Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

秋山真之の書簡

3月に松山に行った際、坂の上の雲ミュージアムで秋山真之の書簡の釈文下さいとお願いをしましたところ、快くご了承下さいまして。
3月末と先日に分けて数年前に鑑定団に出ていた書簡2通と、未公開の書簡1通分を送付頂きました。
鑑定団に出ていたのはこちらのパンフで紹介されているもので、2通の内1通の冒頭部分の写真が出ております。

宛先は前川義一、海兵27期で同期に末次信正がおります。
書簡は大正6(1917)年3月14日と同年6月5日付のもので、「舌代」から始まる写真の書簡は前者、3月に書かれたものになります。
ちなみに「舌代」ですが、これ書簡の冒頭に使う言葉なんだろうかといつも思ってしまう…


秋山真之 


頂いた釈文を読む前にもう一回自分で書き下したのですよ。
テレビ見ながら書いた釈文よりはましやったわ…(なぜ書き下せたかと言いますとテレビ画像をスクショで取っておったからです)
というかあの時何故これが読めなかったと思う部分がちらほらあるぞ^^:
うむ…

まあ、分かることはやね、兵器の話は皆目分からん。(おい…
パンフの下の方に平岡貞一宛書簡(T6.1.26)の全文が出ていて、これが話としては繋がっています。
急行掃海具と曳航水雷の製作前(平岡宛)と製作後に行われた実験後の課題の話(前川宛)。


IMG_3918.jpg 
(平岡宛)


水雷関係かあと平岡宛て書簡の冒頭を見れば、「一昨日上京爾来」秋山は具合が悪かったようなのですね。
上京か、と思いきや秋山は当時第二水雷戦隊司令として舞鶴に赴任したばかりの頃でした(T5.12月補任)。
そら話題は水雷で、上京やろ(とセルフ突っ込み

はい、今日はここまで。
短くてごめんね。2回に分けるような内容でもないのだけれど。

大正6年海軍小演習、再び!

1ヶ月程前にobjectさんよりご連絡頂きまして、


大正六年秋、海軍演習


この写真について氏名不詳のまま終わった方の内、2人の名前(阿武清少佐、中村亀三郎少佐)をご連絡頂きました。
流石です。すげえ…
写真やら史料を御呈示頂いて私もそうだなと思ったのですよ。


大正六年秋、海軍演習


で、サイトの該当ページを改訂すべく作業をしていて更に気付いたのだけれど、


大正六年秋、海軍演習


じゃねえ?と書いてますが、この方有地十五郎だと思う。


大正六年秋、海軍演習


そしてもうひとかた、日比野正治。
3列目の樺山可也?(と書いていますが樺山ではありませぬ)の方と迷ったけれど、2列目の方だと思う。
?付いてるけど、多分そうだと思う。
違うかな…

有地と日比野、二人とも当時海大の学生。甲種15期。
古賀も中村も同じく海大甲種15期になります。
そうしたら15期、塊で写ってるのかな?っちゅう。
objectさんどう思う?(笑)(聞くなよ…)
うむー…

ついでに調べていたらこの小演習時、統監である島村速雄が座乗していた艦が通報艦満州だと判明しました。
満州は元々ロシアの客船だったそうですが、日露戦争が始まった際に日本のものに。
内装が豪華であったため、観艦式の供奉艦や来賓を迎える等の艦になっていたそうです。
そうであるので、これは満州での撮影ではないかな?と思う次第。

しかし集合写真はハードルが高いわ~

パラべラム~堀悌吉(16)

*****

この話は19回シリーズです。
サイトに纏めて移行済み。そちらの方が読みやすい。
サイト > WORKS > 歴史話 > 近代MTS > 明治~昭和 よりどうぞ。

*****


前回が9月20日。
このページの最終改定が9月30日。

色々間に挟まったからですが、なんというかすいません。笑
我ながら(笑)としか書けない。だって初回が8月11日だよ。笑
何時まで続くのって感じですが、目標通り今年中には終わります。
あと4回で終わるんです。本当です。笑



堀悌吉の話から昭和5(1930)年のロンドン海軍軍縮会議を廻る騒動を見ている最中です。
この軍縮条約を受諾したい派(海軍省系軍人)、破棄したい派(軍令部系軍人+東郷平八郎に近い人間)で海軍がふたつに割れてしまった。

