Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

ダイバーシティ(4)

日露開戦後、山本は仮想水雷母艦日光丸の水雷長兼分隊長でした。
何をしていたかと言うと、駆逐艦や水雷艦隊への魚雷等の供給、機雷の組立と補給という後方支援。
当時の機雷組立は危険な作業で、原因不明の爆発で殉職する人も少なくなかったそうです。

そんな機雷を沈置する将兵はしばしば戦功を立てるのですが、組立てる方はその功を認められることもないわけで。
無いと困るのに、表には出てこない作業は認められにくい…

山本の部下の兵たちは、自分たちが苦労して作った機雷で戦友たちが功名を上げていく状況に耐えられなくなってきて、
「自分たちも機雷沈置の選抜に加えるよう、上長にとりなして欲しい」
そう嘆願してきた。

そしてその願いを一蹴する程山本は冷淡にはなれなかった…
命懸けで機雷を作る部下たちを見ている人なので、何とかしてやりたいと思うのが人情だろう。
これ明治37年5月頃の話だと思われます。


山本は艦長経由で東郷平八郎連合艦隊司令長官に願い出ます。
そうしたら秋山から
「艦載水雷艇隊を率いて旅順港口に機雷沈置に行かないか」
と声を懸けられ、山本はこの話を承けた。
ただ嘆願してきた部下たちと共に、とはいかなかったようですが。


艦載水雷艇 


旅順口封鎖に従事していた艦隊が当時持っていた艦載水雷艇は8隻であったけれど、1隻は東郷司令長官用として必要で、実動可能なのは7隻。
その内1隻は6月初旬の機雷沈置の際に喪失しており、山本に話が下りて来た時には6隻だったとあります。


調べてみたらアジ歴に指揮官の報告書がでており、作戦の実施は明治37年6月7日、指揮官は田中茂蔵少佐(37年6月7日第1回艦載水雷沈置戦闘詳報)。
10期ほど上と山本が書いていたので、15・6期ね!知ってる人かも!と思ったのだけれど知らん人やった…(ごめん…)
16期、井出謙治クラスの人。

しかし報告書にある艇隊の編制を見ると8隻になってるよ…
ん?
三笠の戦時日誌を見ても8隻とあったので、こちらが正しいですな。
(浅間、八雲、三笠、朝日、敷島、富士、八島*2)

報告書によると機雷投下中に敵の砲火を浴びせられたけれど、特に損害は出さずに済んだ。
その帰還時に曳航してくれていた駆逐艦白雲の転舵が原因で八雲の艦載水雷艇が沈んでいる。


艦載水雷艇 


これだけ小さいと曳航する船の速力や方向転換に大きな影響を受けただろう。
というかこんなのでよく敵陣近くまで行けるな…こわいわー
報告書からは分かり辛かったのだけれど、山本の回顧を見ると、猛烈な砲火により作業途中で退却した、というのが実際の所のよう(実施責任者の書いた報告書なので中々そんな感じでは書かれないと思われ^^;)。


とまれ、先にこうした失敗があり、加えて先の指揮官より遥かに経験不足の山本では無理だろう。
そう考えた島村速雄参謀長は山本へは4隻の艦載水雷艇を任せるよう秋山に告げたそうですが、


処がどういう訳か、(※土原註:秋山)参謀は私の為にいやに頑張られて、終に最初の意見を通され、私は六隻全部をお預かりする事となった。
私は責任のいよいよ重大且大なるを覚えた。


秋山の主張で6隻を預かることに。
そらー男としては期待に応えたい所ですな。
あれこれ考え幾らかの実験をした後、6月13日に6隻を率いて旅順港口へ機雷沈置に向かっております。
これもアジ歴に山本本人の報告書が残っていました(37年6月13日旅順口外機械水雷沈地の行動に関する報告)。
そしてこちらは機雷沈置に成功した。
(あっさり…


