Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

考課


以前書いた戦艦大和、動画が公開されたよ!

戦艦大和の「いま」、呉市が新映像公開 菊の紋章も鮮明(朝日新聞)

動画ありのニュースページです。
菊の御紋章、バルバスバウの辺りが写ってる。


****


サイト用に海軍の考課表の例を書き写していたのだけれど、例として出されている文章が結構酷いと私の中で話題に。
上司による考課の一例で、「気質及欲望」の欄(欲望って言い方がこれまた…
気質は飛ばして欲望の方ですが、細目に分かれていて、初めに出ている項目が「飲食欲」、そして次に「性欲」(笑)
しかも例に引かれている上官の考課は


性欲 女色ニ耽溺ス


ちょっとw

064f6e6b1f97f972c29566670d4bf0ba.jpg


そしてこんな例文も…


所有欲 出シ吝ミノ取込ミ志義ニテ義理ヲ欠クコトアリ
社交欲 広ク人ニ交リ調子等甚タ宜シク如何ニモ円満ニシテ人ヲ外サヌ風アレトモ薄ツペラニシテ誠ハ鮮シ

趣味及感情

 趣味 卑猥ナル談話ヲ好ミ惚気ナト云フテ喜フ風アリ


士官やったら海軍大臣に進達される文章やで!(笑)
これ、現代だとものすごい問題になりそうですよね^^;

ぼちぼち頑張って「閻魔」の続きを書いていますので、もうしばしお待ちくだされ。


***


昨朝、改札を出た際に向こうの階段から歩いてくる人に目が釘付けに。
そのおじさん、海軍士官用の第一種略帽を被ってらっしゃる…!
しかも このくっそ暑い時に カーキのトレンチコート。

<◎><◎> ガン見である。

暑かったのかトレンチは途中で脱いではったけれど、その下は普通の半袖Tシャツだった。
一体何だったんだろう…ぐ、軍装マニア…?
ちょっとびっくりしたわー

追い手に帆かけて(2)

海の神様金毘羅さん。
海上安全にご利益があるため、船乗りからの信仰が篤い。





香川の辺りを通行する船は、金毘羅さんに奉納する初穂料やお賽銭、御神酒を樽に入れて蓋。
それに「奉納金毘羅宮」という幟をくくりつけて海に流していた。
塩飽諸島の辺りの潮流の関係で、大体は金毘羅さんに近い海域に流れ着く。
これ、「流し樽」と言いまして、流れ着いた先であったり海に漂っている樽を見付けた漁師なんかが拾って金毘羅さんに届けていたそうです。

で、この流し樽を海軍でもしていたそうで。
そうなんだと思ってさ。
岡田貞寛『海軍思い出すまま』によると、昭和13(1938)年、著者が新少尉で戦艦金剛に載っていた時も瀬戸内海を呉から小松島に行く著中に御賽銭を入れた樽を流していたそうで。
以下引用。


ただし(※土原註:樽の)中に現金は入っていない。
二斗ぐらいの醤油か味噌の空樽を熱湯で洗い清め、
「奉納 一、金拾圓也、大日本軍艦金剛」と墨書した半紙を納め、
海水が入らないように鏡をしっかり閉めて、その上に木の角柱を立て、御幣を麻糸で縛って海に流した。
昔は現金を入れたが金ぴらさんに届かないことがあって、約束手形?に変わったのだと聞いた。
<略>

樽が拾われると、前に書いたように金ぴらさんへ届けられる。
持参するのが中身だけ郵送するのか知らないが、遠い他県から一々持って行く訳には行くまい。
神社はこれを受け取ると、お礼と十円の領収書を金剛に送ってくる。
金剛ではそれと引き換えに郵便為替で送金するという段取りである。
<略>

主短現七期の北島秀治郎君のエッセイ集「侏儒の戯言」の中に、

戦争中戦艦大和が讃岐沖を通った時、
やはりお賽銭の金額を書いた紙を入れた樽を流したという話を同艦の乗員から聞いたと書いている。






金毘羅さんから送られてきた御札は艦内神社にお祀りされていたそうです。
前近代的な昔の風習というか、近代以降でも漁師であったり一般船舶であったりでされていた印象があったので、軍艦でもこういう事してたのかとちょっと驚きが…
昭和になってもこうしたゲン担ぎがされてたんですね。
本書には海上自衛隊でも同じことをしていると書かれていて、あ、そう言われたら10何年か前に私も聞いたことあるわ、それ。

