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追憶(1) 秋山真之

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この話は4回シリーズです。
追記改訂の上サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代史 > MTS-ALL よりどうぞ。

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あの宗教の話で終わるのは余りにも余りなので。

小柳冨次が戦後に纏めた資料があります。
『帝国海軍 提督たちの遺稿』(水交会/2010/水交会)がそれで、通称小柳資料。
東京裁判終了後まもなくから小柳元海軍中将が中心となり、当時生存していた海軍の枢要な位置にいた人物に口述聞き取りを行い、それを原稿に纏めたもの。
内容は大東亜戦争の時期に海相、軍令部総長、軍務局長、部隊指揮官などの職にあった高級将校の懐旧談、47人分。


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戦争の時期の回顧録だけでなく、各自の海軍生活の思い出も結構綴られている。
うん。
戦争の時期にベテランだった人々は日露戦争の頃にペーペーだったり海兵生徒だったりで、若い時期に『坂の上の雲』に出てくる人々が上司だったり先生だったりする。
つまりそういう話もあちこちに散見するわけです。

色んな人が色んな人の上司になっている筈なのだけれど、秋山真之の名前が意外と出てきており、しかもみんな文章が長い。
それだけインパクトのある人だったんだろうね。
秋山の名前を出している人はこの5人。

1)嶋田繁太郎 2)寺島健 3)山梨勝之進 4)清水光美 5)小柳冨次


***


1)嶋田繁太郎 (32期。山本五十六、堀悌吉と同期)

○明治41年 音羽乗組(南清艦隊) 

艦長は有名な秋山真之大佐、音羽は第三艦隊所属(司令官寺垣猪三少将)で、
北は揚子江、南は香港厦門仙頭を巡航警備した。
当時僚艦須磨の艦長は鈴木貫太郎、<略>
三井にハウス・ボートがあり、私は鈴木、秋山両艦長に御共して上海から蘇州杭州まで観光に行ったこともある。
<略>

秋山艦長はよく艦長室で筆を持って、原稿のようなものを巻紙に書いておられた。
字も上手だし、始めからスラスラと立派なものを書いておられるのを見ただけでも、
この人は偉いものだと感心していた。
象山浦の戦略上の価値に就いて課題を出されたことがあり、色々懇切に指導された。

常に臍下丹田に力を入れておらねばならぬと、六尺褌の持論や、
日本海々戦七段構えの邀撃戦法なども興味深く話された。
兵員にはよく桃太郎の訓話を平易に講和された。

南支行動中厦門附近で、海図に記載なき暗岩に接触したことがあったが、たいしたことはなかった。
任務終わって、佐世保に帰港したとき、浅岡と云う造船部長(艦長の同郷人で私の保証人)の官舎に
秋山さんと一緒に招待されたことがある。
酔いが廻ると、秋山さんは仕舞八島を演られ、その多芸なのに驚いた。


1年程秋山の下にいたらしい。
てか、これってあれですよね、MVさん。暗岩に接触って、あの話ですよね^^
鈴木の。


○大正5年2月イタリア駐在

イタリア駐在任命時、秋山は軍務局長。
嶋田は兵学校入学時は心臓性脚気で、入学式の時に脳貧血で倒れるなど、入校してからもあまり激しい運動ができなかったようです。
艦隊勤務から外され海外駐在となったのはそれを知っていた秋山等先輩の推挽かとのこと。
また赴任に際して秋山曰く
「イタリー語を覚えてもしかたがあるまいから、フランス語でも学んで来い」
あと秋山が欧州視察に出かけた際、イタリアで秋山や随員山梨勝之進の面倒を見たのも嶋田。


2)寺島健 (31期。市川残花と同期)

○日露戦争時

明治三十八年八月十日の黄海海戦で三笠の損害は可なり大きく、<略>
(土原註:司令部では植田参謀と小倉少佐が負傷退艦したため)
参謀は秋山さん独りになったので、八月一二日私と加藤隆義、菊井信義の三人の候補生は
一時三笠に乗艦を変更されて幕僚事務を補佐させられた。
その内に飯田、清河の両参謀が着任して我々は元の艦に帰った。