山本は明治33・4年の常備艦隊附から始まって、明治37年の旅順港口での作戦、38年のネボガトフ、ロジェストウェンスキーの通訳と秋山と縁があり、分かる所ではここでおしまいかと思いきや、まだあった。

秋山が大正5(1916)年3月~10月末に欧米視察に出掛けた事は何度か触れていますが、その際立寄った国にイタリアがあります。
当時島田繁太郎がイタリアに駐在しておりまして、その際の軍務局長が秋山でした。
その赴任の際に島田は

「イタリア語を覚えても仕方ないだろうから、フランス語でも学んでこい」

そう秋山より言われたと回顧しています。
田中宏巳『秋山真之』にも以下のような記述があります。


七月下旬、イタリアに入った。
山本信次郎中佐と嶋田繁太郎少佐が出迎えた。
山本はフランス語とイタリア語を自在に操る語学の達人で、その上、熱心なカトリック教徒で、イタリア人の高い人望を得ていた。


続くのだけど、このままブログで続けるかちょっと迷ってる…

ダイバーシティ(3)

日本海海戦後、降伏の軍師としてロシアの旗艦ニコライ一世に向かった秋山真之に随行した山本信次郎。
この時には東郷平八郎とだけではなく、秋山とも結構な面識があったようです。


明治33年、秋山はイギリス駐在の任を解かれ帰国します。
帰国後は軍務局課員を経て常備艦隊参謀に補任(M33.10.31)。
これが丁度山本信次郎が常備艦隊付であった時期と重なっております。ちなみに当時の旗艦は常盤。
そして秋山異動の約1ヶ月後に山本が松島に異動している(M33.12.6)。

山本によると以下の回顧は「明治34年初め松島乗組み」時の話になっていて、これ「明治33年末常盤乗組み」時の話ではなかろうかと思ったのだけれど、書き方を見ていると記憶違いとか、そういう感じでも無さそうなんだよなあ。
山本が旗艦に乗組んだ理由が理由だったので、少し特殊な事情があったのかも?
そこら辺はよく分からん。

山本の話によると、秋山も山本自身も東郷平八郎常備艦隊司令長官の幕僚であった関係で、自然に懇意になったとあります。
山本がめっちゃ若かったというのもあるのでは?
少尉になりたてのペーペー(言ってみりゃ社会人1年生)(23才)で司令官の幕僚なんてまずないのでねえ。
秋山(33才)の方から声を懸けたのではないかなあと妄想。
そしてその時期の、秋山との一場面。


秋山真之


或る夜私が冬の渤海湾の凍てつくような晩の十二時までの当直を終わり(略)
士官次室の火鉢の傍で暖まっていると、何時も夜中過ぎまでも勉強しておられる参謀がそこに見え、色々と青年将校のためになるようなお話をされ、

殊に人間は幾ら天賦の才能を持っていても、結局勉強しなければ駄目だ

などと頻りに訓えられた事などもあった。
天才秋山君にしてあのように勉強されたのだとは、後年痛切に感じたのである。

この頃から特に氏の知遇を厚くした私は、色々とその親切なる指導も受け、終には海軍大学入学試験に応ずる前などにも、色々と貴重な意見を聞かせてもらったのである。


秋山が不断に勉強していたという話は、同期堀内三郎や部下であった清水輝美も話を残しています。
これは以前小柳史料について触れた時に紹介したことがあります。
特に清水は、


秋山さんは不世出の天才であったと同時に非常な努力家で、自ら習得したものはよく整理して次第に累積長養されたもので、彼の名戦術も名文章も決して偶然の産物ではなく努力の結晶と思う。


こう語っていて、秋山についての回顧で特に心に残っているのはこの文章です。
天才、天才と簡単に言われるけれど、彼を知る人々から見た秋山は努力する天才だった。
(秋山のこういう所が大好き…)


短いですが切りが良いので今回はここまで。
GWですが法事です。ひたすら疲れる。

ダイバーシティ(2)

