Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

Home 2016年05月

閻魔(2)

明日、大分県竹田市にある広瀬神社の例大祭です。
残念ながら今年も欠席で返信をしたのですが、先月の地震でお見舞いの電話をした際の御礼状が返ってきた。
神社の社務所では多少物が落ちた程度で家具が倒れる等の事もなく、記念館の方も特には被害も出ていなかったようで(岩盤の上に建っているので地盤がしっかりしているらしい)。
ただ神社の狛犬がずれて片足程が台座からはみ出していたようですが。
お伺いする限りでは最小限の被害で済んだようで、本当にホッとしました。
明日は晴れたらいいですねえ。
広瀬は晴れ男っぽいから大丈夫そうだ(妄想)(笑


***


昨日の続き。
海兵15期、高木七太郎大王ですが、どうも評判が芳しからぬ。
島田繁太郎の話では、機嫌のいい時はいいのだけれど悪い時はそっぽを向いて話も聞いてくれない、だとか…
結構な方法で部下を叱責することがあったようで、副長を望遠鏡で殴りつけたとか、当直将校を叱責したとか。
多くの部下の面前で機関長を難詰するということもあったそうです。
私(わたくし)の都合で人を動かすことも、『海軍生活放談』を読んでいる限りではかなりあったのではないかと思われる。

素人目から見てもこんな様子で部下の統率が出来るのかと思うのだけれど、やっぱり諸所に不都合が出ていた模様。


士官室士官は艦長から離れ、次室士官は士官室と折り合いが悪く、兵科と機関科の間もしっくりとは行かなかった。
これは当然の帰結であり、大正四年度の比叡の各種成績は、芳しいものではなかった。
<略>


日本海軍も既に三〇年近くの歴史を持ち、日清、日露の戦役を経験して来たのであるが、大正初期には高木大王式の統率法が尚残存していたのである。<略>
大王に部下統率の確乎たる信念があったとは思わない。
強いて言えば、圧服式である。
海軍刑法とか、懲罰令というようなものを背景とし、威圧に終始していた。<略>
尤も、この威圧、圧服の方法は比叡に限ったことではなかった。


ふーんと思ってさ。
残念ながら、高木は本当に評判が悪かったのだと思う。
部下の面目を丸潰れにするような叱責の仕方だとか、納得させられないような人の使い方だとかは、文章を読んでいるだけでもちょっとどうだろうと感じてしまう。
当事者だったら余計に反感を持つだろう。


ただこの本の上記引用の件を読んでいて思い出したのが「追憶(3)」のオマケで書いた笠置のガンルームの話。
威圧的な上司とそれに反発する部下。

比叡に限ったことではなかった」とあるように、何処でも同じような問題が起こっていたのではないかなあ。
それが克服できたかどうかは、個人の資質に依っただろうけど。
比叡の場合は高木個人の問題も多々あったと思うのですが、ジェネレーションギャップもかなり影響していたのでは?という気がする。


勉強していて、日露戦争の前(明治30年代)と後(40年代)では生活、世相、社会状況等その他諸々に於て隔世の感があるように感じます。
大正4(1915)年だと余計だろうなとは思うのですが、それでも日露戦争(1904~5)からまだ10年ほどしか経っていないのですよね。
海軍という狭い同一組織の中でもここまで温度差が出てくるかと、そこに若干の驚きを感じます。
まあ日露戦争前でも同様の問題は起こっていただろうとは思いますけれども。

読んでいてちょっと面白い話でした。


***


ジゴロウさんへ ( ・ω・)⊃ 『山川浩
 著者が甥。国会図書館にも所蔵がないそうです。5/30まで予約可能

objectさんへ( ・ω・)⊃ 「海軍文庫開設 記憶伝える 下関の増冨さん
 海兵在校中に敗戦を迎えられた方だそうです


すでにご存知でしたらご放念ください。
関連記事
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)