Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

阿南惟幾像@広瀬神社

8月22日、大分県竹田市の広瀬神社に建立されたばかりの阿南惟幾像。
7月の産経新聞(夕刊)にも結構大きな記事となって出ていました。

阿南自身は東京出身ですが父が竹田出身、阿南の本籍地も竹田にあったということで、竹田ゆかりの人物という扱いのようです。
細かい所はサイトの系図をご覧頂いたらいいのですが、広瀬神社の初代宮司を勤めた広瀬末人海軍中将の親戚でもある。
恐らくそうしたこともあり、阿南の顕彰碑も広瀬神社の境内にあったのだと思う。


阿南惟幾像


今年が戦後70年ということでの銅像建立であったようです。
阿南を顕彰するというのはこの方の立場からして、このご時世では中々難しい所があると思うのですよ。
といっても10年、15年ぐらい前と比べると隔世の感があるように思いますが(良くなっている)。
近現代は時代が近いだけあってまだ歴史的評価が揺れている所もあり、人物の評価が難しいからなあ…
ただ歴史や人物像を見直す切欠になったり、そういう風潮が強くなってきているというのは、歓迎すべきかな流れかなと。

そう言えば去年だったか、ちらと見たのですが、広瀬の銅像も移転問題が出ているというか…
その話が今どうなっているのかは知らないのですが。
要するに軍国主義の象徴を公共の場に云々とか、そういう声もあるということで。
まあ…色んな感じ方というか見方はあると思うのですが。
軍人というだけでそういう見方をされるのはちょっと切ないなあ。

艨艟

昨日戦艦武蔵の動画が出てました。
全然知識がないものであれを見てもよく分からないというのが正直な所。
テレビで専門家の話を聞いていると、想像していたよりも破損の状態は激しいとのことだったそうです。
というか100%武蔵のようです。
第1艦橋が横倒しになっていたり、特にカタパルトの説明書らしきものが字が読める状態で出ていて驚きました。70年前だよ…


『男たちの大和』が映画になった際、その撮影セットで原寸大の戦艦大和が一部復元されていました。
セットがあった尾道向島にある日立造船の工場が期間限定で公開されていた。
尾道から船利用ですが、船に乗るのに3・40分並び、島に着いてからは2時間並びました。

その間に隣に並んでいたおじいさんと仲良くなる。
ああいう所で女子がひとりで並んでいるのが不思議だったらしいのと、炎天下だったので私の方が心配になって日傘に入れてあげたこともある。
暑かったんだよ…
そして話してみると隣市の人だった。お互い親近感。


http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/30520017.jpg


見学に来た理由を聞かれて、まあ軍事に興味があると。
最終的に戦前の軍事の話になって盛り上がると周囲の人が不審げにちらっちらこっち見てる(笑)
うん、まあ、妙だよね^^;

色々話をしていたのですが、おじいさんは山口県岩国の出身。
地元の山に登ると柱島がよく見えたそうです。おー柱島…赤禰武人の出身地ですね!(おい)
いやいやそうでなくって、柱島というと連合艦隊が碇泊していた所です。
そういう関連で子供の頃に何度か大和と武蔵が投錨していたのを見たことがあるんですって。
それが懐かしくてセットを見に来たと言っていた。
戦艦武蔵と聞くと そのことを思い出します。


武蔵発見のニュースからぽつぽつネット上で記事が出ていましたが、ぐっちーポストのぐっちーさんがMS共同創業者と友人だったそうで。
わー…確かにそんな感じの人ではある。
で、先日こういう話が出ていました。

資産2兆円のポール・アレン氏「戦艦武蔵は日本に寄贈したい」 (日刊SPA! 2015/3/10)(別窓)

引き上げて日本に寄贈したいと思ってくれているようです。気持ちが嬉しい。
現実には難しいだろうけど思うけれど、こういう人だったら出来そうと思える所はすごいと思います。
個人的には沈んだ軍艦というよりは墓標だと思うので、そっとしておいてあげて…という感じはするけれど。
ただ遺族・親族や戦友の中にはせめて遺品でも手元に戻ればと思われる方もおられるでしょうね。

