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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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パラべラム~堀悌吉(13)

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この話は19回シリーズです。サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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・昭和5(1930)年4月1日に回訓案が閣議で可決、その日の内にロンドンへ打電
・東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王 → 政府が決めた以上あれこれ言う筋合いにない


http://blog-imgs-59.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131226142448ebf.jpg


これで円満解決かと思いきや、まだ加藤寛治は不満たらたらで「上奏したい」の一点張り。
上奏して昭和天皇に何を言うかの想像は大体出来るわけですよ^^;
勿論条約反対の事だろうと条約賛成派の人は思う訳で、回訓決定以前にも上奏は何度か阻止されている訳です。
加藤の邪魔をしていたのが岡田啓介軍事参議官であったり、鈴木貫太郎侍従長であったり。

ただ回訓打電の翌日は上奏が許可されている。
その時は露骨な反対上奏ではなく、心配していた周囲もややほっとした…

のも束の間。


同日、末次信正軍令部次長が黒潮会(海軍の記者クラブ)に不穏の文章を発表しようとし、それを察知した海軍省側に未然に抑えられるという事件が起こっています。
浜口雄幸首相がこの事を知り、海軍政務次官と末次を招致して回訓に関して諒解を求めた上、綱紀粛正の点から注意するという事態に陥った。
その時は末次も反省の辞を述べたのですが。

会見後の記者会見で、政府を批判。
しかもその3日後、参議院内での講演で再度軍縮批判をぶち上げた。


浜口怒り心頭。



軍令部、特に末次は請訓が届いた直後に新聞紙上に独断で「海軍反対」と発表した前科があります。(【10】
注意して、反省したと思ったらその舌の根も乾かない内にこれだよ!
そらそうだ。反省なんかしてないもん…

軍人は政治不関与という決まりがあります。
思うだけならまだしも、新聞紙上や公式の場で政府の反対意見を発表する等もっての外。
しかも政府が既に決定してしまったことに対してです。
それに海軍首脳で回訓案を検討して政府に返した時、加藤も末次も何も言わなかったよね。(【12】

誰がどう見てもこれは軍人としての規を超えている。


これは政府内で大きな問題になりまして、最終的に岡田の方にあいつどうにかしろと話が行っています。
浜口より話を聞かされた山梨が、首相は末次を次長の地位から引かせるべく何らかの手段をとるかもしれない、と岡田に言う程だったので、浜口の怒りは相当大きなものだったと思われます。
ただ山梨次官の根回しで、この時は部内限りの処分ということになり、軍令部長よりの戒告ということで決着となった。(4月中旬)
しかしこの約2ヶ月の6月、末次は次長更迭となっています。


末次信正、伏見宮、東郷平八郎


条約反対派の領袖は立場から言っても加藤寛治でしたが、実際に加藤を操っていたのは末次信正であったと言われています。
思えばワシントン会議の頃からそうでした…
岡田などが加藤を説得し、納得させても、軍令部に行って戻ってきたらもう話が変わっている。
そういうことが再三だった。


加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


条約を纏めたい方からすると、まさにこんな感じだったかと。(※)
この事については、堀悌吉も「海軍現役ヲ離ルル迄」(昭和20年3月執筆。『堀悌吉』(芳賀徹他/大分県教育委員会/2009)所収)に記しています。
ちょっと長いけど、堀さん出てくるの久しぶり(…)なので引用する。


自分の軍務局長時代は所謂倫敦会議時代だが、時の次官は又山梨中将であつた。
末次中将は軍令部長加藤寛治大将の下に次長として帷幄の府に立て籠り、策謀を事として居た。

即ち此の機会に於て宿敵山梨氏を首めとし左近司(土原註:政三)氏等をも一挙に蹴落とさんとし、
同時に末次の周辺には志を同じうする者共の一派が集まって来て居た。
凡ての騒乱変動は殆んど此の点より出発して居る。

