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侍従武官、南洋群島へ行く(3)

南洋群島での侍従武官向井弥一の行動予定関連の文書は「軍第110号-(枝番)」となっていて、一連で纏められた文書であることが分かります。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141117.jpg


<軍第110号-2>(上写真)を見るとこういう文章が出てきます。


向井侍従武官宛
南洋占領地巡視予定ニ関スル件
本件ニ関シ四月六日附軍第一一〇号ヲ以テ申進置候次第モ有之候処 <略>



4月6日に軍第110号で言っておいたけど、とあります。
軍第110号が諸々の大本でそれに大要が書いてあるんじゃないのと思う訳です。
その史料を探します。
しかしこの枝番2の前後を見ても3・4はあるけれど1はない。

ここまでが前回の話。


この<軍第110号>の枝番が含まれているのは上記「雑件(15)」になります。
この冊子の一番初めに綴じられている史料になる。
こういう史料は大体編年なので、「雑件(14)」の後ろの方に<軍第110号>が綴じられている筈、と当たりをつけて確認します。
はーい、ビンゴ~!
今回はサクサク史料が見つかりますなー


<軍第110号> (大正六年四月五日起案 六日発布済)

  軍務局長
向井侍従武官宛
南洋占領地巡視予定ニ関スル件

過日御内話ノ本件ハ大体別紙予定ニ依ラレ候ヘハ最短時日内ニ南洋占領地主要諸島ヲ巡視相成ニ好都合ト認メ候 
右申進ス
 追テ警備艦淀ノ行動予定ニ関係有之候条本件御内定ノ上ハ可成速ニ御内報ヲ得度



…おおう…
今度は過日の内話か(笑)口頭じゃねえか(笑)
こういう「内話」は付箋とかメモ書きが張り付けられていることも多いのだけれど、この件に関してはなかったなー

ちなみに当時の軍務局長は井出謙治(16期)です。
詳しく知りたいのに全然情報がない井出さん。
市販されている書籍で一番詳しげなのが伊藤正徳『大海軍を想う』という寂しさである。


この軍第110号の前にも幾らか関連書類が綴じられている。
<武海第20号>(大正6年4月9日)、侍従武官長内山小二郎から海相加藤友三郎宛て、「武官差遣ノ件」。
文書として出ているのはこれが一番初めで、多分向井の南洋差遣の話は公式にはここから始まっている。
その前は大正天皇から内山侍従武官長なり向井なりに直接話があったか、海軍からの働きかけがあったか。
どちらかだろう。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141118.jpg


侍従武官向井弥一
右臨時南洋群島防備隊ヘ被差遣候ニ付其筋ヘ通達相成度此段申進候也



本当はもう少し実務的な話があるのではないかと思うのだけれど、ちょっと分からない。
このほかにも臨時南洋群島防備隊宛の電報やらがあるのですが、それは本当に連絡と船便の行動予定に関してです。


差遣の目的は大正6(1917)年9月6日の朝日新聞に
「遣欧艦隊御慰問 近く侍従武官御差遣 慰問の品々を携えて=向井海軍少将某艦にて」
という記事があり、これが参考になります。


畏き辺に於かせられては
目下地中海方面に出動或る重要なる任務に服しつゝある帝国海軍将卒の勤労を御軫念遊ばされ
軍状視察を兼ねて御慰問の思召あらせらるゝやに洩れ承はるが
之が為多分侍従武官海軍少将向井弥一氏を同方面に御差遣の御沙汰あるべく
向井少将は天皇陛下日光より還幸の上聖旨を奉じ
将卒らに賜はるべき清酒、巻煙草、菓子等の恩賜品を携え
武官府の栗山属其他を随へ近日中東京出発某軍艦にて臨戦地へ向ふ事となるべしと



これはこの南洋群島差遣の約3か月後の差遣の話ですが、目的は同じだったと思います。
というか御差遣の内容は大体慰問と視察だ。笑

アジ歴の「皇族其他御差遣」を見ていると、侍従武官は大きい出張も結構多いんですよ。
これは侍従武官府と海軍省との書類のやり取りが残っているだけで、他にも軍用機墜落で慰問とかも結構ある。
今回の南洋派遣の様にここに含まれていない書類もあるはずなので、この簿冊は職務のほんの一部になる。

5・6月に南洋に行って9月に地中海?
それで11月にまた差遣かー忙しいなー
…と、めっちゃ素で思っていた。
はっきり言おう。アホである。

同年11月の差遣先は前に書いた佐世保での海軍小演習です。
この新聞記事が9月初めでしょ。しかもまだ国内にいて、その上伝聞。
あのね、当時ヨーロッパに行くのに1ヶ月程度かかるんですよ(民間船)。
さすがに地中海まで行って帰ってくるのは無理だろうと思って調べたら、実際には四竈孝輔が第1・第2特務艦隊に差遣されていました。笑
そういえば四竈の『侍従武官日記』にもそんな記述あった気がする。
そういう辺りは飛ばして読んだから記憶がほとんどない。^^;
(※向井は同年12月初旬に第3特務艦隊に差遣)


