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明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

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戦艦三笠のストライキ(続)

山梨遺芳録より (第2回)


明治三十四年の秋に、副長西山(実親)中佐のひきいる後発隊(<略>)が信濃丸で到着した。<略>
当時三笠は、未完成ながらどうにか居住ができるようになっていた。
ハンモックも釣れるし、賄所もできた。
それに艦の構造にも馴れさせるため、信濃丸が着くと、早速兵員は、艦内に居住することにした。
准士官以上は、まだ艦内居住ができないので、当直は艦にとまるが、そのほか(二十名)は外泊(下宿)することになった。
これは、一つには、士官に英国の社会生活を味わせるという、艦長の趣旨もあったのであろう。

ところが、ここに兵隊の不平が爆発した。
士官は、背広で毎日外出して、いいものをたべ、立派な下宿にとまり、いいことをしている。
われわれは、ゴミだらけの艦内で、ガチャガチャとやまかしいハンマーの音を耳にしながら、不自由きわまる生活をしている。
われわれを牛馬と思っているのかというのである。

兵隊にも輪番に外出を許してあったが、ことばが通じないで面白くないのであろう。
外泊と艦内生活では、天地の差である。
こうなると、兵隊の感情というものは、きわめて尖鋭化するものである。
副長の指導にも不十分の点があったようであり、もっと気のきいた臨機の処置をとればよかったのだが、すでに兵隊がいうことをきかなくなっていた。
暴行非礼をしたわけではないが、兵隊は、中甲板に立てこもって、ハッチをしめて、一切でてこない。<略>

一種のサイレント・ストライキであった。こんな状態が三週間ぐらい続いた。
向井弥一などという精神家の分隊長もいて、さかんに説得したので、ようやくおさまり、艦長は、主謀者を行政処分にして、事件は一段落した。
ところが、三笠が内地に帰ると、山本海軍大臣が承知しない。
将来のために、厳重に処分する要があるとして、本件を軍法会議に付し、司法処分にしたのである。
 

向井弥一がいる!
向井は海兵15期、広瀬武夫の親友のひとりです。
ちなみに艦長は早崎源吾(3)、副長は西山実親(8)。野村吉三郎(26)や清河純一(26)もいた。
山本海軍大臣は山本権兵衛です。
 
http://blog-imgs-49.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/rengoukantai.jpg 清河結構イケメン


山梨勝之進の話からすると、本当にこれは単なるストライキっぽいのだけど…
まあ不正があったとしても山梨が上司や同僚のそういった行為を口にする事はなかっただろうけど、前回書いたような
この反乱は、監督将校や下級将校の収賄事件に発するもの」(『戦艦三笠の反乱』)
というのは、やっぱりちょっと違うんじゃないかなあ。
ちょっと悪く見過ぎてる気がする。
ちなみに「ストライキは3週間程続いた」とあるけれど、『戦艦三笠の反乱』にある同事件の判決文を見ると4・5日で解決してます。

山梨の話だと、司法処分にした、というだけでこの事件についてはこれ以上の続きはありません。
ただ、この軍法会議の史料ってあるのかしら。
ないだろうな(取り扱いが微妙なので)、と思ってアジ歴を見てみました。 
軍法会議そのものはやっぱり見つからなかったのですが(探し方が悪いのか)、関係史料は出て来た。

『35年9月30日 呉鎮機密第322号の2を以て軍艦三笠乗組兵員の非行事件の件』(C10127693400)


あー…サラッとしか見なかったけど、これ、結構な事件扱いになっているっぽい…
そらそうだよね。軍隊において上の命令は絶対です。
下士官や水兵に不満がある度にこんな事をされたら立ち行かなくなる。
上の史料の中では、将来に悪弊を残す可能性がある、という事が非常に懸念されていました。
まさに、


ところが、三笠が内地に帰ると、山本海軍大臣が承知しない。
将来のために、厳重に処分する要があるとして、本件を軍法会議に付し、司法処分にしたのである。



これ。
籠城に参加した下士官らは軍法会議にかけられ処分されています。


それと、『山梨遺芳録』でも『戦艦三笠の反乱』でも触れられていませんが、当然ながら監督者の責任問題に発展しています。
何が問題になったかというと多分、「艦長は、主謀者を行政処分にして、事件は一段落した」、ここの部分。
この「行政処分」というのが一体どういうものか分からないけれど、アジ歴史料を見ていると、艦長らはこの事件の関係者を罰せず、どうやら実質的には不問に付したらしい。
許しちゃったか。

