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原敬と加藤友三郎

山梨遺芳録より (第8回)


大正10(1921)年11月12日に開催される軍縮会議に参加するため、加藤友三郎全権以下随員らが日本を旅立ったのは10月15日。
ワシントンに到着したのは11月2日でした。
で、着いて早々彼らに齎された国内の大事件が原敬首相暗殺。

原敬は11月4日、東京駅で暗殺されています。
京都で開かれる政友会の党大会に出席するため、神戸行き急行に乗ろうと改札に向かっている最中だった。
小刀で胸部を一突きされ、傷は心臓に達していたといいますから、恐らく即死であったと思われます。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/toukyoueki.jpg リニューアル前の駅でごめん…
東京駅丸の内南口の暗殺現場


この連絡を受けた日本の全権団はワシントンで原の追悼大会を開いている。
ここで随員のひとりであった横田千之助が演説をした。
横田は元々星亨の書生でしたが、星が暗殺された後は原に世話になっていた。
原からの信頼も厚く、当時内閣法制局長を務めていた「原の懐刀」とか「政友会の大黒柱」と言われた人物でしたが、大正14年に若くして亡くなっている。

その横田の演説、割と知られたものだと思います。
曰く、


長い接触の間に、首相は、神や仏の信仰について、一度ももらされたことはなかったが、
こんど私が東京を出発するにあたって、お訪ねしたところ、

『さきの第一次世界大戦は、世界人類にとって一大悲劇であった。
この後、いかにこれに処するかということは、世界の大問題である。
このときにあたり、五大海軍国間に、軍縮会議が開かれるということは、まさに、神の声で、まことに天佑というほかはない。<略>
こんどは、私の信頼する加藤海相が行くので、安心しているが、おまえは、私の気持ちがよく分かっているはずであるから、私の意をくんで、十分やってこい。<略>』

このとき、初めて原さんが心から神仏を信仰しておられたことを知って、驚きかつ感銘しながら出発した。
(『山梨遺芳録』)


『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1955)にも同じ話が載っている。


(※土原注:原首相は)日ごろ神仏などを口にする人ではなかったが、米大統領ハージングが、今回軍縮会議を提唱してきたときには、ハージングの頭に神が宿ったのだといって、非常に喜んでおられた


原が神仏を信じていたかは別にして、神仏に感謝したくなったというのは、よく分かります。
まあ…当時破綻が焦眉の急といいますか…
第一次世界大戦(大正4~7年)のお陰で日本は国債の利子さえ返せない状況は脱したのですが、大戦が終わったら大戦景気も収束、大正8年には株価が大暴落して恐慌が始まるなど、経済に陰りが見えてきました。

その上時は軍拡時代ということで、特に海軍が88艦隊計画を進めています。
大正10(1921)年当時、国家予算に占める海軍費は実に3割。
計画通りに88艦隊が完成すれば海軍費は国家予算の半分になり、大東亜戦争を迎える前に国家が財政的に滅亡していたとも言われている。
大蔵省が海軍省と軍令部の主だった人間を集めて、このままじゃ国がつぶれる、何とかしてと、泣きださんばかりに陳情してました。
軍拡もさることながら、原内閣も積極財政で随分ばら撒いていたし(地方への鉄道敷設など。我田引鉄といわれた)、まだシベリアから撤兵してないし…
厳しいなんてもんじゃなかったと思う。


「軍縮会議が開かれるということは、神の声で、まことに天佑というほかはない」


そう原が横田に言ったのは、世界の大問題云々ではなく、日本が財政破綻から救われるという事の方が大きかったと思われます。
それに軍縮に賛成・協力することで、対華二十一ヶ条の要求やシベリア出兵で悪くなる一方だった日本の国際的立場を、少しでも良い方に転換できるかも、という気持ちもあったはず。
うん。実際天佑だったと思うよ…
原の言葉は第一次世界大戦勃発を聞いた際の井上馨の言葉を彷彿とさせます。
とまれ、政府の方針としては諸々の政治的判断から何としてでも軍縮を断行したい。
そりゃ伊東巳代治とかじゃあ…とても…うん…^^;


全権大使として白羽の矢が立てられたのが海相加藤友三郎になります。
全権大使は加藤、幣原喜重郎、徳川家達の3人ですが、加藤はその主席。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312231245042af.jpg


前回書いたように原が加藤を選んだのは
 ・不満が噴出するだろう海軍を一番抑えられる人物
 ・海軍の軍縮であるから、海軍から人を出した方が海軍も納得するだろう
という点から。
それもあるけれど、原敬は加藤のことを随分信用もし、信頼もしていたようです。


加藤は閣議の時でも黙って何も言わないが、こちらから聞けば非常に要点を突いた的確な答えを返してくる恐ろしい人物だ

そういうことを人に言っていて(どこで見た文章か覚えてない)、『山梨遺芳録』にも、


(※土原註:加藤は)原首相のよき相談相手で、口数は少いが、急所急所に対しては、適切なアドバイスをしていたようである。
加藤海相の言うことには無駄がなく、またあやまりがない。原首相も全面的に信頼していたようだし、加藤海相もまた原首相に心服していたようであった


