Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(3)

迪宮裕仁親王が学習院初等科を修了する前年頃より、卒業後の教育をどうするかの模索を乃木希典は始めます。
小笠原長生なんかに相談しつつ陸軍士官学校と海軍兵学校を足して2で割ったような、そして文武両道の帝王教育を構想していたらしい。
ただ宮内省を説いて回るも中々理解も協力も得られなかったようで、しかもその途中で乃木が自刃してしまう。
ただ教育構想の骨子枠組みは引き継がれたようです。


乃木希典 東郷平八郎


そして大正3(1914)年4月1日に開設された東宮御学問所の総裁として就任したのが東郷平八郎になります。

この御学問所開設当初の職員は、
総裁 東郷平八郎(海軍)
副総裁 波多野敬直
幹事 小笠原長生(海軍)
評議員 大迫尚敏(陸軍)、山川健次郎、河合操(陸軍)、竹下勇(海軍)。
軍人が多いですなあ。

御学問所の学生は皇太子と御学友、合せて6人。
授業の時は東郷総裁と副総裁、小笠原に加えて評議員の誰かが、学生らの後ろに座って毎日参観していた。
御進講する先生も大変だわ。
授業の準備に何か月も前から掛かり切りになったというので、そらー大変だっただろう。

後にフランス語の御進講をすることになる山本信次郎も、1時間の授業の為に4時間を費やしていたと云います。
その為にマメにしていた諸氏との書簡のやり取りをふっつりと止めてしまったそうで、準備4時間とはいうものの、恐らくそれでは間に合わなかったのではなかろうか。

この御学問所時代に皇太子と東郷の間に何かしらのエピソード…
はあると思うのだけれど、正直影が薄い^^;
乃木程の強烈なインパクトのある話は、あまりないような感じがします。


ちなみに、東宮御学問所が開設されていた期間、海軍の軍事学の御進講を担当したのは、前半が竹下勇、後半が安保清種。
陸軍の方は3人。(端折ったー。笑

海外経験豊富な竹下が海外旅行の話なんかを交えて授業をしていたそうで、軍事学の中では一番人気であったそうです。
先日サイトで更新した大正10年の皇太子御外遊時の供奉員に竹下が加わっていますが、それはこの時の縁、御学問所で御進講をしていたということも考慮されていたようです。


鈴木貫太郎


そして更に時代は下って昭和4年。
侍従長珍田捨巳の死去に伴い、その跡を襲ったのが鈴木貫太郎でした。

鈴木は当時軍令部長を務めていたのだけれど、この時を以って現役を引退します。
侍従長を8年間勤めておりまして、細かいことは部下に任せ、要所は自分が舵を取るというスタイルで、「大侍従長」と言われていたそうです。
この侍従長在職中に2・26事件が起こったものの、先日紹介した妻・たかの助けにより九死に一生を得ている。

また昭和20年に昭和天皇たっての願いということで、総理大臣に就任しています。
当時の総理大臣職は「大命降下」といって、天皇の命令によって臣下が首相となり組閣するものでした。
天皇が”頼む”のは異例中の異例で、恐らくこの、鈴木の時だけだと思います。


全然話違うのですが、『タイムスリップ 竜馬と五十六』っつー小説があってだなー…
この本の中で東条英機が首相に立候補してたんですよ。
私電車でこの本読んでて女子にあるまじき吹き出し方をした(笑)

立  補 て。

著者w
幾らなんでもやっつけ仕事すぎるww
ファンタジーとは言えもっときちんと調べんかいwww

続くー

こぼれ話

ダイバーシティ関連で本編には書かなかったけれど、面白かった話。


①『竹下勇日記』

山口多聞、山本信次郎を通じて竹下勇の長女香ちゃんとの縁談を申し込んでいた。
断られた。
竹下は自身の考えを述べた上で先方に再考を促していたけれど、こういう場合ってどういう風に断りを入れるのだろう…

そして香ちゃん、聖心女子学院に通っていた。
そう言えば山路一善の娘たちも聖心女子学院だったなあ…何かあるの?