明治38年ではなくて、37年の間違いです。
加藤隆義は加藤友三郎の養嗣子、飯田は飯田久恒、清河は清河純一ですな。
あとちょっと続いてるけど、それはいいです。割愛。
ちなみに寺島の1期下、山本五十六のクラスですが、クラスヘッドであった堀悌吉少尉候補生が三笠配属になっています。


○明治40年

ある演習のときであった。
伊集院さんが審判長で秋山さんが主席審判官であった。
両軍が互いに視界に入って将に戦闘を開始せんとしているので、審判官の私は報告に行くと秋山さんは夢中になって碁を打っている。
両軍の距離が三万米になったら知らせて呉れと云う。
三万米になったので、また届けたが中々御輿を上げない。

「もう戦闘を始めました。間もなく二万米になります」
と言うと漸く艦橋に上って来て、じっと両軍艦隊の対勢を見詰めていたが、忽ち
『何々廃艦、演習中止、各艦隊現序列の順序に佐世保に入港せよ』
と信号した。
その処置の早いこと、間髪を入れない。

佐世保に入港すると各審判を集めて講評会議があった。
甲論乙駁、中々会議が進行しない。
すると秋山さんは一木山(料亭)へ行ってくるからと座を外された。
中々帰ってこない。
秋山はどうしたなどと不平も出る。
夜の明ける頃になってようやく帰って来て、斎藤七五郎其の他審判官の起草した講評案を一瞥し、

「こんなものは駄目だ。こんなことは大学校で教えていない筈だ。
講評は批評だけではいけない。
この場合斯くすべきであると教えなければならない。」

と言って忽ち自分ですっかり書き直した。
沢山の審判官が一晩中審議して出来上がった講評案がすっかり反故になってしまったので方々から苦情が出たが、
大学校に帰って、兵棋盤上でチェックしてみると秋山さんの講評案がそっくり的中しているので、
今更の如くその頭脳の精確さに驚かされた。

秋山さんは将来戦のことを心配されて、アメリカに勝つには奇想天外の斬新兵器によらなければ勝ち目はない。
何でもよいから新しい着想を出せと始終云われた。<略>



どこかで聞いたことがある話だ。
『坂の上の雲』に出てたかな?伊集院は伊集院五郎。


3)山梨勝之進


山梨さんの話は年初に連載していた話と同じですので割愛。


あと1・2回続く予定だけど、需要ある?
無かったら止める。


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Comments

post
2014-06-19 22:45 
ジゴロウ #67
お久しぶりです。

真之どうしちゃったな後半生に、らしい逸話が来てくれて、ほっとしたので続けてほしいです。

島村が、『頭脳を休めろ』というのも、当事者からみたら、相当鬼気迫っていたんでしょうね。
2014-06-20 07:39  需要あります!
MV #69[Edit]
>あの話ですよね^^

はい、あの話です(^^)。
真之はその後?『長江航泊心得』という小冊子を書いていますが、素人の私にもすごくわかりやすい解説で、本当にレポートの上手い人だったんだなと思います。

演習の件、『秋山眞之』(秋山眞之会)に載ってます。237ページ。
そちらでは明治40年ですね。

続き、待ってますよ~!
2014-06-20 21:36  >ジゴロウさん
ヒジハラ #70[Edit]
ありがとうございます^^
あそこで終わるのは我ながら気が引けて…^^;
本当にそのものずばり『頭脳を休めろ』だったと思います。周りの思いも。
紙の上から見てもいつ休むんだろうこの人、という感じですし…
本人の状態もさることながら周囲の人がよりハラハラしていたんじゃないでしょうか。
2014-06-20 21:39  >MVさん
ヒジハラ #71[Edit]
需要ありますか~よかった~

『秋山真之』確認しました。
これですこれです。全く同じ話ですね!
小柳資料の方には年が出ていなかったので、略歴を見てこの辺りかと思ったのですが、随分外れてました。笑
ご教示ありがとうございます、書き換えておきます^^
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