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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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パラべラム~堀悌吉(11)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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岡田啓介(当時軍事参議官)は条約妥協に関する紛糾が始まってから声を掛けられたのではありません。

ロンドンで会議が始まる以前から、牧野伸顕内大臣から「会議決裂は困る」と洩らされたり(内府から=聞く方からしたら天皇の意向である)、
元老西園寺公望からも、海軍は荒れるだろうからその纏め役になって欲しい、と頼まれていました。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014913.jpg


岡田の軍縮に対する考え方は、


大体軍備というものはきりのないもので、どんなに軍縮をやったところでこれでいい、これでもう大丈夫だという、そんな軍備はありゃせん。
いくらやってもまだ足らん、まだ足らんというものだ。
<中略>

わたしは当時からいい意味での完全な軍縮は出来ん、きっと軍備の競争はなにかの形で残ると思っておった。
だから成るべく、ばかな、出来もせぬ争いをやめてしまって、争いを出来るだけ小さくしたほうがいい、と考えていたわけだ。

米英を相手に戦争すべからずという、そんな『べからず』じゃない。
戦うだけの支度が出来ればいいが、そんなことはいくらがんばっても国力の劣る日本には出来ない。
出来ないならば成るべく楽にしていたほうがいいというわけだ。
どっちも頭がおさえられておれば、こっちは、自然と対抗出来る別の方法も考えられるというものだ。
(『岡田啓介回顧録』 岡田啓介/毎日新聞社/1950)


こんな感じ。
「妥協丸飲みもやむなし」も海軍次官山梨勝之進に意見を問われた際の岡田の言葉になります。
そして、


ロンドン会議のまとめ役として、奔走するのに、わたしは出来るだけはげしい衝突を避けながらふんわりまとめてやろうと考えたものだ。
反対派に対しては、あるときは賛成しているかのように、なるほどとうなずきながら、まあうまくやってゆく。
軍縮派に対して、強硬めいた意見をいったりする。

要するに、みんな常識人なんだから、その常識がわたしの足がかりなんだ。
いくら激している人間にも常識的な一面はあるんだからね。そこを相手にする。
狂人だったら別だ。ただ逃げる、これがわたしの兵法だ。

加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。
単純で、むしろ可愛いところのある男だったよ。
加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった。

(『岡田啓介回顧録』)


こんな感じで、岡田は山梨次官(とそれを支える堀悌吉軍務局長や古賀峯一高級副官)を支え、軍令部長加藤寛治、浜口雄幸首相、幣原喜重郎外相、伏見宮・東郷平八郎の海軍大御所といった人々の間を駆け回った。



政府から請訓が示されたのが昭和5(1930)年3月15日。
それから約10日後の24日に非公式軍事参議官会議(伏見宮、東郷、岡田、加藤、末次、山梨、堀)が開かれまして、妥協可否についての海軍側の結論が出ます。

海軍「米国からの妥協案をそのまま受諾するのは無理」

…。
……… (^▽^)?
……この辺りなんとも理解しがたい…
階級的にも他と比べて力のない山梨と堀がいる程度では大勢に影響がなかったんだろう。


ただ前回書いたように浜口雄幸首相の肚は決まっていて、「妥協」の一択。
海軍の否に対し浜口は、

「妥協する。政府は会議の成功を望んでいる。会議決裂させるようなことは無理。再考しろ」


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20149112.jpg


もうこの頃にはね、浜口、軍令部側に対する怒りを腹に据えかねていて、

外国との交渉案件に関し現役軍人が恣に自己の意見を喧伝するか如きは綱紀粛正の問題として別に処理する必要あり
(『浜口雄幸』(波多野勝/中公新書/1993)より引用)

浜口激おこ。
公文書でこういう言葉を残すってよっぽどです。
確かに加藤や末次はやり過ぎだ。


まず軍縮は軍が俎上に上るとはいえ外交問題であること、また経済的な観点から内政問題でもある。
そもそも兵力量なんて軍が独断で決められるもんじゃありません。
内政外交を鑑み、国力を総合、俯瞰して、政府が決めるものです。
7割じゃないと国防に責任が持てない、だから会議が決裂しても構わない?
それは軍令部が決める事じゃない。
国の向かう方向を決めるのは軍令機関ではなく政府です。

それを勝手に新聞紙上に「海軍は反対だ」とぶちまけ、
昭和天皇の側近に会っては反対だと言い(天皇に伝わることを期待している)、
帷幄上奏で昭和天皇に意見を申し上げたいと運動する(阻止される)。

