Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

つれづれ

「昭和天皇と周囲の人々」は今日はお休み。
こちら、存外長引いておりますが、き、興味あります?
大丈夫ですかー着いてきてますかー^^;

2・3回で終わるつもりだったのだけれど、終わりませんね。やっぱりね。
いつも通りですねそうですね。
まあそんな感じですが、よろしくお付き合いくださいませ。
拍手して下さっている方もありがとうございます。
読んで頂いている方がいると分かるだけでも安心する。笑


んで、最近毎日のように『ドリフターズ』をペラ読みしとります。
れ、歴史好きには堪らんわ…
泣くよっかひっ飛べとか言われたら心臓がもたない(真顔
薩摩好きを殺りにかかってるとしか思えんわー!
キュン死させる気かこのやろう!(笑)
だ、大体島津の退き口から話が始まるとかどうなのよ!え?!どうなのよ!
合戦好きホイホイか!

『ヘルシング』の時もうっすらと思ったのだけれど、ヒラコー歴史好きなんかしら…
イェニチェリなんて『ヘルシング』で本当に久しぶりに見て、うわーと思った記憶はある。
自分のフィールドが日本史なので、オスマン帝国とか、輪を掛けて縁遠いというのもあるけどさ。
というか髭面のアーカードカッコいいよね(そこか
アーカードのモデルってルーマニアのドラキュラ伯爵ですよね。
ドラキュラ伯爵の逆読みですよね、アーカード…
家にあったはずのコミックが行方不明であっちこっち捜してんだけど出てこないorz

それはいいのだけど、読んでいて、あ、これ知らんと分からんなと思う所がちらほらあるかなあ。
三国志の陳宮は、まあ三国志はメジャーだと思うのでアレですが。笑
陳宮ポジションとか言われたら泣くわー(笑
劉邦の話はやや微妙かなあ。
あれは司馬遼太郎の『項羽と劉邦』の劉邦ですな。
私は韓信が好きでした(どうでもいい

与一の水夫(かこ)を殺すという手書きセリフは、源平合戦知らんと無理やなー。
当時、戦場に駆り出されてはいても水夫は非戦闘員なので、殺すのはルール違反でした。
そのルールを壇ノ浦で破ったのが源義経。
一の谷の鵯越にしても背後からの攻撃ですからねえ。


こういうのを見てるとやっぱり自分は合戦物が好きなんだと再認識する。
そもそも歴史好きになったのは、平安時代の戦物語からなのです。
江戸でもなく近代でもない。
私の歴史好きの原点は武者とか武士とか、あのあたり。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」
の世界が大好きで、5・6歳の頃に出会った源義家が大好きで、そのままここまで来た結果がこれである(なぜ近代…

血がふつふつ沸き立つような気持ちになるのよー
何年か前に大河ドラマで描かれた保元平治の乱は本当に大興奮でした。笑
当時はドラマレビューをしていたので、ご覧頂いていた方はよくお分かりかと思いますん。
昨日まで明治の話してたのに日曜日にはいきなり平安時代。
そして明治以上の熱の入れよう。笑
どれだけの人に引かれたか。

映画の「ロード・オブ・ザ・リング」でも「二つの塔」が大好きで(ハルディアー!)、あと「王の帰還」のペレンノール野の合戦、セオデン王がローハンの騎士を率いる場面が大好き。(でも3作の中では「旅の仲間」が一番好きです…ボロミー…)

セオデンが自分の軍に向かって「Death!」(死を!)と叫ぶ場面があるのです。
ああいうのを見ると、本当に震えるような気持になる。
そしてこの場面が好きすぎて、前のブログ「forth!」は、セオデン王の「Forth Eorlingas!」(進め、エオルの子らよ!)から取ったのだった…

「Death!」については、似たような場面が日本にもあって、吉川英二の『太平記』とかで、合戦中、部下に向かって武将が叫ぶ。
「死ねや、ものども!」

戦いに向かって魂を奮い立たせる時って、東西問わずに通う所があるのだなと思ったのですね、指輪物語見て。

いやーしかし『ドリフターズ』、これから結構な戦物語に発展しそうなので続きが楽しみだわー

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(5)