上記事によるとぐっちーさん曰く、

・MSのイメージからエンジニアだと思っている人がいると思うが大学時代の専攻は考古学
・昔からトレジャー ハンターになりたかったとよく話していた
・過去に1898年のアメリカ=スペイン戦争の時の沈没船を引き上げている
・武蔵探索の理由は実際には一番になりたかったっというのが理由だろう
・『大和は既に発見されているから、武蔵を見 つけたい』と10年程前から話していた
・祝賀メールを送ったら『日本に寄贈したいと思っているがフィリピン政府が介入してきて困っている』と返信
・どうやら自腹で引き上げて無償で日本政府に寄付するつもりだったみたい

スケールが違いすぎる^^;
全文は上のリンクからどうぞー。


上の写真はどのくらいのものが沈んでいるのかなーと思って昔の写真を掘り出してきたもの。
武蔵と大和は同型艦なので。
というかセットの裏側ですまぬ…

見返すと大した枚数は撮っていなかったのだけれど、見たい人がいるならアップする。
人間とのスケールを見る位には役に立つと思う。
映画見たら済む話だけど。笑 

戦艦武蔵、シブヤン海で発見

戦艦武蔵がシブヤン海で見つかったそうです(;△;)

詳しくはこちらから。
産経westとNHKが今のところは一番詳しい。
後は適当にググってくだされ。気になる記事ははよ見んと消えるよ。


艦首“菊の紋章”や機雷回避装置…「武蔵」原形で眠る可能性も 「発見した」とMS共同創業者ツイッター
 (産経west 2015/3/3)
戦艦武蔵の船体発見か ネットに投稿 (NHKニュース 2015/3/3)


武蔵を発見したのはマイクロソフトの共同創業者ポール・アレン氏の豪華ヨット「オクトパス号」。
深海約1000メートルの地点で菊の御紋のついた艦首、巨大な錨を発見したとのこと(朝日新聞には船体は原型をとどめているとある)。
武蔵でほぼ間違いないようです。

戦艦大和でも350か400メートルくらい。
山根一眞
の『メタルカラーの時代』に大和引き上げの話が載っていましたが、専門家の話では技術的に無理だということだった。
1993年の本で当時は100メートル以下の沈没船引き上げの技術がなかったそうですが、今はどうだろう。

ただ深海1キロだと流石に無理だろうなあ。
『男たちの大和』が映画になった際、大和引き上げの話がありましたがあれって結局どうなったんですかね。
あれから話を聞かないってことは反対が多かったんだろうなあ。
私個人としてはそっと眠らせてあげて欲しいと思う…

大和の方は「大和の権利書を買わないか」とか「戦後のどさくさで大蔵省が競売に出した」とか、昔はそういう話が随分あったそうです。
はい。勿論詐欺です。引っかかる人いたんかいな。


アレン氏は艦上のほかの部分の動画もまもなく入手するとの事なので、また新しいニュースが出てくるかもしれません。
びっくりニュースでした。


(※追記 2015/3/5)

http://blog-imgs-72.fc2.com/m/u/r/murakumo1868/IMG_0243.jpg


武蔵の動画が上がってましたね~
朝のニュースでもガッツリ流れていました。
関西ローカルで大和ミュージアムの戸高さんへの電話インタビューを見たのですが、曰く菊の御紋が1.5mなら確実に武蔵だそうです。
1.5mあるのは大和と武蔵だけで他は1.2mなんですって。
難しいだろうけれど、できたら大きさを測って欲しいとも言っていた。
ただ艦首の形や搭載されている砲の大きさからほぼ確実に武蔵だろうとのこと。
あのたった2枚の写真とたった1分足らずの映像でそこまで分かるんですね。
この方個人的には「えー…?」と思うこともあるけれど、やっぱり専門家は専門家だと思う。すごいわー。