海兵26期、日露戦争当時大尉であった山本信次郎ですが、明治10年の生まれになります。
明治29年に海兵に入って31年に卒業、少尉任官が明治33年1月。
明治38年の日本海海戦当時だと28才。

この様子から考えるに、フランス語がペラペラになる程勉強する時間はあったのかと思うのですが、抑々勉強をしていたのは海兵入学以前の中学生の時でした…

山本が通っていたのはフランス系カトリック校、暁星中学校になります。
今もありますな。
伝記によると、山本が通っていた当時は週の内3日はフランス語、3日は英語の日と決められ、それぞれの日にはそれぞれの言葉で話さなければ主張が正しくても認められなかったそうです。
中学生という頭の柔らかい時期に4年も(それも寄宿舎で)こういう生活を送っていたら、そらートリリンガルにもな(れ)るだろう。羨ましい。


山本信次郎


山本が加藤友三郎参謀長、伊地知彦次郎三笠艦長に呼ばれて、ロシアの旗艦ニコライ一世に行くよう言われたと前回書きましたが、その場には東郷平八郎司令長官と秋山真之参謀もいたと山本の回顧にあります。

うーん、これを見てもこの人が選ばれたのはやっぱり語学力じゃないかと思うんだなあ…
恐らく上官たちは山本が語学に堪能であることをよく知っていて選んでいると思う。
特に東郷平八郎。


上村彦之丞 秋山真之 東郷平八郎 島村速雄 舟越楫四郎


明治33年に義和団事件が起きた際、山本が乗組んでいた笠置が中国に派遣されています。
中国には英・独・仏・伊・米・豪・露、そして日本を含む8ヶ国の連合軍が共同で出兵していました。
山本はその列国代表の会議に通訳として出ていたが、いちいち上官の返事を待っておられず直答するような場合も生じてきてしまったそうです。(どんな状況だよと思わんでもないですが…)

しかもその内に問題が自分で責任が取れない位にどんどん大きくなってきて、

山本「早く辞めさせて」(´;д;`)

そらー…
当時山本は少尉に任官したばかりの23歳ですので、悲痛な嘆願だったと思います。笑(こら

上官「旗艦が到着したら通訳できる高級副官がいるに違いないから、それまで待て」

しかしやってきた旗艦の高級副官では話が通じなかったのであった…


結局山本は通訳として呼び戻されます。
そこで外国艦隊との折衝等のために”常備艦隊付”という肩書を与えられ、一時期ではあれ常備艦隊司令長官の幕僚になっていた。
これが山本が少尉に任官して半年後の出来事。
そしてこの時の常備艦隊司令長官が東郷平八郎中将でした。

ロシア海軍の司令長官との会議時、山本は何度か東郷に随行していたようですし、幕僚の中でも山本がとびっきり若いので、東郷も彼を可愛がったようです。
(というか、この時何語で通訳したんだ)


そういうこともあって、ニコライ一世への軍使随行の件は山本一本釣りだったんじゃないかなという気がするのですね。


はい、続きます。

ダイバーシティ

秋山真之繋がりです。
先日こういう本を見つけまして。


父・山本信次郎伝


『父・山本信次郎伝』。
これだけでは誰か分かりにくいですが、山本は海軍軍人で最終は海軍少将。
海兵26期で、同期に小林躋造、野村吉三郎、清河純一、匝瑳胤次、南郷次郎、樺山可也といった錚々たる顔ぶれ。
水野広徳も同期になります。

今迄ブログ/サイトどちらかで触れたことがある気がしたのだけれど、気がしただけでした。
今村信次郎の方だった。笑


三笠艦橋の図
これな。


今村は日本海海戦時三笠乗組みでしたが、山本信次郎も三笠乗組み。当時大尉。

日本海海戦が終了した後、ロシアの旗艦ニコライ一世に秋山真之が軍使として派遣されますが、それに随行したのが山本になります。
そして東郷平八郎が佐世保の海軍病院に収容されたロジェストウェンスキーを見舞に訪れた際、随行したのが秋山と山本のふたり。