②『沢田節蔵回顧録』

沢田節蔵は外交官。
大正10年の皇太子御外遊の供奉員のひとりで、昨日更新したサイトでも名前を何度か出したのだけれど、回顧録にあった外交官の先輩の話が面白かったです。

井上馨の養嗣子勝之助の話が出ていて、この方外交官でイギリス大使(大正2~5年)を勤めていたのだけれど、その夫人・末子さんが大変な才媛であったそうです。
勝之助と結婚する3・4年程前に英国留学し、リバプール大学の教授宅にホームステイ。
英語を英国のハイソ同様に駆使し、話にしても手紙にしても社交に、外交官であった沢田らが到底及びもつかない程練達されていたそうです。
イギリス海軍司令長官夫人がイギリス人秘書を使っていると思っていた程だったのですって。
凄い。
原敬が
「井上夫人がもし男であったら、自分よりも早く首相になっただろう」
と零していたそうで、それも凄いわ。

へーと思って井上末子をググったら「近代日本とフランス」という国会図書館の企画ページに出てきていた(西園寺公望ー青春の巴里:別窓)。
以下要旨。

井上勝之助が退職して英国留学することを祝う書簡に、末子夫人の仏語能力について言及がある。
末子は英・仏・独語に通じた才媛として知られ、社交界の花としてその美貌を謳われた。
西園寺は井上の退職に伴い夫人が帰国するだろうことを惜しみ、
「欧土にて上等交際にハ仏語、仏文は不可欠なもの」であり、
「仏国巴黎ニ於て極々上等の仏語、仏文等御勉強相成候様」井上に勧めている。
勝之助の退職は大隈重信外相の認める所にならず、イギリス留学は出来なかったが、末子はパリで語学を研修することとなった。


凄いわ井上夫人。
というか西園寺、勝之助より奥さんの方を引き止めているような感じが…^^;

そしてこの井上勝之助の後にイギリス大使に赴任してきたのが先日来名前が出ている珍田捨巳になります。
沢田曰く、

小村外相の顧問米人デニソン氏の手伝いをつとめて英語公文起草にかけては省内随一といわれた幣原さんでさえも、珍田大使の英文には兜を脱いでおられ、

「珍田さんは公文書がお上手であると同時にラブレター書きも巧みで、公私の使い分けを心得ておられる。われわれ後輩には真似ができないねー。」

と話しておられたほどであった。


そうなんだ。
幣原喜重郎は外務省で「国宝級」と言われるほどの英語力があったそうなのですが、凄い人がいたんですねえ。
沢田が言うには、珍田は英語のオフィシャルとプライベートの使い分けが大変上手な方であったそうです。

ちなみに幣原は大阪門真の出身。
門真市立歴史資料館にちょっとした展示がされているということを昨年知りまして。
来月1年待ったシーボルト展がやっとこさ関西に来るので、そのついでにちょっくら行ってくる。
楽しみにしてたんだ。
展覧会では神戸で面白そうな展覧会がぼちぼち始まっていますので、そちらも楽しみにしております。

そして沢田もクリスチャンであった…
山本信次郎とは仲が良かったようで、婦人を伴っての海外赴任の際に就学中の子供を山本家に預けていました。

つづきまっせ。

ダイバーシティ*原敬日記

お久しぶりの原敬日記。


20170709_2 


まさかダイバーシティで使うことになるとは思わなかったのだよ明智くん。
山本信次郎出とったわー
折角だから引用で使うことにした。
ホント、いろんな人が出ている日記だわ。

序に書くと、原敬も若い頃、17歳の時に受洗しているのです。
洗礼名はダビデ。
入信した理由は生涯語ったことがないようで不明とされています。

ただ原が入信した頃というのは、教会が布教の必要上無料で宿泊させたりしていたようで、生活の必要上伝道師養成所に入る東北人も多かったそうです。
また欧米人にコネを作れば将来何かの役に立ち、薩長の鼻を明かすこともできるだろうという考えを持つ人も多かったそうで。
原の入信理由は生活の為という事だけではなかったようですが。
ただ後年の原の書斎にはマリア像が掛けてあったそうですし、まあ、色々と思う所があったのだろうと思われます。

ただ原がクリスチャンだというのは何となく、…そうなの?という感があるのだよ…
本当に、そんな感じがしないので。
墓所からして禅寺ですし。

山本信次郎については、実は去年結構大きなニュースが出ていたのです。
このブログでは非公開記事にしていて、取り立てては書かなかったのですが、以下。


丁度サイトで前回更新した辺りの話が出ていますので、興味がある方はどうぞ。

山本はバチカンに宛てた書簡の中で「カトリック信徒の原敬が首相に就任したことに触れ、日本への法王使節派遣の「好機」と強調している」(毎日新聞)とあるのですが、冷徹なリアリストである原は、事国政外交に関しては、日本(と皇室)の利益を最優先にしますからね。
カトリックだからというのは、この場合原にとっては全く関係のないことだろう。
(一国の首相と軍人が生きている世界の違いを感じますな)