今日の産経新聞には更に戸高さんの話が載っている。笑
「艦首の形状や、いかりの収納の仕方から、周辺海域で沈没した別の艦船ではなく武蔵と断定した」とあります。
アレン氏は武蔵の船体探索を8年以上前から計画、潜水調査機器を使って今月発見とのこと。
偶然見付けたのじゃなくて、探していたんですね、この方…
何でも同氏の父が元軍人だったこともあって第二次世界大戦史に強い関心があったそうです。
以下引用。

(※註:アレン氏は)
「私自身も根っからの技術者なので、武蔵の建造に注ぎ込まれた技術や努力を深く理解している」と述べ、
「武蔵は工学の傑作」と評すとともに、武蔵の乗組員にも敬意を表した。

こういう人に見つけられてよかったねえ… 

鈴木貫太郎の昭和

(※題は大袈裟)

明日のNHKの歴史番組が鈴木貫太郎だそうで。
九死に一生スペシャルの第6弾をするのか(第7弾まである)。
明後日は2・26事件の日ですものね。

証言テープが見つかったということですが、テープが見つかったのは2年前です。結構前やぞ。笑
当時ブログでNHKニュースを掲載したので覚えている方もおられると思います(現在非公開)。
そういえばこの話はNHKでしか見なかったのだけど、NHKのスクープだったのか。

NHKによるとこの証言テープは昭和40年代に鈴木の妻が千葉県野田の青年団から頼まれて話したもの。
内容は2・26事件の事だけなのか、ニュースで流れていたのはそこだけだったので全容は分からない。

押しかけた青年将校らに鈴木が、
「何事が起こってこんな騒ぎをしているのか。話したらいいじゃないか」
と対話を呼びかけていたことや、銃撃された鈴木を前に妻のたかが青年将校に、
「とどめだけはどうか待ってください」
と訴えたところ、
「止めは残酷だからやめ」
と部下に命じたことなどが語られているとのこと。
明日テレビで流れるのはこの辺りじゃないかな。


上の青年将校、鈴木を襲撃した指揮官は安藤輝三大尉になります。
妻の訴えに安藤は止めをささなかった。
安藤は鈴木と面識があったそうで、忍びないという気持ちもあったことはあったと思う。
ただ主な理由は、息の根を止めなくてもこの状態なら死ぬと思ったからでしょう。

鈴木が銃撃された部分は左胸(心臓の辺り)、頭、肩、睾丸になります。
左胸と頭をいってるあたり、まあ、普通そう思うわな。
安藤率いる兵隊が去った直後に駆けつけた長男は、直径1mほどの血の海に頭をつけて俯せに倒れている父を見ています。


鈴木貫太郎


鈴木本人はというと、この状態でも意識があった。
大至急駆けつけてきた医者が自分の血溜りで滑って転ぶのまで見ています。
ただ医者が処置している間に意識が飛んで、ついでに脈も止まった。
…のですが、輸血がギリギリ間に合って命拾いしています。(輸血あったんや
4発命中している内、頭部は弾丸がこめかみから耳の後ろに抜け、左胸は弾丸が背中に残るという状態。
鈴木は69歳。
本当によく助かったと思う。


2・26事件で狙われた人物は鈴木の他、岡田啓介(首相)、斎藤実(内大臣)、高橋是清(蔵相)、渡辺錠太郎(陸軍教育総監)、牧野伸顕(前内大臣)ら。あと元老西園寺公望も。
斎藤、高橋、渡辺が犠牲になり、岡田、鈴木、牧野、西園寺は命拾いした。

鈴木がターゲットになったのは侍従長という立場を利用している”君側の奸”と青年将校らから見做されたため。
鈴木の侍従長就任は昭和4(1929)年ですので、事件が起こった当時昭和11(1936)年で在勤7年目になります。

