人もいたのだな」と思います。
この連載の初めの方でも触れましたが、「戦争善悪論」とかね、見た時は流石にびっくりした。

こうした内容を文書として報告してしまう(学校の課題で)辺り、軍人としては相当特異であったと思います。
大正から昭和期の軍人としては誤解を受けやすい面もあったのでは?
大分県先哲叢書『堀悌吉』には、思想的に海軍での居場所を探すのが難しかったのでは?という旨の言葉がありましたが、本当にそうだったのだと思う。

「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」と言われたり、海軍の至宝と言われたり、先の見える本当に聡明な人であったそうです。
先が見えすぎて、多分話が飛躍するのだと思う、話していて禅問答のようになってしまうこともあり、常人には誤解されやすい、理解され辛い点もあったみたい。

秦郁彦の本だったと記憶していますが(軍人の列伝だったと思う)、大失敗を迎える前には良心が駆逐されていく過程が必ずあるという旨の言葉があって、堀悌吉や山梨勝之進を見ているとその言葉をいつも思い出します。
大東亜戦争が負け戦だったからそう思うというのもあると思うけど。


パラべラムはこれにておしまいです。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
というか長かった。お疲れ様でした^^

あー…
終わって良かった…(笑)


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Comments

post
2014-12-18 23:28 
ジゴロウ #203
まずは、完結お疲れ様でした。
ここまでの力作に申し訳ないんですが、一番インパクトあったのが、映画の話です…m(_ _)m

なんの本かは忘れましたが、日露戦争のあとに大陸でお仕事した人がいまして、大東亜戦後に製作された映画を見て、
『○○はこんな奴じゃない』
『どうしてこんな話になるんだ…』
と、大層憤りをされたそうです。

そういう、愛憎みたいなものが、すごい印象的でした。
2014-12-20 13:20  >ジゴロウさん
ヒジハラ #204[Edit]
読んでいただいてありがとうございます。
私も映画の話がかなり印象に残ってるんです(笑)
多分同じ映画について堀と山梨の話両方を見たから余計にだと思います。

昭和40年代位までは日露戦争の戦場に出た人もまだ生きていたりもしますしねえ…
司馬遼太郎も『坂の上の雲』を書く際にそういう方たちに取材していますし。
戦後の映画や小説などを見て憤りを覚える人も、結構いただろうと思います。
実際を知っているとどうしてもそういう所は出てくるでしょうね。
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