まあ山本のリップサービスではとも思うけれど、山本は私が今見ている限りではそんなことが出来るような感じの人ではないのであった…^^;


***


2週間ほど前に犬用のレインコート買った。300円。安い。


20170709


女子にはぴったりだったのだけれど、男子はつんつるてんのぴっちぴち(若干)…
それでもこれよりはいいと思うんだ…!(笑)

雨に濡れないというのは、人もわんこもとってもとっても快適。
もっと早くに見つけたかったー

Sweet Home

本の返却の関係でダイバーシティの続きをそろそろ書かねば…と思った矢先に予約していた本がやって来るという罠。
海兵17期、秋山真之と同期同郷の山路一善の娘さんの本を見つけましてね(有名な方のようでした)。

読んでいたのですが、何という幸せ家族…
山路のイメージとはかけ離れとるー!
とりあえず山路が家でパパと呼ばれていたことに驚いたわ。


確かに山本五十六の家でも、妻礼子さんが子供たちに向かってお父さん(五十六)のことを「パパちゃん」と言ってたよ。
原敬の家でも、養嗣子貢さんが養子になる前、原家で預けられていた時に原敬の内縁の妻を「ママちゃん」と呼んでいた。
え、じゃあ、じゃあ、原敬の事も「パパちゃん」…?
原敬を…、パパ…?


原敬 


と思いきや、流石にそうは呼べなかったらしく(笑)
おじさんと呼んでいた。

原貢は原敬の姪の子供ですが、家庭の事情で原家に預けられてから養子になる迄期間があり、幼心に自分だけが苗字が違うのが悲しかったそうです。
そうであったため養子になった時は嬉しくて嬉しくて、何の衒いも躊躇いもなく原の「おじさん」を「お父さん」と呼んだ。
これには原もちょっとびっくりしたらしい。笑
原も子供好きだからなー嬉しかったんじゃないかなー

料亭に行ってもハーフ(半玉/10代初め~後半の半人前の芸者)にもってもてだったそうですよ。笑
半玉がみーんな原の側にいっちゃうと、加藤友三郎も言っている。笑
話が上手だから、楽しいの。
演説は貢に義理にも上手いとは言えないと言われる程のヘッタクソなんですけどね!(加藤にも言われとります)

上の写真は昨日の新聞に載っていた原。
恐らく首相就任後の撮影だと思われますが、初めて見た(多分)ので切り取っておいた。


それはいいのですが、山路家裕福やわ…
芝白金に3000坪の家。
門を入ってから玄関までは並木道になっている、家というか正に御屋敷…^^;
そして向い側には財部彪の家。
あー芝白金三光町か。目の前か。
住所調べたら山路の家、芝白金三光町519番でした。
財部の家も恐らく同等規模程度かそれ以上であったのではないかと思います。

しっかしアレだね。
山路と財部は相婿になる訳ですが、奥さんが…大分違う…
財部の妻は山本権兵衛の長女、山路の妻は次女ですが、うむ…
山路の妻・すえちゃん。

彼女がね、滅茶苦茶素敵な女性なのよ!
ママ大好きの子供目線からの母親像(しかも筆者は母が44歳の時の末っ子。第8子)なので、多少贔屓目に見ている所もあるだろうけど、それを差し置いてもめっちゃ素敵な女性である。
夫と子供への愛と優しさに溢れとるね。
こういう家庭に育つ子供は幸せだと思う。
凄いわー
理想的な「the 日本の母」だわ。


屋敷には行儀見習いのお手伝いさんが沢山いたものの、出来ることはすえさんがほぼすべて自分で行っていたそうです。
料理が大層上手だったらしい。
読んでいて、大正末期~昭和初期に主婦がこんなの作れたんだと驚きました。
主婦と言っても実父は海軍の長年の実力者で2度の首相経験者とか、夫が海外経験も豊富な海軍中将っちゅうのは、大分世間一般の主婦とは様子が違いますけれども^^;

上がっていたのはグラタン、タンシチュー、コールドミート、ローストビーフ等。
子供たちのおやつもほぼ手作りだったそうで、ゼリー、フルーツポンチ、プリン、ビスケット、クッキー、パウンドケーキ、カステラ、タピオカのプリン、パイ、お団子、お汁粉…など。

タピオカのプリン!?