この時の海軍の様相が大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮会議の時とは全く違っているという話、
ワシントン海軍軍縮会議の時の加藤友三郎海相がどんな大臣であったか、
ロンドン海軍軍縮会議の時の財部彪海相がどんな大臣であったか、
当時の背景や、軍縮で名の知れた将官でさえリストラの対象になったという話

…をパラべラム(14)(15)で書きました。

今回はその続きです。


****


パラべラム(15)は、大正10(1921)年のワシントン海軍軍縮条約(以下ワ条約)の後、海軍士官もリストラにあっていたという話でした。

大体条約締結後の大正11~12年頃のこと。
ではこれでリストラは終わったのか言われたら、そうではなくてですね…
話題にはならなくても軍縮の処理はそれ以降もずっと続いている。
作る筈だった軍艦が作れなくなったので民間の造船会社に補償金やら賠償金やらを出したりしもしていますし、財政削減の折り柄、人件費が削られもしているので大正13年末には再度の人員整理が行われています。


//blog-imgs-59-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/201312231245042af.jpg


大正10(1921)年時、原敬内閣の海相であった加藤友三郎は大正11(1922)年に総理大臣に就任します。
それがワシントン会議から帰って数か月後の事。
帰国した加藤が斎藤実に、

「アメリカでは死ぬかと思った」

と言うほど体調が優れなかったことは以前に触れました。
それがメディアをして蝋燭の燃え残り(残燭内閣)と形容せしめた程の状態で、総理兼海相を勤めた加藤は大正12年8月下旬、現職のままで亡くなります。

その後成立した第2次山本権兵衛内閣から昭和の浜口雄幸内閣に至る迄、間に村上格一、岡田啓介を挟みながら、3度海相を勤めたのが財部彪になります。


財部の時代に更に人件費が削減となったのは、大正12(1923)年9月1日(第2次山本内閣の成立直後)の関東大震災も大きな要因であったでしょう。
財部はそうした軍縮・緊縮財政の時代、経済的に余裕がない時代の海相です。
海軍と政府の間に挟まれる、中々舵取りが難しい時代の海軍のトップでした。


ワ条約で整理された人員は『加藤友三郎』(新井達夫/時事通信社/1958)によると、

準士官以上 … 約1700人
下士官 … 約5800人
(海軍関係の職工 … 約14000人)

とあります。
加藤が人員淘汰は上級者からと考えていたことは既に触れましたが、職業軍人が随分淘汰されている。
そして大正13(1924)年末、財部彪の時代もその方針を引き継いだようです。


財部彪


とはいえ、財部の時には古参将官の多くが既に予備役後備役退役となっている。
ワ条約の際には、海兵26期なんて大佐クラスをわざわざ少将にして予備役に入れているんですね。
この時の整理基準が主として海軍兵学校のハンモックナンバーだったようで、下位者から順番に予備役入りになった様子。
(20数年前の学業成績でこんな重要なことが決まるかと思うと相当キツい)。

26期HN上位者は残っていたものの、それが13年末に人員淘汰の対象になった。
その中に樺山可也がいます。
樺山は以前大正6年海軍小演習の件で名前を出した人物で、同期に清河純一、小林躋造、野村吉三郎、水野広徳がいます。
出身が鹿児島で姓が樺山という辺り、樺山資紀の親族か何かと思いますが事典レベルでは詳しいことは分からなかった。


樺山は海兵の成績は59人中の19位(これが上位とは思わんけど^^;)。
海軍大学校の甲種過程を優等で卒業していた人物で、周囲もかなり驚いたようです。
以前触れましたが、甲種は海軍の最高幹部養成コースになります。
つまり将来的に海軍の中枢に入ることがほぼ見えていた人だっちゅうことです。

その樺山が連合艦隊参謀長から呉鎮守府参謀長に転任した直後に転補内命、事実上待命の内命が出た。
びっくりするよね。
GF参謀長って、そういうレベルの職務にいた人にいきなりって。
当時呉鎮長官であった竹下勇も相当困惑したようです。

