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パラべラム~堀悌吉(8)

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この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

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ロンドン海軍軍縮会議に際し、海軍が掲げた3大原則は以下。

 1.補助艦の総括比率 対米7割
 2.大型巡洋艦(8インチ砲搭載)の保有量 対米7割
 3.潜水艦の現有勢力の維持

これで総括して「対米7割」。

首席全権若槻礼次郎の姿勢は「妥協できる所で妥協する」でした。
しかし会議当初からそんな姿勢をとっていた訳ではなく、初めは7割の路線で押しています。

しかしながら、前回書きましたが、既に英米でシナリオが出来上がってるんですよ…
そうなってくると中々交渉が進まない。


http://blog-imgs-63.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/a7698bb4ce07841ed5abb4fcd7f837e7.jpg


どの位進まないかと言うと、会議開始が1月末、それから1ヶ月経っても何にも決まらなかった…^^;
これでは埒が明かないと開かれたのが松平・リード会談(2月末)で、これで大体の日米妥協案が出来てきました。


若槻は、それまでにも大体分かっていたと思いますが、7割は無理だと、相手は譲歩しないとはっきり認識したと思います。
もうこの辺りが手の打ち所だと判断し、


「こゝで最後肚を決めなければならんと思つた」 (『古風庵回顧録』若槻礼次郎/読売新聞社/1950)


単独でイギリス全権のマクドナルド(首相)、アメリカ全権のスチムンソン(国務長官)と会談。
ふたりは若槻が己の名誉と生命を賭した、ただならぬ決意で会談取り纏めの肚中を語った姿に心を動かされたようです。
そこからは早く、1・2日で妥協案が出来上がった。

あれこれを総合した比率が対米比率 69.75%。6割9分7厘5毛。

数字だけ見れば7割より0.25%欠けるだけで、外務省としては万々歳の結果だったみたい。
そして内容全体を見れば日本海軍の要求はほぼ達成されたと海軍省軍務局も見ていたようです。


しかし海軍は非常に不満だったわけです。

海軍のスタンスはロンドン派遣組も留守組も対米7割だと書きました。
これが松平・リード会談で日米の全権が歩み寄りを始めると、現地の随員から激しい反発が起こります。


その急先鋒が山本五十六少将と山口多聞大佐。


http://blog-imgs-57.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/cc853c3eb03a5a7c66cfe1e68bbdfe0a.jpg 山本56


山本は当時次席随員でして、随員の中でも割と立場のある人物でした。
その山本が随員の反対意見を纏めて全権を突き上げた。

理由としては交渉中に接近してきたフランスと他国の交渉状況、またイギリス海軍将校から得た情報等を鑑みて、安保清種顧問、左近司政三首席随員を含む海軍随員の殆どが、
「今一度強く出たら英米は譲歩する」
と判断したという状況があったため。


纏めた反対意見を山本が財部彪全権に開陳した所、財部はかなりぐらつき(板挟みで困ったのだと思う)、若槻にも開陳しにいけと指示。
この時の様子がかなり凄かったようで、見ていた外務省の斎藤博は

「日本全権団員の息の根を止めるような猛烈果敢さがあった」

と語り、また財政面からこの辺りで妥協した方がいいと意見を述べた賀屋興宣(大蔵省)に山本は、

「賀屋黙れ!それ以上言うと鉄拳が飛ぶぞ!」

それは最早脅しですがな。



山本五十六は大正8(1919)年から2年間、大正14(1925)年から2年間、アメリカに駐在しています。
山口多聞も同様です(大正10年から2年間)。
この会議が昭和4(1929)年なので、たった数年前の話。

アメリカに駐在する中で彼我の国力の差を知悉し、また飛行機の重要性・必要性を感じたという話は、山本のエピソードとしては非常によく知られたものと思います。

もし日本が原因で会議が決裂したらどうなるか。
米英とは大きな溝が出来ますし、その後に待っている建艦競争で日本がどうなるかって、山本が想像できなかった訳がないと思うんですが。
米国駐在期の体験が山本の「日米戦うべからず」の大元となっているのに…