というか船乗りはゲン担ぎとかジンクスとか大事にするよなあ…^^;
船は女人禁制だとか、猫を乗せるとか(船の守り神)、オムライスに乗せるグリーンピースの数だとか(奇数)。





女人禁制は船の神様が女神であるため(嫉妬されて悪い事が起こると言われる)。
猫は船の守り神。

奇数は海軍どうこうというより、日本古来の風習から来ているものだと思う(中国から来た陰陽思想ですが)。
奇数=陽、偶数=陰で、奇数の方が縁起が良い。
なので五節句、

 1月7日(人日:七草)、3月3日(上巳:桃)、5月5日(端午:菖蒲)
 7月7日(七夕:竹)、9月9日(重用:菊)

はいずれも奇数が重なるめでたい日なんですねえ。
1月7日?
1月1日は?ということですが、これは元旦ということで特別で別枠になるらしい。


財部彪が英国駐在を終えて帰国する際、水雷艇霓の回航委員長に任命されています。
責任者として霓で帰ってきた。

音読みは想像がつくけれど、水雷艇の名前は音じゃねえなあ。
何と読むのか分からず字通を見たのですが、「にじ」です。





虹ね。
これ、雌のにじだそうですよ。

メス!?(笑)

虹に雌雄ってあるんかい。
確か『聯合艦隊軍艦銘銘伝』だったと思うけれど、船=女神ということで霓の方が選ばれたのでは、という話が載っていた。


間に挟まっている桜は間違い写真ではありません。笑
虹は去年の7月に撮影したもの。2重になっていた。

追い手に帆かけて

引き続き岡田貞寛『海軍思い出すまま』からです。
面白い話が結構あった。

金毘羅さんの話があったのですよ(「金ぴらさんのお賽銭」)。
実は母の実家から金毘羅さんまで歩いて15分っちゅうね。
香川に行った時は散歩がてら毎日必ず金毘羅さんにお参りするという自分ルール。
というか田舎なので金毘羅さんしか出かける所がないのだ。笑
高杉晋作に関係する史跡もありますが、石碑だけなので。

それでも自転車で15分位すっ飛ばせば善通寺には行ける。
善通寺には第11師団司令部の跡がそのまま残っています。
初代師団長が乃木希典でして、現在”乃木館”として遺品が展示されています。
乃木に限らず歴代師団長の遺品や遺筆が残っている。
マレーの虎・山下奉文が着用していた軍服等もあります。
善通寺は戦災に遭わずに済んだので師団司令部も残っているし、偕行社も残っています。
どちらも結構前(10年近く前かな)に改修されて綺麗になっている筈。

こんぴらさんと呼ぶことが多いのですが、正しくは金刀比羅宮。
海の神様で海上安全の関係から、昔から船乗りの信仰が多く集まる神様です。
農業や芸能の神様でもある。
境内に絵馬堂があるのですが、船舶の写真に海上安全祈願なんて書かれているものが多く飾られている。
中には護衛艦の写真もあります。


本宮に上がる手前には掃海殉職者顕彰碑がある。
目の前に本宮が見えているのであまり寄って行く人がいないのですよ。
もしかしたら訪れたことがあっても存在を知らない人が多いかもしれない。
写真があればいいのだけれど、自分にとってはあまりに身近すぎて却って撮影の機会がない。


昭和20(1945)年8月に敗戦を迎えた際、日本の主要港や周辺海域には日米軍が敷設した機雷が約6.7万個。
瀬戸内海は機雷のみならず沈没船にも航路を塞がれ、海上交通不能といったような状態だったそうです。
これら機雷の除去に当たったのが、敗戦翌月に海軍省軍務局に設置された掃海部。
同年11月海軍が無くなった後は復員省に引き継がれている。

掃海作業は昭和27年頃まで続いているのですが、
当然ながら危険な職務で、触雷で沈んだ船もあり79名の方が殉職されています。
その慰霊碑が金毘羅さんにある。
毎年5月最終土曜日に海上自衛隊が追悼式を行っています。

