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広瀬武夫、瀧廉太郎、鈴木虎十郎(1)

瀧廉太郎は東京出身になります。
しかし父親が大分県出身、瀧吉弘といって日出藩士でした。


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このお父さん、なかなかすごい方でして、大久保利通にスカウトされて明治政府に入った人物。
大久保は岡藩の勤皇派のリーダー・小河一敏や豪商矢野勘三郎を通じて瀧吉弘を知っていたらしい。
明治7(1874)年佐賀の乱、大久保が佐賀に出張してきた際に、吉弘は大久保の知遇を受け上京することになりました。
初めは大蔵省、次いで内務省、更には請われて大久保の秘書官となっている。
大久保が暴漢に襲われた際、身を挺して守るという剛毅な人でもあったようです。

明治11(1878)年の大久保暗殺後は伊藤博文の秘書になり、その後は高級官僚として地方を転々としています。
郡長等を歴任しているのですが、明治22(1889)年に大分郡長、24年に直入郡長となっている。
直入郡の中心竹田、その官舎に入ったのはこの時の話。
この直入郡長の官舎が現瀧廉太郎記念館です。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201203_1.jpg


瀧廉太郎が竹田高等小学校に入学したのは翌25(1893)年1月8日で、明治27年春に卒業するまでの約2年間を竹田で過ごしています(14~16歳の頃)。


実は、瀧が竹田に在住していた最中の明治25年7月初旬、広瀬武夫も竹田の実家に帰省しています。
18期の遠洋航海乗組み後の休暇だと思っていたのだけれど、これ単なる夏休みだったのかな?
(帰国後から間も開いているし、既に違う艦での職務が始まっている)

返ってきた広瀬武夫少尉が学校の鉄棒で器械体操をしたという話が残っているようです。
瀧廉太郎、当時高等小学校生。
実際にその場を見たか、そんな事があったという話を聞いたか。
というか、広瀬と瀧が会っていたとしてたら、この時だと思うのよ~。
何でって。これですよこれ。


http://blog-imgs-62.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201203_2.jpg


左手前が瀧さん家。右側が広瀬さん家。お向いさんなんですよ。
ふたりが知り合いだったことは分かっていますが、会ったことがあるかどうかの確証はない。
でもこれを見ると、史料がないから会ったことがないと断じるのはどうなのだろうと首を傾げてしまう。

広瀬武夫の父重武も司法官僚で、裁判官として地方を転々としていた人物です。
しかも上記した小河一敏の、近しい後輩のひとりになります。
幕末には小河と共に勤王活動をして投獄され、赦免され、投獄され、という人物。
経歴を考えたら、久しぶりに会った息子とあれこれと話している内にこういう話も出ると思うよ、私。
そういえばお向いに住んでるのこういう人なんだよって。


『広瀬武夫全集』の年表には、この時の休暇については「1週間竹田に帰省」とある。
1週間あれば学校でもあれこれできただろうと思うのですよ。
しかし『軍神広瀬中佐の少年時代』にこういう事が書かれている。
著者・佐藤次比古は広瀬の従弟で、広瀬神社の初代宮司です。


或夏大分から竹田迄十一里の道を歩いて帰つて来られて
 お祖母様武夫が今帰りましたよゝゝゝゝゝゝ
と大きな声で帰つて来られ一晩とまつてすぐ出発されたとのことです



しかしこれには年代がないのだよね。
広瀬は海軍に入ってから3度帰郷しているのですが、夏に帰っているのはこの年だけになります(明治25年7月初旬、29年正月、35年4月初旬)。
それを思うと明治25年を指すと思われますが、よく分からん感じになってしまう。
流石に一晩しか泊まれないような状態で、数年ぶりに会った家族より地元の学校を優先するとは思えない。


そこでふと思う訳です。当時の交通事情。
私、これを全く失念しておりました。
佐藤次比古の話から1週間竹田にいたのではなくて、1週間休みをもらったという話では?という疑念が…^^;

瀧廉太郎の伝記を見ると、大分竹田間は当時徒歩が普通だったそうです。
2ルートの交通があり、ひとつは道は良いが遠回り。余程急ぐ時に2人曳きの人力車を使うような道。それで6・7時間。
もうひとつの方が一般的で、こちらは普通に歩けば12時間。
後は馬車もあったけれど、これは1日1往復で、往路8時間かかる。
出発到着時間にもよるけれど、大分竹田間で往復で2日潰れる計算です。

で、当時広瀬の乗組艦の艦籍は呉。
呉から大分までどのくらいかかるのよって話。
調べていないので何とも言えませんが、呉から馬関(下関)で乗り換え、馬関から門司、門司から大分まで、当時の乗継ぎと列車のスピードを考えたら相当時間かかると思う。

明治36年でさえ、神戸・馬関間は列車で約11.5時間かかっています。
呉・馬関間の距離はその約半分弱。うまいこといったら5・6時間位?
明治25年だったらもっと遅かっただろうね。
大分まで直で船を使うという手もあるけれど、片道1日で来れたのかな、これ。
1日で来れても往復2日。2日かかってたら往復4日、+大分竹田間2日。
これって滞在時間1泊になるのでは^^;

私、この時に両者は会ってると考えていたのですが、ちょっと分からなくなってきた。


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広瀬武夫の生家は上写真の場所ではありません。
生家は西南戦争に巻き込まれて焼失し、その後父が裁判官として赴任していた飛騨高山へと引っ越すことになります。
上に写っている家は、明治19(1886)年、父重武が退官し、帰郷した後に構えた家。
住所は溝川。
では高山に引っ越すまでどこにいたかと言う話ですが、それが縁戚の後藤(渡辺)由男宅になります。(直入郡官舎の近く)
これは文献上では私は見たことがなくて、地元のパンフレットに載っていた。


広瀬武夫


どういう繋がりなのだろうと調べたのだけれど、文献上では分からなかった。
ただ広瀬の妹が後に渡辺姓(多分再婚で)になっているんです。
その辺りで関係ある人なのかなあと思うんだけど、ちょっと後年過ぎる気がせんでもない。 
(変な話かと思われるかもしれませんが、明治19年に再再婚した重武の妻は従妹なんです。結構近い所で婚姻しているのでそういう関係もありかと思って)

しかしながら上の『軍神広瀬中佐の少年時代』にも後藤由男の名前が見えてる。
それが上引用の辺りでして、この時の家は「竹田町溝川後藤由男方」と書かれているんですよ。
勿論パンフに写っている写真とは別家なんですが。
上写真の家は後藤家から借りてたのかな。


続く。


くっそw時間が欲しいww
もう少し落ち着いて書きたいorz



佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫/2004)
大久保に近しい人の回顧が収録されている本ですが、大久保の下僚であった人の話も多い。
瀧吉弘も載ってたかと思って見たら、瀧はいなかったけれど千坂智次郎(海兵14期)の父の話が載っていた。笑。
大久保の側近だったらしい。ちょっとびっくりした。 
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