衝撃の「東郷元帥の印象ない」発言から一夜(こらー
続きです。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。

天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。<略>
鈴木タカは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります。<略>


養育係冥利に尽きるだろう思います…
足立たか、後に鈴木貫太郎と結婚して鈴木たかになる女性で、いくらかエピソードがあるのですが、昭和31年10月の回顧(『昭和天皇の時代』文芸春秋編・出版/1989)からひとつだけしつまみ食い。

日露戦争後の論功行賞があった頃の話。
足立たかが迪宮と淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)のお供で御所に出ていた時、
「今日はおじじさまはお忙しいから、皇后さまの方に向かう様に」
とのこと、皇后に拝謁する為に人形の間という部屋で待っていたら、そこにぞろぞろと爺さん連中がやってきた。

それが金ぴかの盛装に勲章をつけた元老だったのですね。
原文には七元老とあるのだけれど、当時は5人だと思う…

伊藤博文、山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌。
黒田清隆と西郷従道はもう亡くなっているので。
もしかしたら桂太郎と西園寺公望が入っているのかな?


足立たかは、やってきたじーさんらにびっくりして場所を変えようとした。
そらーねえ…
紛れもなく当時の国を動かしていた人達(の集団)ですから、幾ら皇孫のお相手をしているとはいえ、23・4歳の女性では流石に怯む^^;
というか、そこそこ場数を踏んだおっさんでも怯むだろう。笑

これ、明治39(1906)年4月1日の話だと思います。
伊藤、山縣、大山がこの日に大勲位菊花章頸飾(内閣府/別窓)を受章していて、恐らく間違いない。


当時迪宮は満年齢で5歳、淳宮4歳、光宮は1歳とちょっと。
前年の日露戦争中は、号外を売り歩く鈴の音を聞いて、皇孫御殿で兄弟で鈴を鳴らして号外を配るごっこ遊びをしていた。
まあ、それ位の幼児である。かわいい。


伊藤博文、山縣有朋


入ってきたじーさんらを見てか、足立たかに背中を押されてか、淳宮と光宮は早々に場を変えてしまった。
けれど、迪宮だけはちょっと立ち止まって元老たちを見ていたそうです。
そうしたら伊藤博文が傍にやってきて、


「皇孫殿下にいらっしゃいますか」
といわれました。
「さようです」。
そこであいさつを遊ばしたんですよ。

殿下は「誰か?」ってお尋ねになられました。

「私は伊藤でございます。きょうはおじじさまから結構な頂戴物をいたしましたので、お礼に参りました」。
「そこにいるの誰か」
っておっしゃるので、つぎつぎに山県元帥からずっと七元老の名前を伊藤さんが申上げたんです。

殿下は「そうか」っておっしゃって、いちいちごらんになっておいでになりました。
みんな大きな方の中に水兵服を召した小さな殿下なのに、やっぱりプリンスとしての態度がご立派なものですから、伊藤さんが非常に喜ばれて、

「ああ、きょうは良い折りにお目にかかりました」
と喜んで、
「あとのお二方様も、どうぞこちらへいらしって頂きとうございます」
といわれたので、それからお二方をお連れしまして、七元老がごあいさつなさいました。
<略>

迪宮さまが、
「勲章がたくさんあるが、きょうはどれを頂いたのか」
とおっしゃる。


伊藤博文
(伊藤、明治40年の撮影。多分こんな感じだったかと)


