Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

軍歴証明ノート(6)

亀の如き歩みで昭和15年末の入営前後の話から漸く長沙作戦までやってきました…(アウトプット
あとどの位かかるんでしょうね。
 
取り敢えず親戚に配布するのに30部欲しいということで。
30部か…
うーん、これ製本か?同人誌か?友人に聞くか?と思っていたのですけれども。
あれこれと調べたらば、最近のコンビニのコピー機が凄くハイスペックになっていた。
自分に用途がないので知らなかっただけですが、USB保存の文書から中綴じの小冊子プリントが出来るという。
もうこれでいい。ぎりぎりまで頑張れる…orz

ページが4の倍数に達したあたりで、製本したらどういう見栄えになるのかを確認すべく(年寄りばかりなのでな!文字が小さいとか論外なのだよ!笑)実際にプリントしに行ってみました。
まあいい感じなんでない?
少し整うとそれらしく見られるから不思議ですね。


20170921




そして陸軍さんの軍事用語が分からなくて辛い。
そもそも一括りに野砲って書いてあるけど、そもそも野砲とは何ぞや。
野砲と山砲ってどう違うのとか、そのレベルからですからね!この物知らず!
というか私山砲の読み方を長らくさんほうだと思っていたのだけれど、さんぽうだった。
さんぽーへーだった…(そこからかー
しかしながらあれこれ読んでみてスペックをやや理解した辺りで、本を読んでいても少し見当がつくようになってきた。
基本的な所を押さえるのは大事ですね。

野砲というのは「野戦砲」のことで、野戦場で用いられる大砲のこと。
野戦場での使用が目的なので、装輪砲架(砲架に車輪をつける)で移動できるというのが最大の特徴。
逆に固定して使うのは海岸砲や要塞砲になります。
この野砲、いくつか種類があって、それが榴弾砲、野砲、山砲。
……?
野砲の中に野砲…(この辺りで既に混乱気味
お、おう…。代表的な砲ということか…?
陸軍の花形として使用されていた大砲は主に野砲・山砲だそうです。
で、これがどう違うかというと、一番の差異は山砲が分解できるという点。

普通に考えると、大砲は口径が大きくて砲身が長いほど破壊力があります。
しかしながらそれは「大きくて重い」ということで、そういうものは山岳地帯とか、ジャングルとか湿地では使えないのですよ。
大型であればあるほど運用するのに多くの人員と馬、車両が必要になるので、展開できる地形が限られてくる。
馬と車両は大砲の牽引力です。
砲兵部隊の起動源であって移動の際に絶対に必要で、お馬ちゃんや車が通れる所じゃないといけない。

これを解決したのが山砲で、これは野砲からの開発になる。
大東亜戦争時期、主力であった野砲の重さを調べると、放列重量で大体1~1.6トン(放列重量とは射撃状態での重量のこと)。
人間の力で移動させるのは無理である。
これに比べて山砲は大体540kg、これをいくつかに分解して、馬もしくは人間で運べるようにした。

運べるようにって簡単に言うけれど、分解したパーツ、1個大体100キロあんねん。
それひとりで持つねん。
日本人の体格から臂力搬送は100キロ辺りが限界というのが陸軍当局で研究した結果。
100キロ無理?重い?
精神力でカバーしろ。(真顔
ノモンハン事件後のセリフと全く同じで震えるわ…
100キロある砲身を持って訓練場にあるとある丘を駆け上るのが山砲兵の華と言われたそうです(白目)


山砲臂力搬送
臂力搬送の様子


動画もyoutubeで出ていた。⇒〔日本軍〕野砲・山砲(別窓)
確かに野砲とは大きさが大分違う。

山砲は比較的優秀で身体頑健な兵が選ばれ、実際に大柄な人が多かったそうですが、これは確かに頑丈でないと無理だっただろう。
あと分解した砲を背負った人の話として、腰が抜けるほど重かったというのも見たのだけれど、腰が抜けるとかいう重さではない。