「公報第3号 大正6年5月17日」(大正6年 南洋防備隊公報綴 3)を見ると、<臨南防111号>で蔵田臨南防副官心得より本国に向けて侍従武官が到着した旨の電報が打たれたことが分かります。
それによると向井がトラック島に到着したのは予定よりも数日遅い5月13日。
そして向井が本国より携えてきたのは聖旨、そして莨・酒肴料・菓子料となっています。完全に一致。

トラック島への到着がずれたのなら、南洋群島での予定もずれただろうと思い、「艦船行動簿 大正6年6月分(2)」を見ると、
軍艦淀は
トラック 6/11発 → ウォーリア列島 6/13日・14日発 → アンガウル・パラオ 6/18着・20日発 → ヤップ 6/21着・24日発 → 横須賀着 6/30着
となっていた。

ヤップ島での滞在は6月21~24日の4日間。
予定では6月13~16日の4日間でしたが、約1週間ずれたようです。


現地で侍従武官一行がどういう行動をしたのかとか、そういう報告書というか復命書もあると思うんですよね。
どうだろう。
ただこれ提出先は侍従武官府だろうし、だったら宮内省関係になるの?
それに海軍としても現地を直接視察してきたベテランの見解を聞きたいと思うのが普通だと思うぞ。
何かありそうなのだけどなあ…
見た感じではちょっと見つからない。
そして侍従武官が到着した連絡があるなら、帰ったという連絡もあるのでは?と思いきやそちらはありませんでした。笑


そして。
写真を頂いた向井弥一の曾孫であるK様より掲載許可を頂きました。
K様、ありがとうございます!


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/Yap.jpg


この写真の話でした…^^
真ん中に座っているのが向井弥一侍従武官。
6月なので既に衣替え、第2種軍装になっている。

「ヤツプ」島ニ於テ海軍大軍医保利信明氏写ス とあります。
保利さん、調べたら最終が軍医中将で、最後まで昇進した人だった。
図書館の人名事典で調べたら簡易経歴は分かるのだけれど、細かい所まではちょっと…
ネットで探したら大正5年夏から6年末まで臨時南洋防備隊附という情報が出ていたので、当時は現地にいた人のようです。
もっと早くにこの情報を見てたら回り道せずに済んだorz

一緒に写っている人は分からん。笑
ヤップ島守備隊長生越貞少佐(30期)とか鶴田勝大主計等のこの島のえらい人かとも思うけれども、臨南防から案内で一緒に来てる人かもとも思う。
そんな人が来ているかもわからんけど(…)、まあ普通に考えれば接待役・案内役はいるだろう。(大雑把
付き添いで一緒に国内から来た人もいるだろうし。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yap02.jpg


ヤップ島。
現地の集会所だそうです。あと左右に並んでいるのが石貨。
へーっと思って「ヤップ島」で画像検索してみると、なんかこの写真とあまり変わらない様子が出てくるんだが…
調べたら今も当時とあまり変わらない生活をしているらしい。
石貨も実際に使われているそうです。すごいな。
大きさが数cmから2.5m、大きさに価値があるのではなく、その石が持っているヒストリー・ストーリーに価値が付くのだそうで。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yap03.jpg


こちらはどこか分からないそうです。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/Yap04.jpg


電線が…
アジ歴の史料見てたら、電信関係の書類がちらほらあった。
ちゃんと探せばもっとあると思う。
そういう関係かなーと思ったのだけれど、ちょっと調べたら、ヤップ島、海底ケーブルの集合地だった。
この写真がヤップ島かは、分からないそうですが。

あー…ちょっと待てよ。
それワシントン会議の時に日米間でかなり大きな問題になっていた記憶がある。
家に論文があったはず。
太平洋防備の云々かんぬんで、難しくてなんかよく分からなかったという事しか覚えていない^^;

電信施設自体はドイツ植民地時代からあったものです。
日本が占領した当初ヤップに置かれていたのは分遣隊だと書きました。


臨時南洋群島防備隊司令部
 -サイパン守備隊
 -パラオ守備隊 -アンガウル分遣隊、ヤップ分遣隊
 -トラック守備隊
 -ポナペ守備隊 -クサイ分遣隊
 -ヤルート守備隊


でもって後に守備隊に格上げになっている。

これってヤップ島の重要性を、海軍が初めはよく分かっていなかったという事じゃないかな。
太平洋の情報通信網の拠点に置く指揮官が中尉(もしくは少尉)レベルじゃ確かに心もとないわー

NTTワールドエンジニアリング のサイトを見ると、こういう記述があります。

大正5年6月
38年ドイツの布設した上海~ヤップ間回線を沖縄西方で切断し、これを沖縄に陸揚げし那覇・ヤップ線作成(2,869km)

日本仕様にしとる…
調べてないけど、守備隊格上げはこれ以前だと思います。

1枚の写真からも中々想像が廻りますな^^


…という感じで、この話はここでおしまい。
中々調べ甲斐がありました。
というか、いつも大体こんな感じで調べてます。回り道が多いのよorz 
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