慰霊碑だけではなくて、作業服?(宇宙服みたいなん)とか、道具?が展示されていた記憶がある。
まだあるのかと思ってググってみたのだけれど、それらしい画像は出てこないなあ…
無くなったのかな。


ごめーん、続くー(またか
まさかの前振りで終わったー(笑)

読書感想文

題w(思い浮かばなかった


『海軍思い出すまま』(岡田貞寛)という本を読んでいたのですが。
岡田貞寛は岡田啓介の次男に当たる方で著書に『父と私の2・26』があります。
それは本棚にあるのですが『海軍思い出すまま』はとある本を読んでいて偶然知った。
発行が「近畿在住海軍経理学校生徒同窓会(誠斗会)」になっていて、これ、どうして地元にあるのか不思議なのだが。笑
寄贈印等もないし。

読んでいて、あ、そうなんだと思うことが結構ありました。

めっちゃ細かいことなんですが、ドラマ『坂の上の雲』でロシアから帰ってきた広瀬武夫が海大の講堂と思しきところで(江田島の大講堂で撮影されていました)でロシア海軍の説明をする場面がありました。
第2種軍装で、話を聞いている士官たちは白い靴だったのですが、広瀬だけが黒い靴を履いていた。
広瀬が帰ってきたのは丁度今頃の3月末、戦艦朝日に赴任したのは5月初旬で夏服着とったらアカンのですよという突っ込みはスルーして(笑)、何となく黒靴が違和感だったんだなあ…

この本には「ブラックタイと海軍の礼装」という文章があり、それによると、
「白色半靴ヲ用フルコトヲ得」(白い靴でもいいよ)となっていて黒靴が本当だそうです。
そうだったんだー

そして面白かったのが「勇敢なる水兵」の歌詞の話(「軍歌「勇敢なる水兵」」)。
こちらのブログに引っ越してからも一度触れていますが(元のかたち)、CDによって目にする歌詞が大分違う。
一体何番まであるのさこの歌、という感じだったのですが、明治28(1895)年発表の際は10番だったそうです。
それを作者佐々木信綱が昭和4(1929)年に8番まで削り、昭和14(1939)年に更に修正改訂をしたそうです(8番まで)。
ということで今CD等に収録されている「勇敢なる水兵」は昭和14年の最終改訂版。
広瀬が知ってる「勇敢なる水兵」と私が知ってる「勇敢なる水兵」は歌詞が違う…


本には改訂ビフォーアフターの歌詞が出ていたのですが、途中が大分違う。
聞きなれていることも・あって個人的には最終改訂版の方が好きだけれど、海軍では作者の変更を無視した形で改訂前の歌詞で歌っていたとのこと(一部?な部分もあるようですが)。

私のPCには「勇敢なる水兵」が何曲か入っているのですが、森繁久彌が歌っているものだけに入っている番があり、それが、

「皇国に尽くす皇軍の 向ふ所に敵もなく(略)」 みこーくにつくーす、みーいくさのー

昭和4年に削られている部分。
なんとなく軍国主義を思わせる等の理由でレコード会社の判断で削られたのかと思っていた。
そもそもはあった歌詞だったのですね。

しかし削除された部分をわざわざ入れるなんて。
森繁久彌自身が改訂前のオリジナルを知っていたのだろうと思い、ウィキペディアを見たら大正2(1913)年生まれでした。
昭和4年だと16歳か。
10代とかさ、こういうの一番よく歌っていた年頃じゃないかなあ…

どういう心境で差し入れたのでしょうね。
何か思い入れでもあったのか。

しかし佐々木信綱が思わぬ長生きでびっくりしたわー
「勇敢なる水兵」の他に「水師営の会見」の作詩もしています。
ついでに与謝野晶子の「君死にたまうことなかれ」を批判した人物としても知られている。
和歌や歌学で功績のある歌人です。

きらきら

週末、3連休だったのですが走りに行ってパン焼いて、遊びに行って走りに行って、パン焼いたら休み終わってた。あれ?
残ったのは腕の筋肉痛だけという。

キラキラネームの大研究』という本を先日読了したのですが、これが結構面白かったです。
現在のキラキラネームに特段興味がある訳ではない。
名前の問題は、別に今に始まった話ではなく昔からあるよねという内容で、要するに歴史の話が大半だったので。
内容は…
うん、まあ大体知ってたわーという。笑

