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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
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広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(4)

楽聖瀧廉太郎の親友、鈴木毅一の叔父・鈴木虎十郎が広瀬武夫の同期であったという話です。

そして鈴木虎十郎が兵学校入学前に身を寄せていた文豪坪内逍遥は広瀬の嫂の従兄加藤高明、広瀬の大先輩八代六郎と同郷、学校の後輩という何とも不思議な繋がり。
世間狭すぎ。


  瀧廉太郎


鈴木毅一が東京音楽学校に入学したのは明治29(1897)年のこと。
そこで2学年上の瀧廉太郎と肝胆相照らす仲となり、瀧のいる所に必ず鈴木あり、と言われるほどのつるみっぷり。笑

瀧の先輩には幸田延、幸田幸という女性がおり、彼女らは文豪幸田露伴の妹になります。
ということで海軍軍人で、千島探検で有名な郡司忠成(海兵6期、斎藤実と同期)の妹にもなります。
凄い一家ですな、幸田家…^^;

瀧と鈴木にとっては姉の延は教師、妹の幸は先輩でした。
つるんで遊びに来たり、当時流行っていたテニスをしたり(!)、和気藹々とした青年時代を過ごしていたようです。


瀧廉太郎が上京したのは明治27(1894)年、東京在住であった従兄瀧大吉の家に身を寄せます。
大吉は優秀な建築家であったそうで、ジョサイア・コンドルの助手もしていたらしい。
お上、特に陸軍の建築物が多い。
というか陸軍お抱えだ。笑。陸軍兵舎等の建築物に随分関わりのある方だったそうです。
廉太郎にとっては大きな理解者であったみたい。

廉太郎は上京以降、この従兄一家と一緒に暮らしていました。
その住所がね、麹町の平河町、富士見町、四番町だったり上二番町だったりする訳ですよ。

あれ?なんか似たような住所知ってるわ、となる訳です。
広瀬武夫の兄、勝比古の家が上六番町…
近いんじゃないの?^^;
ホテルグランドアーク半蔵門のHP(…)に、大変分かりやすい地図があるので、別窓でリンク張っときます。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141106.jpg
ホテルグランドアーク半蔵門 江戸切絵図 (これの元地図はこちら 現代番町麹町絵図


一番町二番町の枠、左上に緑のチェックがありますが、その上に四角い人物レリーフが見えます。
そこが瀧廉太郎旧居跡。
広瀬の兄が上六番町に居を構えたのは明治26年か28年で、瀧家が四番町・上二番町に暮らしていたのは明治29年からになります。

当時広瀬武夫は足繁く兄宅に通っていましたし、または寄宿していました。
上六番町は、上絵図の三番町四番町とある辺り。
割と近いのかと思いますが、土地勘がないのでよく分からん。
もしかしたら擦れ違いくらいはしているかもとは思うけれど。
ちなみに、三番町四番町の枠の左上の緑の辺りが東郷平八郎邸(現東郷元帥記念公園)で、ここも上六番町だった。

広瀬の兄勝比古は日清戦争当時、 浪速の砲術長でした。
艦長は東郷平八郎で、この時に高陞号事件(英国商船を撃沈)が起こっています。
ちなみに広瀬の同期で、2・26事件時の首相であった岡田啓介も分隊長心得として浪速乗組みです。



広瀬武夫がロシアに留学したのが明治30(1897)年。
瀧廉太郎はまだその頃音楽学校の学生でしたが明治32(1899)年7月に卒業。
その後は音楽学校のピアノの授業嘱託や補助をしています。

ピアノ及び作曲研究のため満3年間のドイツ留学を命じられたのが翌33(1900)年6月12日。
日本を出発したのは翌34(1901)年4月6日、ドイツ着は約1か月後の5月下旬。
ライプチヒ音楽学校に入学したのは10月で、その12月に体調を崩して入院している。


瀧廉太郎、鈴木毅一


当時欧州の冬の寒さにやられて体を壊す日本人は多かったようです。
日本とは段違いの寒さの為、油断して風邪をひく→こじれて中々治らない→肺炎・結核(→死去)。
このパターンが多かったみたい。

瀧もこれで最終的に肺結核に罹患した。
最早現地での学業も難しいということで明治35(1902)年7月に帰朝命令、10月中旬に日本帰着。
12月には療養の為に大分の実家に帰るのですが、療養の甲斐なく明治36(1903)年6月29日に亡くなっています。
25歳。満年齢で23・4歳ですか。
若い。


瀧には有名な作曲が多いです。
ドイツ留学を命じられてから出発までに約1年の間がありますが、年表を見ているとこの頃に「四季」、「荒城の月」、「箱根八里」といった作品が世に出ている。

「荒城の月」は中学唱歌。
この時期、当時あまり振るわなかった中学校での音楽教育の梃入れの為、中学唱歌を作るのに力が入れられたそうで、その内のひとつだった。
歌詞は土井晩翠に委嘱され、作曲は一般公募。
それに当選したのが瀧廉太郎の作曲でした。(「箱根八里」と「豊太閤」も)
これが明治32~33年で、「中学唱歌」として一連の唱歌が発表されたのが明治34年3月のこと。