山砲臂力搬送
100キロ…


分解した山砲の駄載と卸下は、初年兵の頃に随分訓練されたようです。
分解から6馬への駄載を6人の砲手で、1分半で行う様に訓練されていたようで、砲手の一糸乱れぬ連携が必要だった。
初年兵から見ると神業に近かったそうです。
しかし初年兵でも訓練を続けて1ヶ月過ぎる頃には2分以内に作業完了できるようになっていたというから驚きます。

山砲兵は分隊に1門山砲を持っていて、6人の砲手、4人の弾薬手(弾薬班)がいる。
山本七平の本を見ると、砲兵は観測・通信・砲手・馭者のパートに分かれていたようだけれど、どれか被っていたりするのかな?ちょっと分からん。
山砲兵第19連隊の弾薬手であった人によると、弾薬手は各種信管に関する種別、特性、着弾距離による装薬の分量といった教育を受けたそうで、山砲兵にはある程度優秀な人が選ばれたというのに納得しました。
山砲だけでなく砲兵全体を通じての話だったのだろう。
ちなみに本当に優秀なのが選ばれるのは通信兵、そして輜重兵であったそうです。
これは『兵隊たちの陸軍史』に載っていた。


山砲1門を駄載するために馬は6頭必要になります。
12・3人の1個分隊に山砲1門、馬6頭。
大体2人に1匹の割合で馬がいる。
長沙作戦時の山砲兵第40連隊2011人に対して馬は1217頭。
やっぱり大体2人に1匹で、馬は本当に大事にされていた。
一頭一頭にちゃんと名前があって、砲兵は自分のことよりも先に馬の世話。
人の名前を覚えるよりも先に馬を覚える、という感じであったそうです。

砲兵は傍に馬がいたから悲惨な戦場でも人間性を比較的保っていられたという文章を読んだことがある。
戦友会誌を読んでいると、本当にそうだったのだと思う。
物言わぬ戦友であり、妻であり、恋人であり、子供であり。
インパール戦の撤退で食糧のない中自分の割り当て分を馬に与えていた兵。
慈しんでいた馬が死んで心が壊れた兵、後を追うようにして病死した兵。
人の運命も悲惨だけれど、馬の運命もまた悲惨で、インパールの辺りの話は見れば見るほど悲愴な気持ちにしかならない…

軍歴証明ノート(5)

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泣きながら読んでる(色んな意味で
長沙作戦が辛すぎる…

学生時代にですね、『一死大罪を謝す』という阿南惟幾の伝記を読みました。
何で読んだのかはちょっと覚えとらんのだけれど、多分修士論文関係で読んでみようと思ったのだと思う。
阿南に対する著者の好意的な見方へのもの凄い違和感と嫌悪感を持って読み終えた。
戦友みさわちゃんに「なんであんな好意的なん?おかしくない?納得いかん」と話した覚えがある。
あー…
なんというか、この人物に関してどう思うかというのは今迄書いたことはなかったのだけれど、やっぱり無理だ…

ひとりの軍司令官の見栄と名誉のために、ほぼ思いつきに近い作戦で砲弾も食料も持たされずに将兵が敵陣に突っ込まされ、数千人が死傷した(第二次長沙作戦)。
しかもその軍司令官の当時の日記には積極性が足りないだの、2日絶食すればより動けるだの(※兵隊は30㎏の装具を背負って厳冬期に不眠不休で戦っており、食事抜きなど考えられない)、挙句の果てに自分が専断で進めた作戦を部下のせいにするだの、体が震えるようなことばかりが書かれている。

この軍司令官は実行の必要のない作戦を勝手に起こして大損害を出しても左遷もされず、何らの処分さえ受けずに、最終的には最後の陸軍大臣へと栄転する。
本当にどういう組織なのかと目を剥く。

今年の8月15日にNHKで放送された「戦慄の記録 インパール作戦」で、斎藤と仰る当時少尉の方の証言がありました。
兵隊を5千殺せばここは落とせる等と平気で口にする高級将校らの姿に、
「日本の軍隊の上層部が考える兵隊なんてそんなもん。その内実を知ってしまうと辛い」
映画になった『蟻の兵隊』にしても同じで、こいつら、部下の、兵隊の生命をなんだと思っている。

勿論そんな高級将校ばかりであったわけではないけれど、部下も大切に出来ない、正しい状況認識も出来ない、状況が分かっていても空気を読んで流される、合理性よりも精神性に傾く、こんな軍人を量産していた軍の教育は失敗だったと思う。