珍田捨巳の死去に伴う後任人事だったのですが、就任直前の鈴木の役職は海軍軍令部長。
侍従長になる為に予備役編入というかなり異例の異動になります。

昭和2(1927)年の海軍大演習の際、昭和天皇やその側近らが海軍首脳と接する機会があった。
大演習の責任者は鈴木軍令部長ですから、お上に近侍して様々説明をする機会があるのですがその時に目をつけられたようです。

側近らはこの大演習の際、海軍に密に接して、陸軍と比べて見聞が広いとか、有為で信頼に足る人が多いとか、そういうことを感じたらしい。
鈴木に対してだけではなかったようですが「中でも鈴木だ」と、珍田侍従長や牧野伸顕内大臣が鈴木を随分気に入った。

牧野は大久保利通の次男になります。
当然海軍薩摩派との繋がりがあり、山本権兵衛とも仲が良い。
そうした背景から海軍の雰囲気は大体分かっていたと思うので、鈴木本人を知って余計にそうした感があったのではないかと。
珍田亡き後、後任に鈴木を強力に推したのは牧野です。

ただ鈴木からすると、侍従長云々はいきなり降ってわいた話だった。笑
「無骨一辺倒だから無理だと思う」と断る鈴木を、一木喜徳郎宮内大臣が何時間もかけて説得。
一旦保留はしたものの、結局受けることになった。
いきなり全然違う畑に飛び込むことになった鈴木ですが、
「大船に乗っているような気持でいられた」
と当時の侍従から言われたりして、どっしり構えた安定の安心感がある侍従長だったようです。
わかるわー
鈴木の妻たか(後妻)が幼少時の養育係であったりと、昭和天皇にとっても気安い所があったと思うし。


鈴木貫太郎


また昭和20年、戦争終結時の首相でもあります。79歳。
耳も遠くなっていて、普通に考えたら首相就任なんて無理でしょう。
鈴木は大命を拝辞しますが、
「頼むからどうか枉げて承知して貰いたい」
と昭和天皇に頼まれています。

天皇が「頼む」というのは本当に異例中の異例です。鈴木だけじゃないか?
首相任命は、大命降下、であって、命令なんです。
『タイムスリップ竜馬と五十六』で東条英機が首相に立候補してましたが、立候補してましたが、立 候 補 してましたが、そういう性格のものではないのである。学級会かよ(※電車で読んでて大きく噴き出した)


鈴木内閣は終戦の為の内閣でしたが、首相就任に際しては流石にそんなことは言えません。
鈴木ののらりくらりは、和平推進派である米内光政海相や東郷茂徳外相でもその腹が読み切れず、
「え、これ本当に大丈夫?」
と思うこともしばしば…^^;
最終的には誰もが避けてきた聖断を鈴木が天皇に求めたことで戦争終結が決まった訳ですが、こういうことは鈴木だからこそできたのだろうと思います。
昭和天皇とのそれまでの繋がりやそこからくる信頼、年の功も大きかっただろうけど、こうと決めたら筋を通してしまう腹の据わり方が、鈴木はちょっと常人とは違う気がします。

鈴木についてはサイトに「筋金入り」という文章を載せています。
宜しかったらそちらもどうぞ。


個人的には敗戦時の話など他にも話題がある鈴木より、出来たら亡くなった斎藤実の話をして欲しいと切実に思う。
斎藤だってすごい軍人政治家なんだけど…
特に朝鮮総督時の話なんかしたらいいと思うよ。無理そうだけど。
朝鮮人からも「斎藤さんには会いたくない。会ってしまうと断るつもりの話でもハイって言ってしまうから」
と言われるほどの徳望の持ち主。