軍使の随行に山本が選ばれた要因のひとつは語学力の為だと思われます。
特にフランス語に堪能であった為かと思われる。
まあそれだけが理由かどうかという所はあるけれど、通訳として随行者として選ばれていたのなら「要因のひとつ」ではなくて「語学力の為」だろう。

フランス語に関してですが、当時のロシアでは、外国人がロシア貴族と付き合うのに仏語が話せることは大変なアドバンテージであったそうです。
その為、明治30年代初頭に露国公使館附武官であった八代六郎が広瀬武夫に仏語の勉強も勧めていたのですね。
しかし広瀬がどれほど仏語をものできたのかは謎。
「し始めた」という程度の記録しかないのを見ると、大して上達しなかったのではないかと思われます…


旗艦ニコライ一世の司令官ネボガトフ少将が降伏の意を示した後、山本は加藤友三郎参謀長、伊地知彦次郎三笠艦長に呼ばれます。
要件は秋山参謀と共にネボガトフ少将と会見、東郷司令長官の命令を伝達した後、三笠に連れてくるようにというものだった。


日露戦争、連合艦隊幹部


秋山・山本の両者がネボガトフと会見した際、先ず秋山が英語で東郷の命令を伝えたそうです。
然しそれが中々伝わらず、秋山は山本に交代させた。
初めは山本も英語で伝達していたが、その内仏語の方が伝わることに気が付いたと、本人が回顧しています。

山本、八代の後任露国公使館附武官である野元綱明から、ロシアのフランス語事情を聞いていたのですが、ド忘れしていた模様。笑
数百名いる敵艦に秋山とふたりで、ほぼ丸腰で乗り込む事になり、これは何かあったら死ぬかなという覚悟があったそうなので、そこまで気が回っていなかったっぽい。

続きます。

西南戦争の体験談

昨日書いていた西南戦争の記事。

西南戦争の体験談、西郷ひ孫の証言と一致
   読売オンライン 2016/4/14
御陵が西郷さん守った-食事番の従軍記に記載、写しが北川に
   夕刊デイリーweb 2016/3/5

西南戦争の際、桐野利秋に言われて西郷隆盛の側で飯炊き&駕籠担ぎをしていた方の体験談。
見ててあらーと思ったのですが、





これやんな。
写しが延岡市にあることが分かり、延岡市が3月4日に記者発表したってあるんだけど、『敬天愛人』に2009年に発表されている。
いやーもう結構前やんね。7年前やんね…
ん?^^;

こちら、桐野が結構出てくるのでまた書きたいです…
今日はとりあえずこの記事の紹介だけ。
ネットニュースは消えてしまうのが早いので、とりあえず。
興味のある方は早い内に確認してみてください。


昨夜竹田市が震度5強で、本当に見知った駅の辺りがNHKに出ていて(涙
ただ見ていても町も混乱した様子もなく、テレビを見ている限りでは割と落ち着いるように見受けられたのでまだ救われました…

ただ竹田の方も避難所が増えているし、市役所のHPには給水情報なんかも出ている。
騎牟礼城でも崖崩れのニュースがありましたし、全然報道されていないけれど岡城の石垣も崩れているようです。
一番被害が甚大な熊本が報道されるのは勿論のことなのですが、もう少し他の所の被害も知らせて欲しい…

私は金曜土曜に安否確認で広瀬神社に連絡差し上げたのですが、一応それでとどめました。
こういう時にあまり部外者が連絡してご迷惑をかけてはいけないと思って。
お電話では大丈夫とおっしゃっておられたのだけれど、神社と神社の皆様が本当に心配です。
広瀬武夫顕彰会の皆様も今は本当に大変だと思う。
どうなっているのか知りたいけれど、知る手段が全然ない(涙
せめて余震が早くマシになりますように…
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)