平安時代の昔から「今どきの若者は」と言われてきたのと同じく、兼好法師の昔から名前にこんな漢字を使うなんて…みたいなことは言われてきている。
『徒然草』には知ったばかりの言葉を知ったかぶりしてやたらと口に出すのは浅はかなる人のする事なりだとか、今とあまり変わらないようなことも書かれていて、千年経っても人間って変らない所は変らないんですねえ。
問題としてはそれぐらい昔から認識はされていた。

キラキラネームでへえと思ったのは江戸時代にも難読漢字名ブームがあったこと。
今でいう名付けのマニュアル本もあり、本居宣長が苦言を呈していたそうです。
その本居先生の門下生にも難読名の人がいて、本居先生でも漢字の横に振り仮名を打っていたという…
確かに「稽古」と書いて「とほふる」とは読めないわ。
人間の名前とも思えないし。


近代では真っ先に上がるのが森鴎外の子供で於菟、茉莉、杏奴、不律、類。
最近のキラキラネーム批判で元祖DQNネームなどといった、かなり不名誉な紹介をされているのをまま見掛けます。

留学先のドイツで本名の林太郎が発音されにくかったという経験を踏まえて、日本でも外国でも通じる名前として付けたということでよく知られている。
全然キラキラでもDQNでもないと思うのだけどなあ…
言わずもがなですが左からオットー、マリー、アンヌ、フリッツ、ルイという西洋人名を模しています。

名前だけで見たらえーと思うのは与謝野鉄幹・晶子夫妻の子供のアウギュストとエレンヌ(純日本人)。
あと武林夢想庵の娘のイヴォンヌ(純日本人)。
ちなみにアウギュストは夫妻と親交のあったオーギュスト・ロダンからで、政治家与謝野馨の伯父になる。


こうした西洋名ばかりが当時のキラキラネームだったのかと思えば、戦前でも首を捻ってしまうような名前があったそうです。

六花、十九、捨鍋、日露英仏

…人間の、名前…?^^;

どう見ても、ろっか(りっか)、じゅうく、すてなべ、にちろえいふつ、なんですが。
ろっかって『まっすぐにいこう』にそんな名前の犬いたよね。笑

読みは左から、ゆき、とみちか、すてなべ、ひろえ、だそうですん。
ちなみに全部女子の名前である。女子の名前である。
著者も書いていたけれど、六花は今に通じる読みだと思いますが(六角の雪の結晶)。
しかし捨て鍋って。

読んでいて一番感心したのは鴎外の長男、於菟に関してはオットーという言葉の響きに目を向けがちだけれど、実はこの漢字表記にはきちんとした典拠があるという話でした。

『春秋左氏伝』に「楚の宰相子文の諱を穀於菟という」という一節があるそうです。
楚では”穀”は”乳をやること”、”於菟”は”虎”。
即ち”穀於菟”は「虎に育てられた」という意味で、戦前は寅年生まれの男女に「於菟」と名付けることがあったそうです。
例として遠藤於菟の名前が挙がっていたけれど、確かにそうだわ。
そういう人いたわ。


ダブルネーミングで於菟=オットーとしたのは鴎外ならでは。
だが、「於菟」という表記自体は、鴎外の独創ではなく、当時の知識人が共有していた漢籍の教養を背景にしたものだったのだ。
その重厚さと比べてしまうと、音の響きもかわいいし、願いを込めて「心」「愛」という字を両方使いたかったので、「心愛」と書いて「ここあ」にしました、などというキラキラネームの名づけは、あっけないほどカルイと言わざるを得ない。

どちらも一見、同じような「変わった名前」に見える。
しかし、表記に用いられる”質量”は、というと、これがもう雲泥の差である。

明治期の日本語社会の少なくとも中核においては、「於菟」の例にあるように、使う人も読む人も、ともに漢字の向こう側に厚みのある漢籍の知識を見ていたのだ。  (『キラキラネームの大研究』)

明治期の日本人と今の日本人、悲しいほど断然していますな…
軽い気持ちで手に取った本でしたが、ななめ読みした割には考えさせられる所が結構ありました。
お時間のある方、ぜひどうぞ。
面白いと思う。
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)