「ちょっと待て」

と思った人が多かったようで、野間口兼雄横鎮長官、鈴木貫太郎軍令部長らがそうはさせじと頑張っていたみたい。
また軍事参議官や各司令長官からも、財部自身が驚くほどの反発が出たようです。

そこで再度樺山を転補させたのだけれど、今度は薩派優遇だとの声が内部から上がることになった。
もーどーしよーもないわー

結局同期の清河純一に予備役入りの伝言を伝えさせることになった。(樺山は翌14年末に予備役入り)
判断が二転三転してますな。


//blog-imgs-63-origin.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/2014822_3.jpg


こういう時にね…支援者がいないとかなりきつい訳です。

しかも上記した民間造船会社への補償も、対象に川崎造船が入っているわけです。
川崎造船の社長はね、松方幸次郎。
この人は松方正義の息子なんです。
思い出して頂きたいのは財部彪の妻の妹の夫が松方正義の子、乙彦である事。
この乙彦の兄が幸次郎になる。
薩摩閥、その上親族ということで、正当な補償であっても薩摩贔屓だ優遇だと波風が立ってしまう。

部内で評判が悪いというのは、こういう時、非常に難しい。
職務という点においては、出身地もさることながら婚姻関係が非常なネックになっていたことが想像されます。

そして財部はこの時点で海相になって1年と少しという辺り。
財部は海軍省勤務の経験がほぼ無い状態で海相に就任したと前回書きましたが、樺山可也の処遇が二転三転したというのは、この辺りにも理由があったのじゃないかと思います。
部内の空気を読み切れてなかったんじゃないかなあ…


人員整理が視野に入るというのは、当時の時節柄仕方無かったと思います。
ただ財部のやり方はこなれてない。
この”こなれてなさ”がそのままロンドン海軍軍縮会議の紛糾にも出ている気がします。


続く


(財部好きな私涙目orz)

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侍従武官、南洋群島へ行く(3)

南洋群島での侍従武官向井弥一の行動予定関連の文書は「軍第110号-(枝番)」となっていて、一連で纏められた文書であることが分かります。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141117.jpg


<軍第110号-2>(上写真)を見るとこういう文章が出てきます。


向井侍従武官宛
南洋占領地巡視予定ニ関スル件
本件ニ関シ四月六日附軍第一一〇号ヲ以テ申進置候次第モ有之候処 <略>



4月6日に軍第110号で言っておいたけど、とあります。
軍第110号が諸々の大本でそれに大要が書いてあるんじゃないのと思う訳です。
その史料を探します。
しかしこの枝番2の前後を見ても3・4はあるけれど1はない。

ここまでが前回の話。


この<軍第110号>の枝番が含まれているのは上記「雑件(15)」になります。
この冊子の一番初めに綴じられている史料になる。
こういう史料は大体編年なので、「雑件(14)」の後ろの方に<軍第110号>が綴じられている筈、と当たりをつけて確認します。
はーい、ビンゴ~!
今回はサクサク史料が見つかりますなー


<軍第110号> (大正六年四月五日起案 六日発布済)

  軍務局長
向井侍従武官宛
南洋占領地巡視予定ニ関スル件

過日御内話ノ本件ハ大体別紙予定ニ依ラレ候ヘハ最短時日内ニ南洋占領地主要諸島ヲ巡視相成ニ好都合ト認メ候 
右申進ス
 追テ警備艦淀ノ行動予定ニ関係有之候条本件御内定ノ上ハ可成速ニ御内報ヲ得度



…おおう…
今度は過日の内話か(笑)口頭じゃねえか(笑)
こういう「内話」は付箋とかメモ書きが張り付けられていることも多いのだけれど、この件に関してはなかったなー

ちなみに当時の軍務局長は井出謙治(16期)です。
詳しく知りたいのに全然情報がない井出さん。
市販されている書籍で一番詳しげなのが伊藤正徳『大海軍を想う』という寂しさである。


この軍第110号の前にも幾らか関連書類が綴じられている。
<武海第20号>(大正6年4月9日)、侍従武官長内山小二郎から海相加藤友三郎宛て、「武官差遣ノ件」。
文書として出ているのはこれが一番初めで、多分向井の南洋差遣の話は公式にはここから始まっている。
その前は大正天皇から内山侍従武官長なり向井なりに直接話があったか、海軍からの働きかけがあったか。
どちらかだろう。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141118.jpg


