Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

Home > 2017年09月07日

軍歴証明ノート(3)

ビルやマンションの建築現場監督をしていた人が、

関西の職人は右向けと言ったら左を向く。
関東の職人は右向けと言ったら夕方まで右を向いてる。
西から東に行くと仕事が物凄く楽だが、東から西に来ると物凄くしんどい。

関東関西の気質の違いをそう話してくれたことがある。
関西…というか、まあ大阪だと思うけれど基本的には「お上何するものぞ」。
これは歴史から来ていて、幕府がありそのお膝元であった江戸と、日本一の商業都市で商家が多い大坂の権力に対する感覚の違いが出ている。
元は太閤さんの町やというのもある。
そんなこんなで、大阪や京都の師団が弱いのは商売人の子弟が多いからだと一般的には言われている。


大阪城、第4師団司令部
(第4師団司令部@大阪城)


で、『兵隊たちの陸軍史』が引用している関幸輔「日本一弱かった師団」(『現代史研究第7集』)を孫引きします。


旧日本陸軍の中で、日本一弱いと自他共に折紙付の師団が存在した。
その名を大阪第四師団という。

日露戦争で連戦連敗、『又も負けたか八連隊』の勇名(?)は、日本中に喧伝され、以来昭和十二年の日中戦争までの間に起きた、いくたの事変にも一度も出動せず、わずかに昭和八年大阪市内盛り場の交差点で、一兵士が信号無視して警官と衝突事件(ゴー・ストップ事件)を起し、大事件に発展して時の寺内師団長が皇軍の威信に関すると見当違いの大見得を切って世人の嘲笑を買った事件が大阪師団唯一の武勇伝である。


師団唯一の武勇伝である(キリッ

笑。
ゴー・ストップ事件とか久しぶりに聞いたわ。
文中の寺内師団長は寺内寿一(寺内正毅の長男)。
事件について興味がある方は調べてみてください。
師団長も師団長なら陸相も陸相で、本当に恥知らずというか厚顔無恥というか。


昭和14年のノモンハン事件の際、仙台・大阪師団に応急動員で出動が命じられた時、仙台の第2師団はハイラルより徒歩行軍4日で現地到着し、先遣隊である新発田16連隊は直ちに戦闘加入。
その一方、


大阪師団は出動下命されるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、怒った連隊長が医務室に出向き、自ら軍医の診断に立会う始末。
やっと出動部隊を編成したまではよいが、ハイラルから現地までの行軍では<略>一週間を要し、しかも落伍兵続出、現地にやっと先遣隊が到着したら停戦協定成立。

とたんに元気が出た浪花ッ子の面々、口口に戦闘に間に合わざりしを残念がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。
帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。


201410272.jpg 


太平洋戦争開始されるや、(※土原註:おとぼけ師団過ぎて)使い場が無く、結局大本営直轄の南方軍予備という名目で上海付近でぶらぶらしながら待機。


しかし昭和17年4月フィリピン戦線に派兵され、今度こそ一巻の終わりと「青菜に塩」で「力無く」戦場に向かったが、


軍主力の一翼となり、ビクビクしながら進むうちに、弱り切った米比軍が勝手に白旗をかかげて降伏してくれ又も停戦成立。
初めての勝ち戦さに有頂天になったおとぼけ師団の将兵は、まるで自分たちでバターンを占領したような大ボラを吹きまくり、郷里大阪では号外が出る騒ぎになった。

(※一緒に戦った兵団は精鋭師団の中から選抜された部隊でした)


大本営でもこの第四師団の戦力と使い方にはよほど困ったと見えて、その後あれほど南方各地で陸軍が苦戦しても、この師団は遂に激戦地に使用されず、専ら後方基地で待機。
終戦は、タイ国バンコック付近で休養中に迎え、復員開始されるや全員血色のよいはち切れそうな元気さで帰国、出迎えの痩せ衰えた内地の人々を驚かしたという。