確かにこれはまずいよ。
とは言え事件が起ったのがイギリスで、下士官水兵ほぼ全員がストライキに参加したという状態。
史料に含まれる早崎艦長の報告書によると、士官らと意見を出し合って、三笠を本国へ恙無く回航するという本来のミッションを最優先にした結果がこうだった。
読んでいると、これは海軍士官、しかも艦長としては屈辱的な判断だっただろうなー…と思う。

それを個人としては理解できても、組織としてはやっぱりまずい訳で。
海軍省や呉鎮守府(当時三笠の艦籍は呉)といったトップ、関係局とのやり取りの中で、早崎艦長らの下士官らに対する「処分ハ失当ニシテ責ヲ免レサル」、そう書かれている。
彼らの上官である艦長、副長、分隊士の当時の対処は適切だったか、責任を取らせる必要がある、とそういう事が書かれている。


で、その後どうなったかというと、史料がこれだけであとは分からない(笑)
ただ上が考えていた責任を取らせるべき人って、恐らく報告書(顛末書?)を出していた早崎艦長、西山副長、向井分隊長だったと思うんです。
西山と向井は、どういう処分が下されたのかは分からない。
随分ミソは付いただろうとは想像しますが。

艦長だった早崎にもどういう処分が出たのかは分からないのですが、経歴見てたら、うん。
責任取らされてますね、これ。
明治35年11月末に下士官らの軍法会議が終わり、翌年の1月、つまり事件が完全に終わった段階で待命、6月に名誉昇進で少将になって予備役編入。
要するにクビだ(※正確には引退)。

折角の新進の新造艦、その艦長だなんてめちゃくちゃ名誉な役割だっただろうに、なんと言いますか。
気の毒だ…


ちなみに前回書いたこの事件の時の当直中尉、アジ歴史料によると清河純一だった。
向井と清河が随分頑張って説得していたみたい。





昨日は小さい人が寝ゲロして大変でした。(色々と)
生活のリズムが狂って風邪引きかけてるのと食べ過ぎじゃない?と言い合ってた時に
「ノロじゃ ないよね」
「………」
「………」
救急病院で診てもらったら何の事はない胃腸風邪でした。よかった。

しかし正月4日から「おかずのクッキング」が放送されていてびっくり。
先週はお節やったのに今週は既に鍋で通常回転具合に笑う。
テレビとお店が雰囲気出してるけど、年々昔みたいな”お正月!”っていう感じじゃなくなってきてますねえ…

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Comments

post
2014-01-05 11:20  明けましておめでとうございます
昨年は色々と教えていただきまして、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

上のような状態なら、確かに「反乱」じゃなくて「ストライキ」ですね。
艦長を拘束するなりなんなりして指揮権を奪った(or奪おうとした)のでなかったら反乱ではないでしょう。

しかし、そういう事件の当事者の一人の清河が日本海海戦当時第一艦隊参謀って、ずいぶん優秀だったんですねぇ。
実質クラスヘッドの野村吉公(←水野広徳はこう呼んでました。笑。)が同じころ特務艦の航海長やってたっていうのに。
艦長が責任を全部引き受けてくれたのでしょうか?
2014-01-05 21:54  >MVさん
ヒジハラ #6[Edit]
あけましておめでとうございます!
こちらこそ昨年は色々とご指導ありがとうございました。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

やっぱりこれストライキですよね?^^;
著者は反軍史家らしく、どうしても「そちら」側に話をもって行きたいようで。
なにせ本書に収録されている対談の相手も共産党員という…
推して知るべしといいますか。

職分によって合う合わないもあるのでしょうが、清河については、海大生徒だったという話も合わせて、知らないだけで随分優秀な人だったのかな?と。

このストライキについてはここで書いた以上の事は分からなかったのですが、艦長が全責任を負わされたのかなーという感じです。
西山と向井はその後の経歴を見ても特に気になるような感じでもなかったので…
ちなみに処分された水兵や下士官も後にまた海軍で奉職してたみたいです。

ただこれ、海軍的には大事件だったと思うんですが、日露戦争関係の本でもほぼ無視と言いますか、本当に触れられないですよね…
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