侍従武官向井弥一
右臨時南洋群島防備隊ヘ被差遣候ニ付其筋ヘ通達相成度此段申進候也



本当はもう少し実務的な話があるのではないかと思うのだけれど、ちょっと分からない。
このほかにも臨時南洋群島防備隊宛の電報やらがあるのですが、それは本当に連絡と船便の行動予定に関してです。


差遣の目的は大正6(1917)年9月6日の朝日新聞に
「遣欧艦隊御慰問 近く侍従武官御差遣 慰問の品々を携えて=向井海軍少将某艦にて」
という記事があり、これが参考になります。


畏き辺に於かせられては
目下地中海方面に出動或る重要なる任務に服しつゝある帝国海軍将卒の勤労を御軫念遊ばされ
軍状視察を兼ねて御慰問の思召あらせらるゝやに洩れ承はるが
之が為多分侍従武官海軍少将向井弥一氏を同方面に御差遣の御沙汰あるべく
向井少将は天皇陛下日光より還幸の上聖旨を奉じ
将卒らに賜はるべき清酒、巻煙草、菓子等の恩賜品を携え
武官府の栗山属其他を随へ近日中東京出発某軍艦にて臨戦地へ向ふ事となるべしと



これはこの南洋群島差遣の約3か月後の差遣の話ですが、目的は同じだったと思います。
というか御差遣の内容は大体慰問と視察だ。笑

アジ歴の「皇族其他御差遣」を見ていると、侍従武官は大きい出張も結構多いんですよ。
これは侍従武官府と海軍省との書類のやり取りが残っているだけで、他にも軍用機墜落で慰問とかも結構ある。
今回の南洋派遣の様にここに含まれていない書類もあるはずなので、この簿冊は職務のほんの一部になる。

5・6月に南洋に行って9月に地中海?
それで11月にまた差遣かー忙しいなー
…と、めっちゃ素で思っていた。
はっきり言おう。アホである。

同年11月の差遣先は前に書いた佐世保での海軍小演習です。
この新聞記事が9月初めでしょ。しかもまだ国内にいて、その上伝聞。
あのね、当時ヨーロッパに行くのに1ヶ月程度かかるんですよ(民間船)。
さすがに地中海まで行って帰ってくるのは無理だろうと思って調べたら、実際には四竈孝輔が第1・第2特務艦隊に差遣されていました。笑
そういえば四竈の『侍従武官日記』にもそんな記述あった気がする。
そういう辺りは飛ばして読んだから記憶がほとんどない。^^;
(※向井は同年12月初旬に第3特務艦隊に差遣)


「公報第3号 大正6年5月17日」(大正6年 南洋防備隊公報綴 3)を見ると、<臨南防111号>で蔵田臨南防副官心得より本国に向けて侍従武官が到着した旨の電報が打たれたことが分かります。
それによると向井がトラック島に到着したのは予定よりも数日遅い5月13日。
そして向井が本国より携えてきたのは聖旨、そして莨・酒肴料・菓子料となっています。完全に一致。

トラック島への到着がずれたのなら、南洋群島での予定もずれただろうと思い、「艦船行動簿 大正6年6月分(2)」を見ると、
軍艦淀は
トラック 6/11発 → ウォーリア列島 6/13日・14日発 → アンガウル・パラオ 6/18着・20日発 → ヤップ 6/21着・24日発 → 横須賀着 6/30着
となっていた。

ヤップ島での滞在は6月21~24日の4日間。
予定では6月13~16日の4日間でしたが、約1週間ずれたようです。


現地で侍従武官一行がどういう行動をしたのかとか、そういう報告書というか復命書もあると思うんですよね。
どうだろう。
ただこれ提出先は侍従武官府だろうし、だったら宮内省関係になるの?
それに海軍としても現地を直接視察してきたベテランの見解を聞きたいと思うのが普通だと思うぞ。
何かありそうなのだけどなあ…
見た感じではちょっと見つからない。
そして侍従武官が到着した連絡があるなら、帰ったという連絡もあるのでは?と思いきやそちらはありませんでした。笑


そして。
写真を頂いた向井弥一の曾孫であるK様より掲載許可を頂きました。
K様、ありがとうございます!


