Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

Home > ヒストリ:近代MTS > 大正 > Changing(2)

Changing(2)

前の続き。
皆さん一体何の話が始まったのかと思われるでしょうが、秋山真之の話ですよ。


浅野和三郎の入信は当時の知識人層には衝撃的だったらしい。
浅野は自分の入信経緯を雑誌に掲載したりして、特に文学仲間であった樗牛会(一緒に雑誌を出していた)の人はかなり驚いたようです。
自分たちの雑誌でそうしたことを発表されて、これはまずいとも、思ったと思う。
浅野を引きとめもしているけれど、無理でした。


大本教の出口王仁三郎としては、浅野の入信は大歓迎だった。
書いてきたように、この方ものすごいインテリで、しかも言葉を生業にしてきただけに文が立つ。
教義を論理的に固めていくのには非常に得難い人物で、出口が態々横須賀まで足を延ばして綾部への移住を促している。
それで海軍機関学校を辞めて綾部に行ってしまう訳ですが。

浅野は実質ナンバー2として迎えられます。
ただ、教義を考えるという点で最終的には出口以上になってしまい、教団内で大きな影響力を持つようになった。
浅野が入信したということで入信した知識人も随分いたそうなので、それを思うとそれもそうかと思う。
実質的に教団を動かしていたのは浅野だという人までいたそうです。

そして大正10(1921)年に起きた第一次大本教事件で完全に袂を分かつことになり、浅野は独自に心霊科学研究会を起こします。
根本にあるのが行者との、大本教での心霊的体験だというのがあるのでそっちに向かったのね…
なんか、あの…サイキックとかスピリチュアルとか、そういう方面みたい。
スピリチュアルとか言われたらさー…
江○ナントカとか、私個人としては正直胡散臭さしか感じないわけですが。
ちなみにこの研究会、現存しています。





浅野が綾部に移住した直後、訪ねてきたのが秋山真之でした。
浅野によるとそれが大正5(1916)年12月14日。
秋山は当時第二水雷戦隊の司令官で、吾妻に座乗、舞鶴に入港した折を見てやって来た。

この辺りの様子は浅野の『冬籠』に描かれています。
ネットで全文を上げている方がおられましたので、そちらのリンクを張っておきます。
(『冬籠』>[一、綾部の冬籠]>(3)~)(別窓)

初対面時の秋山から受けた感じが面白いので引用してみます。
ちょっと長いよ。


***


談話を交ゆること一時間ならずして秋山さんの長所は次第次第に判って来たが、しかし其の短所弱点も亦た髣髴として認められた。
頭脳の働きの雋敏鋭利を極わめ、為めに停滞拘泥することを嫌い、自分が善と直覚するものに向かって、
周囲の一切の顧慮を打棄てて勇往邁進する勇気にかけては、確かに天下一品の概を有して居た。

軍人でも政治家でも、官吏でも、或る地位に達すると、兎角イヤに固まって了って、心の門戸を鎖ざし、清新溌刺の気象に乏しくなる。
殊に知名の名士という奴が却って可けない。僥倖で博し得た其の虚名を傷つけまいとして、後生大事に納まり返る。
其麼(そんな)人物には面会せぬに限る。
会えば一度でがっかりして了う。

所が、秋山さんには微塵も其の臭味が無なかった。
日露戦役の殊勲者などという事を毫末も鼻の端にブラ下さげず、思うて居る事は何でも言い、判らぬ事は誰に向っても聴き、
キビキビした、イキイキした、何とも言えぬ美わしい、気持のよい、真直ぐな男らしいところがあった。


しかし一方に長所があれば、同時に又短所の伴うのは致し方がないもので、秋山さんは余りに其の頭脳の鋭敏なのに任せて八人芸を演じたがる所があった。
一つの仕事をして居る中に、モウ其の頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居るといった風で、
精力の集中、思慮の周到、意志の堅実などというところが乏しかったようだ。

『参謀としては天下無比だが、統率の器としては什麼(どう)であろうか』

というのが海軍部内の定評のようであったが、成程この評にも一片の真理は籠って居ると思われた、人にはそれぞれ特長があり、方面がある。
秋山さんは日露戦役に海軍の名参謀として立派な職責を果し、又天下の耳目を一身に集めた人である。
それ丈で秋山さんの秋山さんたる所以は十分に発揮されて遺憾なしである。

<略>

秋山さんの信仰に対する態度には、例の秋山式特色が現われて居た。
早呑み込みをするが、ややもすれば移り気が多過ぎて、其の結果不徹底に流れた。

或る時期には明照教に凝って見たが、一年足らずで之を見棄て、
次で川面凡児氏に傾倒し、同志を集めて其の講演を聴たり何かしたが、之も一二年で熱がさめた。
池袋の天然社にも出入りしたが、それも余り永くは続かなかった。

兎も角くも物質かぶれのした現代に一歩を先んじて、神霊方面の問題に研究の歩武を進めようとしたのは、
確かに卓見たるを失わなかったが、姉崎博士の所謂迷信遍歴者という部類に編入されても致し方がないところがあった。

彼方を漁り、此方を漁りて帰著する所を知らない。
吾々から無遠慮に之を批評すれば信仰上の前科者であった。
最後の秋山さんは大本に来たが、モウ一ひと息という所でこれにも躓づいて了った。

『何所へ行って見ても、半歳か一年経つ中に、自分の方が偉く思われて来て仕方がない』

その日秋山さんは自分に向って斯ンなことを述べたが、秋山さんの長所も短所もよくこの一語の裡にあらわれて居たように思う。



***


精力の集中、思慮の周到、意志の堅実などというところが乏しかったようだ。

という所はそうは思わないなあ、という感じですけど、全体的になんか分かる気がしますわ…
意外とよく秋山を見てる気がする。

秋山はこの訪問以前に大本教のうっすい冊子を読んで興味を持ったようです。
その冊子で大本教とはこんな感じかという大体の見当をつけていた。
それで、


出口先生も自分も、秋山さんの呑み込みの迅いのには舌を捲いて驚いた。
一をきいて十を覚り、片鱗を見て全龍を察するという趣があった。
僅か数時間の会見で、大本の概要は残る隈なく秋山さんの腑に落ちて了った。



という感じだったのだけれど、


尤も秋山さんが、神霊問題に就いて、かくも理解が鋭かったのは、ただその頭脳が雋敏であるという以外に、別に有力なる原因があった。
外でもない、その日露戦争中に於ける貴重なる霊的体験であった。



え?


続きます
関連記事

Comments

post
Comment form

Trackback

Trackback URL
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)