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海軍兵学校15期!(3)

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この話は8回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > FRWL(広瀬武夫コーナー) > 考察・考証 よりどうぞ。
題は 「We are!」 に変えています。

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広瀬武夫が学生であった際の大変化その2は海軍兵学校が東京築地から広島県の江田島に移転したこと。
これが明治21(1888)年夏の話。
移転の理由は、東京は繁華・華美で誘惑が多すぎる、教育上不都合な点が多いとか、そういう感じ。


江田島の新校舎着工は明治19年になります。
『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』(水交会/秋元書房/S46)によると、21年には講堂や砲台、官舎などは出来上がっていたそうです。
しかしながら肝心の生徒館がまだできていなかった^^;

生徒はどこで生活をしていたかと言うと、生徒学習船、東京丸。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014_07020023.jpg


神戸の小野浜造船所で艤装された船。

ちなみにこの小野浜造船所、東京丸の艤装の前は大和を建造していました。
あの戦艦大和の初代艦です。
その時の監督官が東郷平八郎でして、神戸にはその記念碑も残っています。


https://blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20140703.jpg


花隈にある東郷井。

揮毫は財部彪(15期)、裏の撰文は小笠原長生(14期)になります。
こちら、戦前に神港倶楽部という施設があり、東郷はこちらに約1年逗留して小野浜造船所に通っていた。
毎朝顔を洗うのに使った井戸があったところから「東郷井」。
財部の命名。

この石碑、もしかしたらなくなるかもしれない。
もしくは移転する可能性がある。
現在川崎重工の健康保険組合保健会館の前にあるのですが、この建物、売却計画が出ているようです。
地元は残して欲しいという要望だけれど、現時点ではどうなるのかよく分からない状態。


15期、近藤常松の話によると、生徒は明治21年の夏休みに高砂丸で江田島に送られた。


当時江田島には校長官舎、甲、乙、丙号の官舎、将校集会所、事務所、柔剣道場を兼ねたる運用索具室、
簡単なる船体模型室、重砲台などがあつたのみで、生徒館も講堂もなかつた。
海岸にカツターを六七隻釣つたダビツトがあり、その側今の機橋のある処に東京丸と云ふ船が学習船として繋いであつた。

私共はこの東京丸へ入れられたが、一番上がハリカン甲板(デツキ)で簡単な診療所、喫煙所等設けられ二番目三番目の甲板は中央にパスセージがあり、
その両側に講堂兼温習室があつた、講堂には四角の窓がある丈で勿論電気はなく、中は薄暗かつた。
船底となる四番目の甲板に釣床、衣服箱があつた。
賄所を海岸近くに設けてあつた。

(『海軍先輩の逸話、訓話集 其7』/海軍省教育局/S10)


機関学校から来た生徒たちは別だったんですね。陸上生活だったのか。
というか、…講堂なかったの?^^;
『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』の説明文には明治21年4月には物理、水雷、運用の3講堂が落成とあるんだけど…
同書には東京丸の平面図も載っているのですけれど、これには確かに船内に講堂が10室あるわ~
そして近藤の回顧と東京丸の平面図から察するに4番目の甲板(最下甲板)で全員が寝ていたのかな、という感じ。


さらに近藤はこんな話もしている。


日曜などに外出しても別に行く処はなく古鷹山に登るか、久枝 の五六軒先にあつた風呂屋の二階を倶楽部にして、此処で休むかしたものだ。
酒保などゝ云ふ気の利いたものはなく(後に御粗末なものが出来たが)
次長(※土原註:三浦功大佐)が心配されて広島から菓子を取り寄せたり、或は牡丹餅を作つて呉れたりもしたものだ。
村には何も無く百姓が作る芋位なもの<略>



海軍兵学校_古鷹山



確かに生徒を華美から遠ざけるというのが、移転の大きな理由だったんですけど…
東京からいきなり何にもない島っちゅうのはあれだなー!
外出しても別に行く所もないしって、ほんと休日の楽しみがないよね!^^;

東京だったらね、広瀬的には講道館に行ったり、甘い物食べに行ったりできたんだけど。
他の人だって似たようなもんだっただろう。
上京して学校に通っている友人に会ったりもできただろうし。


生徒ノ楽ハ、矢張日曜日ニテ、此日朝ヨリ酒保ニ出掛ケ、矢鱈菓子ヲ喰ヒ餅ヲ喫スルカ、
又ハ外出シ、農家ヲ借リテ、鶏ノ汁ニ、白飯唐芋ナリ何ナリ、手当リ次第喰散スヨリ外ニ、何モ無之、
其他ハ手紙ノクルノミニ候。
 (明治21年10月10日付 広瀬武夫書簡)


広瀬でさえこの書きぶり…^^;
休みの楽しみと言えば酒保でおやつを買うか、外出先の農家でご飯を食い散らかすか。
あとは手紙…のみ!

日本一栄えている都市東京からの移動、しかももう20歳超えてますからねえ…^^;
人によっては本当に辛かっただろうな~(笑)

ちなみに江田島にいる時に広瀬は古鷹山に100回以上登ったという話が残っています。


続く。 
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