広瀬武夫と瀧廉太郎の交流を示すたったひとつのエピソードは、この「荒城の月」を挟んでいます。
『広瀬家の人びと』には、以下の一文があります。


「知ちゃん、やはり滝廉太郎と広瀬中佐は文通していたのね。
ロシヤの大叔父さんに、瀧廉太郎が『荒城の月』の譜を送ったのよ。
それを交際していたロシヤ人の家へ持ってゆき、そこのお嬢さんに弾いてもらうの。
居合わせた人々がびっくりして『その作曲者はどこの国の誰か』とたずねるの。
『勿論日本人です。僕の友人の……』
大叔父さんがいうとね、みんな信じないんですって。
日本人がこんな曲を作れるはずがないってわけね。
ロシヤのサロンでは日本人は未だその程度にしか思われていないといって、大叔父さんの憤慨した手紙があったわよ」



”知ちゃん”は著者である高城知子。
広瀬の兄勝比古の孫で、父は広瀬末人(海兵39期、山縣正郷と同期)になります。
話しているのは著者の姉です。
終戦直後の物がない時期で、焚き物にも不自由していたため、勝比古の代からの書類等を読んでは惜しみながら炊事の炊き付けにした。
瀧との交流を示す書簡もその中の1通だったのでしょう。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141106_3.jpg


上記引用には「交際していたロシヤ人の家へ持ってゆき」とあります。


広瀬のロシア滞在は明治30年9月末~35年3月、帰国の途に着いたのは35年1月早々。
「荒城の月」発表は明治34年3月ですが、公募作品の選考は33年ですので、その位には楽譜が出来ていたことになります。
しかし人に知らせるとなるとやはり入賞・公表されてからと考えるのが妥当でしょう。

ということで、広瀬が楽譜を持って行った時期は、大まかながら推測できます。
明治34年3月からその年末ごろまでの間と思われる。

で、瀧廉太郎ですが、こちらは国費でドイツに留学するわけです。
瀧のドイツ滞在は明治34年5月下旬~翌35年7月の約1年になります。
「中学唱歌」が3月発行、4月上旬に日本発であることを考えると、さすがに発表直後に広瀬に楽譜を送る間は無かったと思うなあ…
そんな一刻も早く送りたい程濃い付き合いをしていたわけでもなかっただろうし。


ふたりの海外滞在が被るのは、明治34年5月下旬~35年3月ですが、実質的には34年5月下旬~12月の間。
広瀬が送られてきた楽譜をロシア人に見せたのは、この時期、明治34年後半だと思われます。

瀧はライプチヒに行く前ベルリンに滞在しているので、そこで海軍の駐在員から広瀬の話を聞いて楽譜を送った可能性はあるよね…。
まあ推測ですが。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141106_2.jpg
(パブロフ一家、友人ボリス・ヴィルキトゥキー少尉候補生と)


明治34年後半、広瀬が7月初旬にアリアズナちゃんちの別荘に行っているのと、12月24日にぺテルセン一家のクリスマス前夜祭に出ているのははっきりしている。
とは言え、他にも誘ったり誘われたりしていると思うので、誰の前でとの特定は流石に今の段階ではできませんな。


ただね、今夏にある一文を見つけまして。
『戦争と音楽』(本多喜久夫/新興音楽出版社/1942)に収録されている、「広瀬中佐と荒城の月」という文章。
1942年。
昭和17年です。戦前です。
戦前に瀧との交流が書かれた文章があった。


広瀬のところへ故郷から一通の手紙が届いた。
披いて見ると、それは郷里大分県の後輩で、当時我が楽壇の天才児とまで謳はれてゐた瀧廉太郎から来たもので、
その文面は、音楽学校の作曲募集に応募して、自作の三篇が入選したから、御眼にかけるとあつて、楽譜が同封されてゐて、
その中の「荒城の月」と題する一篇には次ぎのやうな断り書きが付けてあつた。

「この”荒城の月”と云ふのは、目下都下の青年子女に愛誦されてゐるが、
これはお互いの幼時の思ひ出になつた故郷竹田外の臥牛の古城に思ひを寄せて作曲したものだから、
是非大兄に一吟願ひたく、天涯万里の異郷にある大兄も、故郷の秀麗な風物彷彿として眸視に浮ぶことゝ思ふ」



で、ダンスを習っていた女性に頼んで演奏してもらった、と言う話。(はしょりまくり)

話は全体的に 嘘を言うな(笑) という感じなのだけれど、まあ時代が時代なのでそれは仕方ない。
内容はとにかく、戦前にも知られていた話なのかと、その点に驚きがあった。

この「広瀬中佐と荒城の月」は、資料としては全く何の役にも立ちませんが(酷い)、瀧は案外上の断り書きのような感じで送って来たのでは、ないかなーと思う。

これはもしかしたら、根気よく探したらまた違う話も出てくるのでは?と密かに期待しています。



***


今の段階で私が書ける事はこの程度。
本当に史料として提示できる資料が全然ないもんで、なかなか「こうだ」ということが書けないです。

ただふたりを見ていると、不思議と何かの縁で繋がっているというか、かすっているというか。
意外とそういう点が多くて、調べるのが楽しかった。
瀧廉太郎の伝記に鈴木虎十郎が出てきたのには流石に驚きました。


今夜の番組でどの程度のレベルの話が出てくるのかなー…
1ヶ月ぐらい前に写真とか葉書とか書籍はどこで手に入りますかって聞いてくるくらいだから、どうなんだろうとは思うけど。
私の疑問は解決されるのでしょうか。

あー本当にもっと落ち着いて書きたかった…
知ってる事並べたよ的な感じで申し訳ない。これでも結構かなり頑張りました。
敢て自分で言いますよ。
頑張りました。笑
今月のブログのやる気を全部前借した気分orz


それでは皆さんよいお年を~




…冗談です。(半分本気…)(疲れた) 
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