そら浜口怒るで…
外相幣原喜重郎にしても、妥協択一で初めから肚が決まっており、海軍の意見を重視する気はあまりなかったみたい。


(※土原註:英米相手の会議を)思い切ってまとめるより仕方ない。
海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とてもまとまりゃせん。 
(『外交五十年』 幣原喜重郎/中公文庫/1986)


話聞く気ねえw


この頃、幣原は浜口と相談した上海軍抜きで回訓を作り始めていました。


この項の書き方だと、軍令部ばっかりが悪者、みたいな書き方ですが、中々そうとばかりも言えなくてですね…
あっちもこっちも、どうしてもうちょっとうまくできないのだろう、と後世の人間から見ると思うことばかりなんである。


海相不在で、浜口雄幸が海軍大臣臨時事務管理になっていることは何度か触れました。
この臨時事務管理になっている間、浜口は一度も海軍省に足を運んではいません。
軍事参議官らとも会っていないし、もちろん東郷平八郎などとも会ってない。

これ、海軍から見た時、どうでしょうね。
当時艦政本部長であった小林躋造の述懐があります。(昭和8年)


首相は海軍大臣事務管理を兼ぬるに至つても、一辺も海軍省に来たではなし、
又一度も東郷元帥や軍事参議官等と膝を交へて国事を談じた事もない。
海軍との連絡は日参夜参する山梨次官に一任して、顧みざる観がないでもなかつた。<略>
之を海軍の有象無象より見れば「彼奴増長してやがる」「傲慢だ」の感なきにしもあらずであつた。

浜口氏の周囲に居た連中が野人揃ひで、かゝる礼儀をも馬鹿馬鹿しいと考へたからでもあらうが、
若し浜口氏が努めて海軍の巨頭に会はれ、虚心坦懐に我国の当面せる内治外交上の困難を説明されたなら、
海軍巨頭も大に諒解されたでもあらふ。
  
 (『海軍大将小林躋造覚書』伊藤隆・野村實編/山川出版社/1981)


東郷平八郎と会って欲しいということは、山梨次官も浜口首相に何度か懇願していました。
しかし浜口は断った。

・元帥の事は尊敬しているし、元帥が「総理の考えはどうか」と尋ねてくれば、喜んで説明する
・しかし私は天皇陛下、国民、議会に対し全責任を負う立場の総理である
・私の方から進んで元帥に説明することはできない

そう言われてしまうと、山梨としてはもう二の句が継げない訳で。


それに日本とロンドンでのやり取りの電信、確か60数通あったそうですが、海軍に渡されたのはその内17通ほど。(※)
海軍としては自分たちの組織に関わる話で、しかも国家安危に関わる!と臨んでいるのに、政府が情報を独占して経過を教えてくれない。

流石にこれはどうよと思う。
幣原にしたって「海軍の連中に話を聞いたって」という態度で、海軍としては面白かろうはずがない。
馬鹿にしてるのかと立腹されても仕方ない。
というか山梨さん気の毒。



コミュニケーション不足がロンドン海軍軍縮会議の際に揉めた大きな原因と前に書きましたが、まさにそんな感じでしょ?
海軍に譲歩を望むなら、浜口ももう少し譲歩すべきだったんじゃないのと思ってしまう訳です…


続く

***

※訂正 9/15 高木惣吉の『自伝的日本海軍始末記』より

2月17日~3月12日までの全権電77件の中で、16通は全く海軍に見せず、
17通は浜口から山梨に天下り式に手渡された

***

「≫続き」に拍手の御返事があります
>鈴木昌英さん

斎藤七五郎氏のご子孫様でいらっしゃいますか。
お声を掛けて頂いて驚きました…
斎藤氏は次長時代に現職で亡くなっていますね。
広瀬武夫の関連で日露戦争時代の話を若干ですが調べていまして、私にとっては興味深い海軍さんのひとりです。
コメントしていただいてありがとうございました。
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Comments

post
2014-09-15 00:59 
ジゴロウ #129
なんでしょうね…

目的は一緒だけど、行き方が違ったら、結局、悪い方に転んだ…みたいな感じがします…
2014-09-15 05:14  >ジゴロウさん
ヒジハラ #130[Edit]
本当に行き方が違ったら、という感じですよね。
その後日本がどういう道を進んだかを知っているだけに、この頃の話を見ていると、なんでー!?の連続ですorz
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