伊藤さんが
「これを頂きました。まことに有難いことで」
と申されますと、
「そのほかに着いてる勲章は何か」
ってお尋ねになる。

たくさん着いておりましたのですよ。
「これは外国の勲章でございます」
とかいちいち申上げまして、山県さんなどはびっくりしていらっしゃるんです。<略>


山縣を驚かせたか。
確かに5歳で元老連中相手にこれは流石に凄いわ。

これから13年後の大正8(1919)年に出てきた、当時皇太子であった迪宮のヨーロッパ外遊を推進したひとりが山縣でした。
その理由のひとつが、皇太子の社交性(コミュニケーション力)の無さで、山縣が、
「拝謁しても御下問なども無く、まるで石地蔵のようだ」
なんて人に漏らす程だったのですね。

山縣ほどの地位にあれば、皇太子に拝謁する機会は度々あったと思いますが、13年前とは違う意味でびっくりしていたんじゃないかと思います…


つづくー

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(4)

前回までで川村純義、足立たか、乃木希典、東郷平八郎、鈴木貫太郎の名前を出しましたが、『陛下、お尋ね申し上げます』で少し語られていたのはこの人々位。

昭和天皇は日露戦争以前の明治34年のお生まれで、維新を生きた人々と生きた時代が若干被っており、教科書に名前が載るあの人やこの人ともお会いしているのですね。
なんちゅう羨ましさ…
あの人どんな人でしたかとか、そらー聞いてみたい気持ちに駆られるわ。笑

昭和天皇に質問した記者たちも同じように思う人がいたのか、折に触れて関わった人の事が聞かれている。
引用は上記書籍より。


★★昭和46年4月20日の記者会見

昭和天皇が幼少期に教育を受けた川村伯爵、乃木学習院長、東郷御学問所総裁、杉浦重剛のエピソードがあれば聞かせて頂きたいという問いに対して。


*****
**川村純義について


天皇:
川村純義大将のことだと思うが、赤ん坊の時で、なにぶん小さく、それに短い間だったのでよく覚えていません。


でしょうね。^^;
川村純義については、まあそうだろうなあと思います。
3つ4つだと記憶があってもかなり遠いよな…
昭和天皇と1歳違いで、川村に預けられていた時は2・3歳であった弟宮(秩父宮)にしても、川村家の事は何一つとして記憶にないと回顧されています。

川村家での話は、イヤイヤ期(笑)の話を書きました。
ただ厳しくしても迪宮が風邪なんかひこうものなら、川村は袴に着替えた上で、小さい手を握って夜通し看病をしていたそうです。
簡単な風邪でもすぐに袴が出されるので、侍医は否が応でも真剣の上に真剣にならざるを得なかったそうで。
厳しかったけれど、当然ながら、そらーもーそらーもーめちゃくちゃ大事にされていた。

先日まずは大山巌に里親の話が降りたという件を書きましたが、これってどういう選考がされていたのだろうと思うのですよ。
条件はあることはあったのですね。以下4点。

 ①武勲明らかなる老臣であること
 ②夫婦とも壮健である事
 ③子女を養育した経験があること
 ④家庭の和楽が豊かなこと

その上で、父君である大正天皇もさることながら、明治天皇の意向が強く働いていたというのがね…
選ばれたのが大山、次いで川村か、と思うのよ。
ふたりとも西郷隆盛の親戚である。


西郷隆盛 川村純義


若い頃に短期間であれ接した西郷隆盛に、明治天皇はとても大きな影響を受けています。
それ故に、明治天皇は明治10年の西南戦争の鎮圧は喜んだものの、西郷を逆賊とし、その上生命を奪った政府と軍の主脳からは心がやや離れてしまったのですね。
それが政務軍務のサボタージュとなって現れます。
これは大分前に「Relationship」という話で書きました。

見ているとその心の傷は時間が解決していった様なのですが、それも10年ほどという結構な時間が掛かっている。
迪宮が生まれたのはその更に10年後のことですが、うん。
西郷隆盛の関係者であったからなのかなあ…


*****
**乃木希典について


天皇:
学習院の乃木大将については、私が学習院から帰る時、途中で偶然、乃木大将に会って、その時乃木大将から
「殿下はどういう方法で通学していますか」
と聞かれたのです。