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若い頃はシュッとしていて、米国駐在時に体格を良くしたいと毎日ビールを配達してもらい(※間違った太り方)、大家に外聞が悪いから止めてくれと言われたり、人力車を降りる時に顔面から落ちて吃驚した友人を安心させる為に鼻血垂らしながら笑ったり。先に拭けよ実。余計怖いわ。
斎藤実記念館でみた薄紫のシルキーなパジャマが忘れられません(胸元に濃紫のリボン付き)。
服は全部奥さん任せだったそうですん。あれは春子さんの趣味なのか。
好物はほやです。味噌汁も好きで卵3個4個入れて食べたい。コレステロールの摂り過ぎですね。そうですね。
そうめんや甘いものも大好き。
郵送する場合は東京市四谷仲3-44までお願いします。
予め連絡する場合は電話番号600番ですのでお掛け間違いのないように。
(悉くどうでもよすぎる情報)

ふりさけ見れば春日なる(2)

三笠の話を書いていて昨年目にしたニュースでじゃんけんの「軍艦」が出てきてたなとふと思い出す。
良い内容ではなかったので何とも言えませんが、懐かしいというか、驚いたというか。
グーは軍艦、これは同じだったのだけど、チョキが朝鮮、パーがハワイですって。ですって。
そうなんだ。
私の時は(所は?)、チョキが沈没、パーが破裂だった。
縁起でもねえ。笑
地域差とか年代差とかあるのかなと思ってさ。
というか今どきの子供でもそんなのでじゃんけんするん?っていうのが。笑


話は変わりますが、三笠と言えば手許にはこういうものがある。
展覧会のパンフレットと三笠保存会の会報『三笠』(2号)。


三笠


昭和35(1960)年に大阪三越で開催されたもののパンフレットで、会報はそれに挟まれていた。
多分一緒に会場で配られたのだと思う。
京都に住んでいた時に古本屋の雨曝しにされてるパンフばかり入っている箱の中から見つけた。100円。
アンジェリーナの前にある古本屋なー間部詮勝寓居跡の隣ですよ(そんなローカル情報いらん)

三笠保存会の会員でないからよく分からんのだけど、今の会報の前身だと思う。
戦後に三笠が荒れるに任せていた頃のもので、それをどうにかしようという動きが漸く実現してきた時期のもの。
内容を見ると当時は復元工事の為の調査中で、また寄付金を募っている真っ最中。
展覧会も寄付金を集めるというのが眼目だったようです。
ちなみに当時の三笠保存会の会長は渋沢敬三(渋沢栄一の直孫)、副会長は伊藤正徳、石坂泰三、沢本頼雄。
流石に錚々たる名前が並んでいます。
山梨さんの名前はないなあ…


三笠


完成予想図も載っている。
三笠復元工費の見積もりは約2億円、昭和35年の時点でその約半額が寄付済か寄付決定となっていたそうです。
寄付額は神奈川がダントツで(桁が違う)、流石に地元(で荒れっぷりを実見する人が多かった)ということだったのか。
あと海軍関係者が多かったこともあるだろう。
記念艦みかさの公式HPによると、最終的な募金額は1億6千万円(含米海軍の2400万円)。
それに国の予算9800万円を加えて復元工事が実現した。

『戦艦三笠』(船の科学館史料ガイド6)によると敗戦後に占領軍が三笠の武装解除を命令し、上甲板以上にあったマスト、煙突、主砲塔、副砲その他の艤装品が撤去されて周辺の地上に放置されていたとのこと。
そして甲板にはダンスホール(下写真右奥の丸い屋根の建物)が設置された。
これは有名な話です。


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(34・5年かも)

昭和25(1950)年の朝鮮戦争で金属価格が高騰した結果放置された艤装品が盗まれ、また喫水線下の砂も掘り出されてボイラーやエンジンも盗難に遭ったそうです。
同じく公式HPにはその当時の写真が掲載されていますが、上甲板にあった構造物を取り払った後三笠の周辺地の使用を委託された民間企業がダンスホールと水族館を作りマストや大砲を売り払ってしまったとある。
名前も分からないような有象無象が持って行ったのかと思いきやこれって特定できんじゃねーかorz