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/Yap.jpg


この写真の話でした…^^
真ん中に座っているのが向井弥一侍従武官。
6月なので既に衣替え、第2種軍装になっている。

「ヤツプ」島ニ於テ海軍大軍医保利信明氏写ス とあります。
保利さん、調べたら最終が軍医中将で、最後まで昇進した人だった。
図書館の人名事典で調べたら簡易経歴は分かるのだけれど、細かい所まではちょっと…
ネットで探したら大正5年夏から6年末まで臨時南洋防備隊附という情報が出ていたので、当時は現地にいた人のようです。
もっと早くにこの情報を見てたら回り道せずに済んだorz

一緒に写っている人は分からん。笑
ヤップ島守備隊長生越貞少佐(30期)とか鶴田勝大主計等のこの島のえらい人かとも思うけれども、臨南防から案内で一緒に来てる人かもとも思う。
そんな人が来ているかもわからんけど(…)、まあ普通に考えれば接待役・案内役はいるだろう。(大雑把
付き添いで一緒に国内から来た人もいるだろうし。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yap02.jpg


ヤップ島。
現地の集会所だそうです。あと左右に並んでいるのが石貨。
へーっと思って「ヤップ島」で画像検索してみると、なんかこの写真とあまり変わらない様子が出てくるんだが…
調べたら今も当時とあまり変わらない生活をしているらしい。
石貨も実際に使われているそうです。すごいな。
大きさが数cmから2.5m、大きさに価値があるのではなく、その石が持っているヒストリー・ストーリーに価値が付くのだそうで。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/yap03.jpg


こちらはどこか分からないそうです。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/Yap04.jpg


電線が…
アジ歴の史料見てたら、電信関係の書類がちらほらあった。
ちゃんと探せばもっとあると思う。
そういう関係かなーと思ったのだけれど、ちょっと調べたら、ヤップ島、海底ケーブルの集合地だった。
この写真がヤップ島かは、分からないそうですが。

あー…ちょっと待てよ。
それワシントン会議の時に日米間でかなり大きな問題になっていた記憶がある。
家に論文があったはず。
太平洋防備の云々かんぬんで、難しくてなんかよく分からなかったという事しか覚えていない^^;

電信施設自体はドイツ植民地時代からあったものです。
日本が占領した当初ヤップに置かれていたのは分遣隊だと書きました。


臨時南洋群島防備隊司令部
 -サイパン守備隊
 -パラオ守備隊 -アンガウル分遣隊、ヤップ分遣隊
 -トラック守備隊
 -ポナペ守備隊 -クサイ分遣隊
 -ヤルート守備隊


でもって後に守備隊に格上げになっている。

これってヤップ島の重要性を、海軍が初めはよく分かっていなかったという事じゃないかな。
太平洋の情報通信網の拠点に置く指揮官が中尉(もしくは少尉)レベルじゃ確かに心もとないわー

NTTワールドエンジニアリング のサイトを見ると、こういう記述があります。

大正5年6月
38年ドイツの布設した上海~ヤップ間回線を沖縄西方で切断し、これを沖縄に陸揚げし那覇・ヤップ線作成(2,869km)

日本仕様にしとる…
調べてないけど、守備隊格上げはこれ以前だと思います。

1枚の写真からも中々想像が廻りますな^^


…という感じで、この話はここでおしまい。
中々調べ甲斐がありました。
というか、いつも大体こんな感じで調べてます。回り道が多いのよorz


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侍従武官、南洋群島へ行く(2)

続き。

「公報第3号 大正6年5月17日」(大正6年 南洋防備隊公報綴 3)を見ると、4月13日司令官の吉田増次郎の名前で侍従武官送迎・巡視に関する次第が出ている。
要するに侍従武官来るよー!こんなふうにお迎えしてねー!というご連絡である。
天皇陛下の代理をお迎えするということで、なかなか物々しい^^;
それを見ていたら侍従武官の行動予定表が出ていて、向井弥一は日本から南洋まで第八多聞丸を利用することになっていた。