山本はワシントン会議以後、砲術から航空分野に転身しています。
そこまで航空兵力を重視するようになった山本が、何故そこまで艦船の割合に拘ったのかというのも、私にはいまいち理解できません。


この話ね、山本五十六の話する時でもあまり触れられない。
一番よく読まれているであろう阿川弘之の伝記小説にも書かれてないし、何だか無かった事のようにされて、
こんなに一貫して戦争に反対した提督なんですよ!先見の明に溢れてたんですよ!
って言われてるように思えてならない。


ちょっと横道逸れるけど。
『歴代海軍大将全覧』という本があります。(半藤一利、横山恵一、秦郁彦、戸高一成/中公新書ラクレ/2005)
歴代の海軍大将について4人で延々と座談している本。

山本の項目。


秦 山本はロンドン会議のとき、随員として行くのですが、請訓案に大反対した。
   あのころの山本は単純な、向こうッ気の強いあばれ者の印象があります。

半藤 怒ったのは、具体的にどうのこうのではなくて、
    東京に照会せずどんどんすすめた財部全権のやり方が気に入らなかったからみたいですよ



ロンドン海軍軍縮会議の話これで終わり。

私は半藤さんはあれこれの人物に関して贔屓の引き倒しをする人だと思って見ていますが、これなんて本当にそうだと思う。
やり方が気に入らなかったとか、そういう話じゃないと思うんですが。

それにやり方が気に入らないという理由だけで、軍縮という国家の安危に関わる問題をぶち壊そうとするのか。
それはそれで問題だろうし、これ、結構山本に失礼なこと言ってる気がするんだが。


ただ、やり方が気に入らないというのは、分かるんです。
ただそれは財部に対してだけではなく、特に首席全権若槻礼次郎に、であったでしょう。
財部に対しては、海軍の立場を強く主張しない腰の弱さに腹が立っていたとは思うけど。


財部彪、若槻礼次郎、谷口尚真


見ていて分かるように、松平・リード会談にせよ、日米英の全権会談(トップ会談)にせよ、軍人がコミットしていないんですね。
政治家が政治判断として、軍人抜きで妥協案を成立させている。

………。
まあ要するにあれだ。気に入らないんですよ…^^;


続く


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Comments

post
2015-09-07 21:52 
Unknown #341[Edit]
「鉄拳が飛ぶぞ」の話は誰がそう言ってるのですか?
①本当にそうなのか?
②事実であれば、なぜ、そうなのか?
これらを調べてから、ああだこうだと言うのが本当だと思うのだが、世に出回る批評は、不思議なことに、これが一切ない。自分で一回でも検証をやって見れば、そんな与太話がほとんどだというのがわかるはず。こんな誤った土台の上に、さまざまな評論がされていることに私は虚しさを感じるのです。。
2015-09-09 21:47  >Unknownさん
ヒジハラ #342[Edit]
確認が遅くなりまして。

セリフは『大分県先哲叢書 堀悌吉評伝』(芳賀徹/大分県教育委員会/平成21年)よりの引用ですが、話自体は賀屋本人が書き残しているものです。

とうとう海軍の次席随員の山本五十六少将が、大蔵省がこれ以上主張するなら全海軍は鉄拳をもって制裁すると、とんでもないことを言いだした

と『私の履歴書19』(日本経済新聞社/昭和38年)の「賀屋興宣」の回にあります。
『評伝賀屋興宣』(宮村三郎/おりじん書房/昭和52年)、また併せて『ロンドン海軍条約成立史ー昭和動乱の序曲』(関静雄/ミネルヴァ書房/平成19年)をご覧ください。
弊サイトの文章をどのように感じられるかは自由です。
しかしお言葉を返すようですが、Unknownさんもそのように書かれる前にお調べいただければと思います。
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