そういうこともあって会報には艤装品の寄付(若しくは購入)の募集も載っている。
現在三笠に残っているオリジナル品は錨とダビッドだけだそうです。
それでもよく残されたと思うし、残っていて良かったと思う。
大切にしないとね。


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こういうのはご時世だなと思いますねえ。寄付興業だよ。
相撲が大好きで大日本相撲協会の会長までした竹下勇が生きていたらさぞ喜んだだろうと思います。
竹下は昭和21年に亡くなっている。
会長就任時の挨拶で、子供の頃によく相撲を取って遊び、安保清種を投げ飛ばしたりしていた、なんてしれっと語っていて、あれを読んだ時は思わず笑った。


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私は三笠も随分ご無沙汰しております…
リニューアル前はよく行っていたんだけど、リニューアル後に広瀬武夫の柔道着が常設展示から外れてしまい、そこから足が遠のいた^^;
同じ理由で遊就館からも足が遠のいている。
現金ですまぬ。
ただ東京に行った時は靖国神社へは極力お参りするようにはしているのだけれど。
じーちゃんの戦友が沢山眠っているのでなー。


記念艦三笠展で出品されていた物は、目録を見ると殆ど東郷平八郎関連のものでした。
着物や軍服といった身の回りのものから勲章や書、日記など。
日露戦争関連のもの、三笠関連のものが流石に多い中で、広瀬武夫の柔道着がある。
この出品者が防衛庁になっている。
防衛庁か…
多分三笠にあるあれだと思うのだけれど、移管されたのかな?
三笠は国の所有物だから別に不思議でもないけれど、去年テレビで出ていた道着と同じなのかなと。
よく分からんことが多い^^;





今回のエントリの題は百人一首に採られている阿倍仲麻呂の和歌より。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

戦艦三笠の名はこの三笠山から。
阿倍仲麻呂は哀愁を伴って思い出される人物のひとりです。
何時からというと子供の頃からなんですよねえ。
遣唐使船で唐に渡って、科挙に受かってどんどん出世、最終的に玄宗皇帝に気に入られて帰りたくても帰れなくなってしまった(許してくれなかった)。
漸く帰国の許可を貰って、乗った遣唐使船が難破(ベトナムに漂着)。
結局唐で亡くなっています。
この歌は帰国に際して開かれた送別会で詠んだとされる。
8・9歳の頃の私には、この人の事が子供心にかわいそうでかわいそうで仕方なかった。
いまだに強い寂しさやもの悲しさを感じる歌でもあります。


ちなみにこの時の船団には鑑真和上もいました。
仲麻呂とは船が違ってたらしい。
和上はこれが6回目のトライで、漸く日本に辿り着いた。
ただ度重なる苦労と疲労によりこの時には両眼とも失明していたと言われます。

奈良の唐招提寺は鑑真和上が創建した寺。
有名な和上像が安置されていますが、年に2日だけ初夏に公開されています。
一度は拝顔したいのだけれど、未だ機会に恵まれず…
お寺には何度か行ったのだけど。

この和上像と聞くと思い出す人がいまして、それが2・3年程前に亡くなった米長邦雄名人。
唐招提寺にふらっと訪れた時に、その辺にいたお坊さんに和上に会いに来たと告げると御影堂に通されそうです。
和上像の前でじっと座っていると、鳥の声が聞こえてきたと。
そういう話をお坊さんにしたら、それは迦陵頻伽の声ですね、と。
その辺にいたお坊さんは実は唐招提寺の偉い人だったらしく、いつもはそんなことしないのに、なんとなくしてしまった、そうで。
仏縁というか、何かがあったんでしょうね。

1:1のトーク番組で米長名人がそういう話をしていた。
『徹子の部屋』かなあ…10年以上前です。
そして笑いながら瀬戸内寂聴(実名言ってた)には悟りは開けないし迦陵頻伽の声は絶対に聞こえないとか言ってて爆笑した。
流石米長名人(笑)

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