タピオカが一般的なってきたのってこの15年程だと思うのですが、山路家では既に食べていた。

実父山本権兵衛が郷土のお菓子・かるかんが好きでね、道具を態々取り寄せて自分で作っていたんですよ。
中々思う様に作れなかったそうで、娘に作り方を聞いていた。
これが確かすえちゃんじゃなかったかと思う。

結婚前は嗜みとして琴や三味線を習っていたそうですが、イギリスに滞在している山路が洋楽を好きと知って、琴も三味線も燃やしてしまったり。
子供がどうしてと理由を質した時の答えが、
「パパと同じ趣味を持ちたい、同じ心になりたいと思ったのよ」
ですよ。

家に帰ったらこんな奥さんが子供と待ってるんやで…
帰るのが楽しみだったんじゃないかと思いますわ。

著者のお名前、鎮子さんですが、祖父山本権兵衛の命名だそうです。
桜が満開の時期に生まれたから桜子でどうだろうとお伺いを立てたら、
「桜はパッと咲いてパッと散るからやめよう」
鎮海要港部で生まれたから「鎮」の一字を取っての命名だった。

山本権兵衛の家も近いのですよ。芝高輪でエラい近いのよ。
山本は時には総領孫の満喜子を連れて朝は散歩をしていたのですが、その散歩コースにこの娘ちゃんたちの家がある訳ですよ。
タイガーが毎朝やって来る。笑
娘はいいけど婿の立場だと辛かろう。笑

秋山真之の書簡(続々)

秋山が欧米視察旅行に出かけたのが大正5(1916)年3月~10月末になります。
(この辺りの話は「Extraordinary」をどうぞ)
戦争の真っ最中。

欧州では大戦参加国の大本営に顔を出して戦況を見聞していたそうで、戦争の様子もよく分かっていたのではなかろうか。
当時既にドイツの飛行船がイングランドや東部戦線・西部戦線を爆撃したりしているので、その様子なども聞いていたかと思われます。


帝国海軍では大正5(1916)年4月に海軍航空隊が誕生しているのですが(横須賀鎮守府所管)、安全に飛べる飛行機は10台ほどしかないとか、そういう状態であったそうです。
慢性的な財政難、そして大正3(1914)年1月に表面化したシーメンス事件、第一次世界大戦による資材の高騰といった環境の中、軍艦の建造でさえ困難が生じているので、中々航空関係まで資金が回らない。
大正6年6月の前川宛て秋山書簡にも「艦政局に融通の資金無之」という文言があるのですが、まあそんな感じ。


秋山真之 


日露戦後~大正期は軍艦ひとつを例にとっても非常に技術革新が進んだ時期で、
「やったー!予算取ったー!」
という段階で、まだ作りもしない軍艦が既に旧式艦になっていたりするのですよ…
(技術革新のスピードが早すぎて、当局でもどのスタイルの軍艦を採択すればいいのかが分からない。挙句の果てに旧式艦)


「84艦隊とか88艦隊とか呑気なことを言っている時節ではない」
「危急に適応できる武器を準備する必要がある」

6月の前川宛書簡で秋山はそうも書いているのですが、当時の様子を見ている当局者からすれば真実そうした感じであったのではないかと思われます。
世界と自国の状況を鑑みて、どんどん進んでいく軍事技術についていかないといけないのに、資金がないから思うに任せないというのはかなりのジレンマだっただろうなあ。
文面から読み取れる以上の危機感、焦燥感があったのではないかと思います。

体調が悪く、また通常勤務も難しいという中でも尚且つ頭の中がこういう状況か。
これでは本当に頭も心も休まらなかったのではなかろうか。
その上医者に治してもらうつもりがなかったら、治る病気も治らないよ秋山…

うん。
色々な感慨の沸く書簡でございます…


もう1通釈文を頂いたのは森山慶三郎宛の秋山書簡です。
わーい。もーりーやーまー!(落ち着け
大正3年7月のもので、秋山が海軍省軍務局長の時期のもの。
シーメンス事件について書かれていたようだったので、ちょっと内容が気になったのさ…(結果としてあんまり内容はなかった^^;)
未公開書簡でもあることから、内容は書かない旨お伝えして釈文を頂いておりますので、これについては書きません。
ただ当時森山は在留民保護のためにメキシコ西岸に派遣されていたようで(出雲艦長)、日本の軍艦、結構手広くあっちこっちに行ってるのだな、と感心しました(感想文か


坂の上の雲ミュージアムの担当者様、色々と御骨折り頂きましてありがとうございました。
(こちらをご覧頂いているかは分かりませんが…)
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