とある。
加藤は寸鉄人を刺すと言われた人ですが、原はまさにそうした印象を受けていようです。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20131213124648897.jpg
(原内閣の顔ぶれ。加藤の右隣にいるのは田中義一です。背が高いねー)


一方の加藤は原をどう見ていたんでしょう。
同書によると原敬暗殺の報を聞いた際、加藤は力を落とし「がっかりしてふさぎこんでしまった」。
原がいなくなったことで国内はこれから一体どうなるのか。また軍縮会議で骨を折っても、果たして批准できるのか。
そうした不安があったようです。

そして「めったに、こんなことをされることはないのだが、よほど苦しかったと見えて」、随員であった山梨に原の話をしています。
誰かに聞いて欲しかったのか…
『回想の日本海軍』(水交会/原書房/1985)にも同じ話が載っていて、こちらを引用してみます。


原総理は実に偉い傑物であった。
第一、頭に余裕があって、気持の宏大なこと測り知ることのできないものがあった。
例えば、築地辺りの日本風の料亭で宴会があると、必ず列席された。
そして身辺には、半玉を大勢を集めて面白そうに漫談された。
こうして半玉を楽しませながら、自らも愉快に楽しみ喜んでいるその気分の広さと余裕の綽々たることは底知れぬものがあった。

重要な案件に関して、自分と結論が違った場合が起こると、自分は原首相の意見よりも自分の意見の方が適切であることを疑わなかった。
これは、むしろ総理の方が自分より承知している場合が多い。
しかし、弁論討議となると自分の弁舌では首相に敗退する場合が多かった。
 

『遺芳録』には、加藤曰く、
「原は演説は下手だが討論となると無敵。加藤は自分が正しいと思いながら議論するけれど、原にはどうしても勝てない。議論で勝ったためしがない」

原の演説は議会でも下手くそと言われていたみたい。
原の養嗣子・貢も、何度か父の演説やスピーチを聞いたが義理にも上手とは言えなかったと言ってますなー^^;
しかしながら座談は、これは上手で定評があったそうです。
子供好きで、子供を喜ばせる話し方も上手だったようで、料亭では半玉ちゃんたち(大体12・3~17・8歳位)にもってもてだったらしい。
原さんハーフにMMKだよ!(笑)
そら楽しかったろう。


その無限の精力が一体どこから湧き出るだろうかと自分もいろいろと研究してみたが、結局は皇室、民族に忠実な純真なる誠が源泉であった。
さらに、党費として随分各方面から金銭、資材等が集まり蓄積されたが、首相は廉潔、潔癖、小心翼々として、少しも私用の使途に宛つることなく、全部を挙げて党費の支給に充当しておられた。


原は金銭の出入りにとても几帳面だったという話を西園寺公望も残していて、それを加藤は小心翼々(1:肝が小さい、2:慎重・注意深い 後者の方)と表現しているのだと思う。
政友会は大政党で、しかも当時与党でしたから色々な利権が絡み、党員が大きな汚職事件を起こしましたが、原自身が金銭に潔癖だったというのは事実です。
原日記だったと思うけど、古河と三井に党費○○円を秘かに預けていること、原が個人として受けた寄付○○円は返金すること、こういうことが書かれている所もあるらしい。
原敬日記が初めて世に出た時は削除されていたけれど、新版の方ではそちらも入れていると、ある本に書かれていた。
金額も本の題名も忘れました。ごめん。
山本四郎さんの本だと思う。

色々研究した、考えたということは、加藤から見て原には「おや」と思う所があったということでしょう。
それだけ加藤が知る政治家(や軍人たち)と比べて特異というか…
違う所があったということかと思います。
「精力的」というのは確かに原を表す言葉のひとつだと思う。
一番は「リアリスト」だと思うけど。
   

加藤を見てまず思い出すのがこの写真。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312240543043e2.jpg


いや…お孫ちゃん大好きだったらしいよ、友さん。笑
この写真見る度に なんでーこんなーにィかわいいのかよ~孫という名の宝物~ って回る(笑)
大正10年5月27日(海軍記念日)に水交社にお孫ちゃん連れて行ったらこういうことになったらしい。(いい加減)
孫に帽子交換されてめっちゃ笑顔→それを見た新聞記者「撮らせて!」→海外にも流れ、写真くれという人も結構いたらしい。
この写真を見ていると冷徹氷の如しとか、そういう事を言われた人とは思えない(笑)


一方の原敬は年1回開かれる法学校の同窓会から帰って来て曰く、

「話という話が孫の事ばかりで、今夜の集まりは不愉快だった」

若いわー(笑)
精力的であったというのは、原が政治が大好きだったということが大きかったと思うけれど、こういう若さもあったからだろうと思います。
養嗣子がまだ学生で孫なんてまだ先の話だったということもあるだろうけど。

しかしこの両者の違いを見ると笑ってしまう。
しかも加藤の方が原より5歳若いんだよ(笑)


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1日あいちゃったよごめんなさい。
風邪引いて寝込んでました。
8時過ぎに寝て起きたら1時半過ぎてたのでもうそのまま寝てしまった。
くっそー十日戎に行きたかったのに…orz

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