Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

Home > ヒストリ:近代MTS > 広瀬武夫 > 広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(3)

広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(3)

瀧廉太郎の無二の親友、鈴木毅一の叔父が軍人であったと書きました。
ハイ。
鈴木虎十郎と言って、海軍軍人でした。
明治18年に海軍兵学校に入学し、明治22年に卒業しております。
なんか聞いたことがある年代でしょ?
そうなんです。

広瀬武夫の同期です。


何なんでしょうね、この繋がり。笑
あっちこっちで広瀬武夫と瀧廉太郎の線が繋がるなと、それが面白くて温めていた話でした。これ。


この鈴木虎十郎の青年時代を知っている人がいます。
それがジャーナリスト・作家長谷川如是閑。

長谷川は10歳の頃、真砂町にあった坪内逍遥の塾に預けられています。
当時は長谷川の他にも塾生が7人ほどおり、その中のひとりが鈴木虎十郎だった。
曰く、


鈴木虎十郎といふ人は、まだ中学生だつたが、非常によく均整のとれた長大の体躯の持主で、
撃剣、相撲、競争〔走〕、跳躍、ボートなどあらゆるスポーツに達し、塾では一同に撃剣を教へてゐた。
折々近所の撃剣家が他流試合を申込んで来るが、いつも鈴木氏が相手となつて大抵敗けたことはなかつた。
海軍兵学校に入つて、日清戦役に少尉で出征して、開戦早々の威海衛の攻撃で戦死したが、もし生存してゐたら相当の所まで行つた人と思はれる。


(『長谷川如是閑集 1』(岩波書店/1989)より 「逍遥先生のある一面」)


http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0088.jpg http://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/0224.jpg


ここで坪内逍遥か、と思わず笑った私はおかしくない。
今まで何度か触れていますが、坪内逍遥は加藤高明(広瀬の嫂の従兄)、八代六郎(広瀬の大先輩)と同郷で、名古屋洋学校の先輩後輩たちである。
一番の兄貴株は加藤で、八代六郎が海軍に入るかどうかを相談したのも加藤だったのよ。
繋がる時はあっちこっちに繋がりが見えて本当に笑ってしまう。


上記引用、「開戦早々の威海衛の攻撃で戦死」とありますが、鈴木は日清戦争で戦死しています。
当時鈴木は第3水雷艇隊第22号水雷艇乗組みでして、威海衛の戦いで威海衛港内に侵入した際、敵艦の襲撃に遭い亡くなったとアジ歴の略伝にはあります。

そうです。
アジ歴に略伝があるんですよ。(明治27・8年 死者略伝 第11巻 材料(2))
ただ実際には22号艇は港内で定遠に攻撃した後の引き上げの際に座礁、乗員は海に投げ出された。
坐乗していた司令官は助かったものの、鈴木を含む6名が行方不明になったことが同じアジ歴の「連合艦隊出征第24報告」に見えています。


略伝によると、鈴木は豪邁不屈、常に人後に落ちるを恥とするような人物で、藤田東湖に私淑。
また「楠公ノ一族ガ湊川ノ役ニ破レ民家ニ投シテ自刃スルニ当リ七度人間ニ生レテ彼ノ賊ヲ滅サント誓ヒタル故事ヲ追慕シ」云々。
要するに楠正成のファン(笑)
気晴らしに酒を飲むこともせず、煙草も軍人になってからは止めた。
平素は寡黙だけれど、話す時は誰が相手でも談笑する人で、身体強健、頗る健脚。

そして趣味は漢詩。
毎日詩を一篇作って日記代わりとしていたとあります。
ただこれ、後の顕彰の為に人柄や品行はかなり大袈裟に書かれていると思われるので、若干割り引いて考える必要がある。
戦死因も随分糊塗されている点からも分かるように。

しかしですよ。
何だろうこの既視感…

あんた広瀬武夫か(笑)

そう思う事大ですな。
というか、これだけ被ってりゃかなり仲もよかったんじゃないの?と思う訳ですよ。
当然ながら。


交流があったことは分かっています。
同期だからそりゃあるんだけどね、『広瀬武夫全集』に名前が出ているんですよ。
日露戦争中、明治37(1904)年2月19日富田常次郎宛て広瀬武夫書簡。


拝啓 講道館拡張費トシテ、金五円封入致置候。
右ハ故鈴木虎十郎ノ名義ニテ、名簿ニ御登録願上候。
同氏ハ級友ニシテ、シカモ小生ガ海軍ニ柔道ヲ説クニ方リ、賛成致居候モノニテ、
柔道ノ拡張ハ同氏ノ遺志ニモ有之候故、何卒左様取計被下度願上候。再拝
    二月十九日認ム    戦地ニテ 広瀬武夫


富田常次郎は嘉納治五郎の1番弟子です。
講道館の門人第1号で、「講道館の四天王」と言われた人物。
広瀬との書簡のやり取りもしていて、『全集』に富田宛ての書簡が何通かあります。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141204_3.jpg
(めっちゃ切れてる右端の人が富田wごめんww)


広瀬書簡からすると、鈴木も柔道をしていたのでしょうか。
長谷川如是閑の話を見ればしていてもおかしくないと思いますが確証がない。
講道館の入門者名簿、東京本館での入門者分は手元にあるのですが、明治20年のまでしか持ってないのでちょっと分からん^^;
講道館江田島分場の名簿には名前がないので、どうかなあ。

また漢詩の交換をしていたのか、広瀬の「意ノ向フ処筆ノ随フ処」の明治27年正月条に「鈴木虎氏元旦ノ韻ニ次ス」と前置きして自作の漢詩を書きつけたりもしています。


日清戦争当時兄の酉二は姫路播但鉄道に勤務。
明治27(1894)年11月に鈴木虎十郎が一旦戦地から帰国、神戸に帰着する際、兄と会っている。
その別れの際に写真と「征清雑詩」という自作詩集の一包を渡したのだけれど、兄が帰って包みを開けると写真しかなかったそうです。
詩集を受け取るために再度神戸にまで出かけたのだけれど、虎十郎が乗り組んでいた22号艇は既に出発していて、それは叶わなかった。

そして翌年2月5日に虎十郎が戦死。
22号艇は座礁の上放棄されていますので、遺稿もそのまま失われてしまっただろうとのこと。
ただそれ以外にも残された遺稿が多くあったようで、アジ歴の略伝には大江敬香(漢詩人)に預けて調整しており、不日出版の予定とあります。

へーと思ってさ。
探したら鈴木酉二の名前で出ている『藤陰存稿』という本がありました。
でも藤陰は鈴木兄弟の父の号だった。

アジ歴略伝には書簡数点も掲載されており、明治28年1月4日付の母・嫂宛書簡中、追書きで鈴木毅一の名前が出ていました。


毅一義其後如何 学業少々ハ追歩候哉


東京音楽学校に入学したのが29年なので、高等小学生の頃かな。


続く


夕方ぐらいにもう1回更新しますorz 
関連記事

Comments

post
Comment form

Trackback

Trackback URL
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)