陋劣陰険の奸手段を用ゐて新聞記者を買収し、
御調子者で芝居気の多い加藤大将を煽動して風無き所に波瀾を起し、
東郷元帥や殿下(土原註:伏見宮)を渦中に捲き入れ、
海軍先輩某々等の財部大臣に対する反感を利用して諸種の論議を醸成せしめ、
之を政治上の駈引きの種として政党に売り込み、
所謂統帥権問題と謂ふ様なものを拵へ上げて国中を騒がせ、
後日国家の大患を来すべき悟る能はずして、唯だ自己等の立場を造り固めるに汲々として居た。

当時末次氏は鼻孔出血で時々休んだことがあるが、其の間に加藤軍令部長が納得して凡そ納まりかけて居た事情も、
末次次長が出勤すれば直ちに変更せられ紛擾を起すといふ如き事実は一再に止まらない。

自分等は彼等の斯う云ふ遣り方に悩まされ
而も彼等の勝手な捏造にかかる批難の的となって居た<略>


末次は元々軍令畑の人で、風采もよく弁も立ち、まさに名将然としており、
その上ワシントン会議以降の日本海軍の基本戦略であった対米邀撃漸減作戦の第一人者で、人を納得させる所が大きかった。
(末次がロンドン条約に頑強に反対したのはこの作戦に支障をきたすというのが理由にあったみたい)

以前紹介した小柳資料でもそういった言葉が散見されまして、下の人々からの評判はとても良かったそうです。
ただそういった言葉の後、ほぼ全部に「軍人の分を超えすぎた」という旨の一文が付いていた。



末次更迭は山梨勝之進も次官を辞めるからということで、交換条件的、喧嘩両成敗的に行われている。(同日)

山梨勝之進はそのまま行けば確実に海軍大臣になっていただろう逸材でした。
末次が、「山梨のような知恵のある人物にはかなわない」、山梨をそう評した事は、大分以前に書いたことがあります。
加藤、末次といった、いわゆる「艦隊派」と言われた一派から見ると、一番邪魔だったのが山梨だった。


山梨勝之進


部内の心ある人と同様に、こんな人事をする海軍に若槻礼次郎は随分思う所があったようです。
自伝『古風庵回顧録』に記述がある。


海軍部内を纏めるについて、次官の山梨勝之進などは、もつとも尽力した一人であつた。
しかし当時省内の要職にあつた人たちは、軍縮条約に同意したという理由かどうか判らんが、
後にみな外に出され、予備に廻され、海軍では用いられなかつた。<略>
軍縮会議に際して、内でその仕事をしたとか、向うへ行つて働いたとかいう理由で、
海軍がその人たちを冷遇したということを聞く私は、心中不愉快にたえなかつた。

一ぺん山梨に会つた。
私は山梨に対して、

あんたなどは、当たり前に行けば、連合艦隊の司令長官になるだろうし、海軍大臣にもなるべき人と思う。
それが予備になつて、今日のような境遇になろうとは、見て居て、実に堪えられん、

と云つた。
すると山梨は、

いや、私はちつとも遺憾と思つていない。
軍縮のような大問題は、犠牲なしには決まりません。
誰か犠牲者がなければならん。
自分がその犠牲になるつもりでやつたのですから、私が海軍の要職から退けられ、今日の境遇になつたことは、少しも怪しむべきではありません、

と云つた。


続きます


***

※註

本人曰く「俺は8割感情で行く男だ」の加藤寛治(18期クラスヘッド)が全くの単純で末次に操られていたのかと言われたら、どうもそうでもないようです。
【10】で当時艦政本部長であった小林躋造が、「妥協案位の割合なら国防もやりようがある」という旨の発言をしたと書きました。
そのことに対して小林は加藤から声を掛けられています。
曰く、

「貴様、あの席上であんな論をなすのは怪しからん、しかし、事実は貴様のいった通りだよ」


『岡田啓介』(岡田大将記録編纂会編/非売品/1951)よりの引用ですが、同書には、万々承知の上での強硬論だった節がないでもない、とあります。
これ研究の余地があるんじゃないのと思う(メジャーな分野なので既にありそうだけど)と同時に、もしそうだったら余計タチ悪いよねっていう…

上記の引用、言われたのが小林ということで『海軍大将小林躋造覚書』を確認したのだけれど、それらしい言葉は見つからなかった。
見逃したかなー^^;
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