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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
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海軍兵学校15期!(5)

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

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続き。

明治20年10月16日付の広瀬武夫書簡を見ると、芝にある某寺にクラスで集った事が分かります。
書簡には去る16日とあるけれど、エクセルと使うと当時の9月16日は金曜日で、それはちょっと難しいだろう。
10月16日なら日曜日なので、休みの日に合わせたのではないかなと想像。
『広瀬武夫全集』も『軍神広瀬中佐書簡集』(戦前)も手紙の前後が省略されていて(欠損か)、どういう文脈で書いていた話なのかとか、詳細が分からんのだ…


広瀬曰く、

入校より3年経つのに、同級生の中に言葉を交わしたことがない人間がいる。
クラスが一致団結して切磋琢磨しなければならないので、これを何とかしたいと芝山内ノ或寺ニ集会致候

ある寺ってどこなんでしょう。
芝でお寺と言うと増上寺しか知らないのですが、調べてみたら沢山寺院がありますねえ…
まあ兵学校から近い所にある寺だろう。


校中ニテモ、猶旧習ヲ脱セズ、旧藩屏ノ弊、全ク去ラズ、同県人トカ、同郷人トカトテ、他県人ヲ外ニスル様ニ見受ケ候。
現ニ十六日ノ集会ノ時ニモ、同郷人ナラバ親睦セシモ、他郷人トハ云々トカ申シ出シゝ人モ有之候。

後来、国家ノ為、実ニ慷慨ニ堪ヘザル義ニテ、小子モ已ニ其人ヲ撲チ倒サント存候程ノ事ニ候ヒシガ、漸ク怒ヲ忍ビテ過ギ候。
莫逆ノ信友両三輩ト、此等ノコトニテ、大ニ其感情ヲ同クシ、勉メテ此弊ヲ破ラント存候。


兵学校に入って3年経ってもこの状態。
この話は司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも描かれていました。
てゆーか暴力に訴えようとするなよ~^^;
まあ確かにそんな物言いされたらめっちゃ腹立つのも分かります。

そして莫逆の友2・3人ですが、誰なんでしょう…
ひとりは竹下勇じゃないかと想像します。


鈴木貫太郎(14期)の話によると、鈴木が最下級生であった際の兵学校全体の生徒数は120人。
その中で関東の人間は鈴木ただひとりだった(東京除く)。
ただその翌年からは群馬、茨城、埼玉などから5人入ってきたそうで。
翌年ということは入って来たのは15期ですが、数えたら5人ではなくて6人いました。


(※土原註:関東出身者が)私のところを訪ねて来るようになり、日曜は私の下宿で一緒に暮らすようになって、だれいうとなく関東クラブという名を周囲からつけられた。
三年目には十何人かが集まったのだから、そういわれるのも無理はなかった。
が、鹿児島や佐賀の連中も、同様に、鹿児島クラブ、佐賀クラブなどというものがあったが、別に競争するようなこともなく、仲良くやっていた。


大分出身者がどれほどいたのかという話ですが、広瀬が在校していた際は広瀬と18期にひとりいるのみ。
それ以前だと広瀬の兄、広瀬勝比古(10期)がいたのみ。
この集会が持たれた時期だと、大分県出身者は広瀬だけになります。
と言うことは出身地が同じという理由でつるめる人間がいないんですね~
他県人と仲良くするしか選択肢がない。だから余計に気になったのではないかな、というのが私の想像。

鈴木が言うように本当に仲が良かったのだったら、広瀬の書簡のようなことにはなってなかっただろうと思う訳ですが。
同郷人ナラバ親睦セシモ、他郷人トハ」云々と言ったのは、人数の関係から考えて鹿児島、佐賀の辺りの人だったのじゃないかと思います。
先輩後輩を合わせると本当に大人数ですし、それだけいたら他県人と付き合わなくてもやっていけたんだろうな~と。


続く 
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