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万世橋・広瀬武夫銅像の話、余滴。

広瀬武夫の銅像を作るのに尽力したのが同期、海軍兵学校15期生であるというのは今まで何度か触れてきました。
銅像設立の委員長は、クラスヘッド(首席)であった財部彪が自動就任なのですが、実際に動いたのは世話役として面倒な仕事を押し付けられた選ばれた真田鶴松と吉川孝治のふたり。

真田鶴松はこのブログでも何度か名前が出てきました。
先週サイトで更新した『海軍の本より』(山本五十六に関する話)で、山本五十六の1期先輩の上司として登場。
部下に好かれる上司だったようで、私の中の印象は結構良い。


一方の吉川孝治の方はあまり情報がなくて、私は銅像の世話役の話程度しか知らない。
ただ今年の初夏、ご子孫様から連絡がありまして、幾らか教えて頂くことがありました。


広瀬武夫は日清戦争が始まってから数か月後に扶桑乗組みになるのですが、その時同僚だったそうです。
調べてみたら確かに同時期に扶桑に乗ってるわー。
広瀬は航海士でしたが、吉川は分隊長でした。
でもって広瀬も後に分隊長を兼任しています。


扶桑はかつての主力艦だったのですが、日清戦争当時は既に旧式軍艦になっていまして、前線で戦闘に参加する!という感じではなく、掃海作業に従事していた。
広瀬はその現場指揮官だった。吉川も同じじゃないかな。

ただ広瀬が扶桑に乗っていた期間は短くて、約4か月。
その間、鹵獲した鎮遠の回航委員にもなっていまして、副長がいない鎮遠の先任将校兼航海長兼砲術長兼分隊長でもありました…
ちなみにこの回航委員のひとりに安保清種がいまして、一緒に写っている記念写真があります。
※鎮遠の回航委員は2種類?あり、その片方に広瀬、もう一方に安保で同僚ではないことが後日判明

ついでに書くと安保はね、日露戦争以前戦艦朝日に乗っていた時期がありまして、その時の同僚でもある。
当時はこのブログで加藤友三郎とセットでよく出てくる井出謙治も朝日乗組みでした。
中堅3人トリオで朝日を盛りたてようと頑張っていた。

広瀬がいた当時の朝日はカッター競技が強かったことは結構知られていると思いますが、初めはメタメタで、それを鍛え直したのが赴任してきた広瀬になります。
相当猛烈にやってたみたい。

弱いのに偉い人がいる前でも「次は勝ちます!必ず勝ちます!」と言って引かないから、当時の艦長からはウザがられていた。
当時の副長であった川島令次郎が周囲からは「狂人かと思われるほどだった」という旨を言い残しています。
広瀬本人もそういわれていることは知っていたようで、そのことに触れている書簡が残っています。
でもあまり気にしない。


吉川、広瀬の書簡に名前が出ているんですよ。
「自分の同期の中で最も幸せな家庭を築くのは奥田貞吉と吉川だと評したことがある」
そういうことが書かれていて、結構印象に残っている。
奥田も吉川も、優しい人だったのかなーと思う訳ですよ^^

ご子孫様によると、吉川は爆風で鼓膜が破れ、それで退役になったと聞いているとのこと。
アジ歴を見ると明治34年に慢性中耳炎の為転地療養願が出されていて、もしかしたら耳に宿痾があったのかな、とも思います。

広瀬の銅像の世話人になった際は職場が海軍省人事局、また日露戦後からそれ以前は横須賀鎮守府の人事部長だった。
日露戦争開戦直後も、恐らく内地勤務です。
前線の人員配置に名前がない。
どうも人事畑が長かった人の様で、病気で艦隊勤務が難しかったのではないかなー…というのが私の想像。


また軍艦マーチの作曲者瀬戸口藤吉のイギリス留学を後押ししたのも吉川だそうです。
そのこともあって、吉川に子供が生まれた時は瀬戸口が家に来て軍艦マーチを演奏してくれたとのこと。
おー。
ただ『日本陸海軍総合辞典』を確かめたら瀬戸口はイギリス留学はしていなかった…
明治44年3月に英国皇帝戴冠遣英艦隊の「鞍馬」に軍楽隊長として乗組みとあるので、これのことかな?

それぞれのお家に多彩なエピソードがあるなと思いながらメールのやり取りをさせて頂いた夏でした。


そしてMVさんからこういう写真を頂いた。


20141021.jpg


ちょっと笑ってしまう。
こちらの会社の方はその昔付近に広瀬の銅像があったことをご存じなのですかね。笑 
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