それならきっと海軍省から依頼書が出ている筈。
<第八多聞丸×侍従武官>でアジ歴を検索したらビンゴでした。
「雑件(15)」(大正3年~9年 大正戦役 戦時書類 巻30 南洋群島関係15 雑件 別冊)。

大正6年4月19日付、海軍省副官の名前で南洋貿易株式会社社長宛てに文書が出ています。
それが「侍従武官南洋交通船ニ便乗方ノ件」で、


向井侍従武官来二十八日横須賀ニ於テ第八多聞丸ニ
又「トラツク」ニ於テ以智丸ニ便乗占領地諸島巡視相成予定ニ有之候条 (以下略)


とあります。
はいはい。日付が出てきました。

日本出発は4月28日午前11時、横須賀から。(時間は他文書による)
ただこの文書を皮切りに10コマほど関係する文書が並んでいて、現地における侍従武官の行動予定が出ていました。
(軍務局長発南防司令官宛 大正6年4月19日 電報)
それによると、4月28日横須賀発、二見(小笠原諸島の父島)、サイパン、ロタ経由で、5月9日トラック着。

軍務局長から向井弥一に宛ててもトラック島到着以降の行動予定が出されていて(軍第110号-4)、それによるとトラック島以降は民間船ではなく警備艦淀を使っての移動となっています。
そしてそのまま淀で帰国している。

南開丸は使ってなかった…orz
今回はたまたま南開丸から正解が引っかかったけど、方向違いの史料探しを続ける羽目になった挙句辿り着けないか、辿り着くまでにめちゃくちゃ時間がかかるパターンになる所でした。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141116.jpg


その予定を見ると、
トラック(6月2日発) → アンガウル(6月8日着9日発) → パラオ(6月9日着12日発)
→ ヤップ(6月13日着16日発) → 横須賀(6月23日着)

こんな感じ。アンガウルはパラオの近く。
はい。
大体の日付の特定が出来ました。
向井侍従武官がヤップ島にいたのは6月13、14、15、16の4日間となり、撮影もその間だということが分かります。


この現地での行動予定関連の文書は「軍第110号-(枝番)」となっていて、一連で纏められた文書であることが分かる。


http://blog-imgs-58.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/20141117.jpg


<軍第110号-2>(上写真)を見るとこういう文章が出てきます。

向井侍従武官宛
南洋占領地巡視予定ニ関スル件
本件ニ関シ四月六日附軍第一一〇号ヲ以テ申進置候次第モ有之候処 <略>


4月6日に軍第110号で言っておいたけど、とあります。
軍第110号が諸々の大本でそれに大要が書いてあるんじゃないのと思う訳です。
その史料を探します。
しかしこの枝番2の前後を見ても3・4はあるけれど1はない。


続きまーす


***


バランスボール椅子から普通の椅子に戻しました。
流石に寒くなってきた。笑
私手の冷えが尋常でなくて、冬場は指が凍傷で落ちるんじゃないかと思うほど(;△;)
犬のお腹に手を当てると2度見されるんである…
既にしもやけとあかぎれとの仁義なき戦いが始まっておりますorz
というか10月半ばの木枯し1号が吹いた時にあかぎれができて驚愕した。
い、いくらなんでも早すぎるよ!
3月末にはしもやけと血行悪すぎで指先がどす黒くなってしまうので、その時期でも一応は女子の手でいたいぞと思い(自分で言ってて痛々しい。笑)、頑張ってケアしてる訳ですよ。
とりあえずおててまだふかふかつるすべ。
と思っていた矢先、ジョギング中にコンクリの上で豪快にこけた。昨日。笑

いやー調子がちょっと悪かったんですわー
いつもなら1キロ辺りで体がこ慣れてきて、後はかなり楽にジョギングできるんですけど、昨日は5キロ超えた時点でちょっと無理かもと思う位しんどくなった。
ちゃんと足が上がってなかったみたいで、何もない所で躓いた。
本当にびたーん!という感じだったので、見てた人もびっくりしたと思う。
恥ずかしいとか痛いとかいうより(今日塩スクラブできない)とか(今日はパン焼けない)とか、そんな事ばっか頭を廻る。笑
両手の掌底をついて擦らなかったので打ち身だけですんだけどさー
痛いもんは痛いわー^^;


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