思えばあまりにも弱いとの定評が幸いし、おそらく南方出動師団のなかで、一番戦死者を出さず、逞しく生き抜いた大阪人のド根性は見事であり、もっとも人間的には正直な、平和愛好師団だったというべきかもしれない。


申し訳ない、笑ってしまった。
こういう兵団もあったんやな。


大阪編成の第34師団に於ては、ある作戦の際に将校・下士官・古参兵の入院が相次いだそうです(消極的かつ合理的な出動拒否)。
この時は中国軍の兵力・装備が圧倒的で日本軍は多大な犠牲を出し、それでも生き残って帰還した古参兵に入院していた兵が口々に、
「お前は何のために参加したのか」
実は作戦開始前に「囮として使用される」と噂が流れており、入院者は囮になることを嫌ったとのこと。

これは臆病とか卑怯とか、そういうことではない…とは思わんけど、それだけではないと思う。
合理的…
うん、伊藤桂一が言う様に合理的で無駄を嫌うんだろうな。
同書には司馬遼太郎の話も出ていて、曰く、


大阪は元々商人の町で、幕府の威光も大名の権力も怖れない独自の生き方をしていて、こんな環境で育った青年をいきなり軍隊に徴集し
「国家の為天皇の為戦死せよ」
と言い聞かせても、なぜ自分たちが国家と天皇の為に戦い戦死せねばならぬのか、その理屈が実感としてどうしても飲み込めない。

これが仮に東北の若者なら常に領主の圧制に屈してきた伝統に育ってきたから、
天皇>>>>>領主
と説けば、簡単に通じる。

しかし大阪人にはいくら言っても分かりかね、
「えらい迷惑なこっちゃ」
という意識がどこかにあって、まず不合理につまづいてしまう。
それを考えると戦争に弱いのは当たり前……

確かに東北と大阪では大分大分違うだろう。


大阪兵団のもつ
「無益な犠牲は出したくない」
「不合理な戦闘はしたくない」
「無理に敵を追及する必要はない」
といった理論は、当時の陸軍においては、奇妙奇天烈な気質としてうけとられたはずである。
<略>

日本の軍隊がもしすべて大阪兵団のようだったら、日中戦争また多くの事変や戦争は起こらなかったろうし、最後に大敗することもなかったかもしれない。

しかしその代り、もっと早い時期に、どこかの国に、よりみじめな状態で隷属せざるを得なくなったかもしれない。
判断のむつかしいところである。


この本の大阪兵団の話は面白いという以上に、ちょっと考えさせられるものでもありました。
成程なと思った。

そして「国のため」「天皇のため」という意味が最後まで分からなかった兵隊は大阪兵以外にも沢山いたといいます。
それは分かる気がする。

兵隊達は常に「お国のため」という合言葉を信条として非条理な軍隊の内務生活に耐え、過酷な戦場を戦った。
「お国のため」という言葉には覚悟と諦観が含まれており、またこの言葉の裏には、「おふくろのため」「好きな女のため」という、兵隊独自の思いが隠されていた。
厳しい軍律や運命の中をどう生き抜くか、兵隊の知恵の集約されたものが「お国のため」という言葉で、
「国のため」ではなく「国のため」という敬語のなかに含まれる兵隊の感情の微妙なニュアンスは、たぶん「お国のため」に働いた者でないと、実感的にはわからないかもしれない。


兵隊業の想像を絶する過酷さに思いを致さざるを得ない文章であります。


大阪兵団、ヘタレ話ばかりではないと一応紹介しておく。
伊藤正徳『帝国陸軍の最後』にはマレー半島進撃時の独立工兵第15連隊の行動が紹介されているとある。孫引きで申し訳ない。
この連隊は敵が爆破し去った橋梁の架設工事に挺身、その働きぶりは

大阪の兵隊は弱いなどと誰が誤り伝えたのか、それは大きい誤伝であって、この工兵部隊に関する限り、大阪兵団の献身敢闘は、軍や師団の参謀達が、真夜中に起き出でて現場に表敬訪問せねばならなかったほどの没我奉公の光景であった
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)