私は漫然と
「晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います」
と答えた。
すると大将は
「雨の日も外套を着て歩いて通うように」
といわれ、私はその時ぜいたくはいけない、質実剛健というか、質素にしなければならないと教えられ、質実剛健ということを学びました。<略>


乃木希典 東郷平八郎 


乃木に関しては昭和57年9月7日にも聞かれていて、その時は強い影響を受けた本は?という内容。
記者が、「例えば乃木が『中朝事実』を差上げたことは吾々も知っているのですが」と問えば、


天皇:
『中朝事実』のことは、これは事実でありますが、まだ初等科の時代ですから、よく読んではいませんけれども、そのあとで乃木院長は殉死したのですが、どうもその気持ちがあって、そういう本を私にくれたかと思ってます。


昭和天皇はそうは言うけれど、大正6年9月13日(乃木の命日)、東宮御学問所にご進講に上がった杉浦重剛が、
「乃木将軍が献じた本がある筈だが、」
と皇太子に話を向け、また本について質問するとそれにもきちんとした答えが返ってきたそうです。
杉浦は退出するとそのまま乃木の墓所に報告に向かったとのこと。

この『中朝事実』ですが、鈴木貫太郎が侍従長になった時に随分探したのだけれど、見つからなかったそうです。


*****
**東郷平八郎について


天皇:
東郷元帥については、東郷元帥や先生たちから帝王学というものの基礎を教えてもらったが、誰がどういうことをと批評することはできないが、平等にすべて今も尊敬しています。


ほうほう。
この時東郷については特に言及がなかったのですね。
所がですよ。


★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。


天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。


東郷元帥に対してはあまり深い印象をもっていない。

そうなんだ。
これは結構意外だった。

実は昭和57年9月7日の会見でも乃木と東郷の印象に聞かれていて、その時も
東郷元帥に対しては、あまりそういう印象はなかった
とお答えになっているのですね。

ただ東郷は以前「ParaBellum」で書いたように、最晩年の、晩節を汚したと言われてもしかたない行動をしているのでなあ…
敢てあまり突っ込まなかったという見方も、もしかしたら有りかなと思います。


つづくー

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(2)

迪宮裕仁親王が学習院初等科に入学したのは明治41年4月のこと。

この約1年前に乃木希典が学習院院長となっており、皇孫入学のための準備を進めています。
乃木を望んだのは明治天皇の様で、院長就任以前、山縣有朋が乃木を参謀総長にしようと奏請した処、明治天皇に却下されております。


乃木希典


乃木の迪宮に対する教育方針は質実剛健と忍耐、厳しく自己を律すること、正直、といったもので、それに沿ったエピソードが散見されます。
昭和天皇も乃木には感化されたようで、戦後の記者会見でご自身でそう語られている。


迪宮が乃木と接した期間は4年程、そう長くない期間です。
言うまでもなく明治45年7月29日の明治天皇の崩御によって終わりを告げた。
明治天皇の大喪はその1か月半後の9月13日に行われましたが、この日は乃木希典夫妻が自決をした日でもあります。


この2日前の11日、乃木は青山の皇孫御殿に迪宮(12歳)、淳宮(秩父宮/11歳)、光宮(高松宮/7歳)の3親王を訪ねます。
秩父宮の回顧によると、この日の乃木の様子は頬髯と顎髭が伸びたまんま。
普段の面影が無く、そのあまりの変り様に秩父宮は唖然としてしまった。
11歳の子供がそう思うほど、異様な窶れ方だった。

この時乃木は山鹿素行の『中朝事実』に自らが朱筆を加えたものを持参していました。
いつも兄弟3人一緒に会っていたそうですが、この時乃木はまず迪宮だけに会い、その後その内容を長時間にわたって説明したそうです。
そして、

「ゆくゆくご成長されたら、よくお読みになって頂きたい」

そう迪宮に諄々と懇請した。
幾ら聡明とはいえ、12歳の子供には乃木の解説する内容は恐らく分からなかったと思います。
しかし乃木のいつもとは違う、尋常ではない雰囲気に、

