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広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(2)

瀧廉太郎は明治12(1879)年の生まれになります。
広瀬武夫は明治元年なので、ちょうど一回り違うことになる。

生まれは東京だけれど、父親が転勤族で瀧もそれについて地方を転々としています。
そして豊後竹田にやって来たのが明治25(1892)年の頃。
その頃にはもう音楽の素養が相当あったようで、ヴァイオリンやアコーディオン、ハーモニカも自由に弾きこなしていたといいます。
ちゅーか当時そんなもん持ってる家庭は殆どなかったと思うので、かなり特異な子供だっただろうとは思います。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141204_2.jpg @岡城址


明治26(1893)年、瀧は渡辺由男という教師に巡り合い(担任だったそうで)、この先生からオルガンや唱歌を習っている。
高等小学校を卒業した後瀧は上京し、上野の東京音楽学校に入学している点からも、どうも恩師としての位置づけの様です。
それだけならへーという感じで終わるのですが、ちょっとこれ見てみ。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12040252.jpg


渡辺先生=後藤由男先生の前名


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/493d8d4d3649ed0f374515598ddacf65.jpg


え、なにこれ、同一人物?

広瀬武夫の縁戚が瀧廉太郎の先生?



そして同じ手紙でもう1か所こういう記述がある。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_12040260.jpg


!?


あ、あのね…竹田でお医者の衛藤さんって衛藤敦夫さんなんですけど。
衛藤敦夫って誰かって?

広瀬武夫の叔父ですよ。

前回出てきた佐藤次比古の父ですよ。
叔父と言っても年が近くて安政6(1859)年の生まれ、広瀬の7歳年上の兄勝比古(文久元年/1861)と大して違わない。
この人も上京して医学を学び、竹田に帰って開業しています。

前書いた「多分そうだろうけど確証が持てない話」と言うのは、この後藤と衛藤が私が思う人物と同一なのかっちゅう話です。
知らないだけで、結構繋がりがあるんじゃないの?っちゅう話です。

それにこの瀧の書簡を見た時、ふっと思ったことがあるのだけれど。
瀧廉太郎、当時脚気治療のために竹田に転地療養していたんです。
その時の主治医って誰だったの?
衛藤敦夫だった可能性ってあるよね。

確かめたいんだけど、そこまでは中々ちょっと分からなかった。
この辺りがテレビで分かればと思うのだけれど、こんな話は出てくるんだろうか。


瀧廉太郎の史料は多くは残っていないそうです。
ただ無二の親友が残した瀧の書簡や楽譜があり、それで研究が大きく進んだとのこと。

それが鈴木毅一という人物。
静岡県、掛川の出身で、実家が問屋場(とんやば)であった。
問屋場は日本史辞典によると「街道の宿場事務所」とあり、要するに当主は宿場全体の責任者のひとり。
初代が江戸初頭(それ以前は焼失で不明)という、かなり由緒ある家。

毅一の父酉二は東海道線、九州本線、朝鮮京釜線等の多くの鉄道工事に従事した鉄道技官でした。
息子が音楽学校への進学を言い出した時は非常に怒って反対したそうです。
堅い職業について欲しいという希望があったと思われます。

ちなみに瀧廉太郎も音楽学校への進学は反対された。
音楽は女子供のすることで、大の男が学校にまで行ってすることじゃない、という風潮が当時はあったそうです。
だから余計だっただろう。

しかも酉二の弟(毅一の叔父)が軍人でして、『瀧廉太郎』(小長久子/吉川弘文館/1968)には、軍人にしたかったのではないか、と推測しています。


続く 
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