「院長閣下はどこかへ行かれるのか」

迪宮はそう尋ねています。

言うまでもなく乃木は親王たちに最期の別れを告げに来ていたのですが、それに気付いていたのは迪宮だけであったようです(1歳違いの秩父宮でも気付いていなかった)。


続く。
短くてごめん…orz

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)

こぼれ話、その2。
いや、内容的には全然零れとらんのだけれど。
今回は以前紹介した『陛下、お尋ね申し上げます』から。

昭和天皇は戦後の記者会見で戦前の事を結構尋ねられていました。
あまり細かい話は無かったのだけれど、昭和天皇の言葉の中に知っている人物がちらほら出ていたのですね。
明治の人とか明治の人とか明治の人です。
やっぱりそのあたりに興味があるのだ。笑

とりあえず、引用に入る前に昭和天皇が幼少期~青年期に関わった人物を上げてみる。
その方が分かり易いと思うので。


昭和天皇は明治34(1901)年のお生まれ。
お名前は裕仁、宮号は迪宮(みちのみや)。

誕生から2か月で里親、川村純義(65歳)に預けられています(初めは大山巌の所に話がきたが大山は固辞)。
川村は維新後から内閣制度に切り替わる辺りまで海軍の実力者であった元薩摩藩士。
妻春子が西郷隆盛のいとこである。


川村純義


川村は当時の皇太子、後の大正天皇から直々に里親になるよう依頼されているのですが(人物選考は勿論宮内省や侍従長などの宮中関係者)、
「自分の孫と思って扱ってくれ。過度な遠慮は無用」
そう言われたそうで、本当にその通りに養育した。

迪宮が2歳の頃、嫌いな食べ物を出されて「これいやー」。
イヤイヤ期か。笑
そうしたら川村が、

「食べんでよろしい」
「じじいはもうご飯を差し上げません」

じじい強い。
宮様、泣いて謝ったらしい。
ちょっと笑った。どこも一緒か。

しかしながら川村邸での生活は長くは続かず、川村の死を以って終了します(明治37年秋)。
3・4歳頃(数え年で5歳頃)のことで、その後は青山御所に戻ることになった。
そのすぐ後なのかな?養育掛としてある女性がやってきます。
それが足立たか。

足立たかは当時東京女子師範学校付属幼稚園の教師をしていた22歳の女性。
東大教授に推薦されてやってきた。
侍従長木戸孝正(孝允の甥、養嗣子)にたか女史を紹介された迪宮裕仁親王、彼女に最初に掛けた言葉は、

「足立たかと申すか」

3・4歳の子供の言葉遣いではござらぬ。笑
教育とはげに恐ろしいものである。

たか女史は庶民の子供の相手しかしたことが無く、皇孫のお世話と聞いて非常に緊張していたものの、実際には母親のぬくもりを慕って甘えてくるひとりの子供であると分かり、気が楽になったそうです。

たか女史が宮中で養育係を勤めていたのは明治38(1905)年から大正4(1915)年の10年間。
その後鈴木貫太郎と結婚します。
鈴木貫太郎は明治45年に妻(出羽重遠の妻の妹)を亡くしており、この時は再婚になります。

鈴木は後年昭和天皇の侍従長を勤めており、また敗戦時の首相でもあります。
昭和天皇は鈴木の妻が自分の養育掛であった女性であるということで、鈴木には結構な親近感をお持ちであったようで、
「たかはどうしているか」
とか、
「たかのことは母のように思っている」
とか、そういうことを折に触れて言われていたそうです。
また2・26事件の際に鈴木の生命を救ったのもこのたか女史で、鈴木でないと戦争を終わらせるのは難しかったであろうことを思うと、何とも言えない感慨がわく女性でもあります。

幼稚園の課程が終わると小学校の課程に入るということで、学習院に入学。
学習院で院長として裕仁親王を迎えたのが陸軍大将乃木希典でした。


はーい、つづくー
(またか…)
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