軍歴証明ノート(4)

徴兵検査を受け、5分の1の確率で貧乏くじを引いてしまった壮丁は、翌年の1月10日に入営します。
日中戦争の頃はそうだったらしい。
当時出版されていた「入営のしおり」っぽい本を見ても同日でしたが、時期によって違うのかな?
祖父は同年の12月でした。

この時に入営日時や入営部隊所在地等が記された「現役兵證書」が所轄の連隊区司令官名で送られてきたそうです。
家のじーさんのは残ってなかったのだけれど、青年学校手帳の最後に徴兵検査の結果と連隊区司令官以下調査官の印が残っていて、あと入営時に渡されたと思しき紙が残っていた。
それには「第一乙 山砲兵 第参六番 仲多度郡神野村 (氏名)」と書いてある。

ちなみ曽祖父の軍隊手帳は残っている。
(1)で昭和12(1937)年の支那事変以降は徴兵率が上がり、それまでは満20歳男子の5人に1人であったものが昭和15年には2人に1人となったと書きました。
軍隊手帳があるということはこの「5人に1人」になってしまったわけで、明治39年の12月に歩兵第12連隊第10中隊に入隊している。

歩兵第12連隊は編成地が丸亀で、師管区は言うまでもなく善通寺。
第11師団は日露戦争の旅順攻略に参加していて、もしかしてと思い能々見てみると、歩兵第12連隊は東鶏冠山の担当になっていて、第1大隊が白襷隊に参加している。
第10中隊は恐らく第2大隊か第3大隊だったと思うが。
しかし家のひーじいさん、あと2・3年生まれるのが早かったら旅順で戦死していたかも。





入隊1年目は初年兵で、この時の階級は二等兵。
翌年に初年兵が入ってきたら自動的に一等兵になる。つまり二等兵=初年兵。

初年兵時には1年を6期に区切って教育・訓練を受け、期ごとに連隊長や旅団長から検閲(習熟度を見る検閲)を受けていた。
初めの4ヶ月がその第1期で、ここで兵隊としての基礎訓練を受け、ここをクリアすれば戦場に出してもまあ良かろうという状態。

この第1期検閲で優秀な兵が上等兵候補者になり、特別教育を受ける事になる。
とは言え候補者全員が上等兵になれるのではなく、選抜がある。
上等兵への選抜は半年毎位で行われていたようで、初めが12月。
ここで選ばれると「一選抜の上等兵」といって、在隊している間の箔になったそうです。
祖父の軍歴を見るとこの一選抜でした。
昭和15年12月に入隊、翌16年5月の第1期検閲後に中国に渡り、12月に上等兵に昇進している。

平時に上等兵になるのは大変で、初年兵の1~2割程度。
上等兵で満期除隊となり農村部や漁村部に帰ると、村長が一席設けてくれる程のものであったそうです。
ただ光人社の『よもやま物語』シリーズをいくつか読むと、支那事変以後は3年ほど兵隊を続けていると大抵上等兵になれたようで、この辺り戦時と平時では随分様子が違っている。
戦争が起こると人員が足りなくなるというのもあるだろう。

陸軍のヒエラルキーの中で一番多かったのが一等兵。
兵役は2年もしくは3年で、平時であればそれで満期除隊になるけれど、戦争中は中々そうもいかない。
出征地では除隊即日召集が常態化し、3年兵、4年兵の一等兵なんてざらにいる。
戦争も末期になると6年7年なんて古兵もおり、こうなってくると小隊長や中隊長でも、ちょっと遠慮がある、頭が上がらないということもあったそうです。
小隊長中隊長、若いし明らかに経験が少ないしね…

兵隊の世界では「星の数よりメンコの数」といって、星の数=階級より、メンコ=飯、軍隊でメシ食った回数が多い方が上。
上等兵や兵長でも、自分より年次が古い一等兵には逆らえず、階級が上でもビンタされたりすることもあったそうです。

兵長は某漫画で近年よく知られる階級かと思いますが、これは支那事変後の昭和14年に出来た階級。
上記の通り兵役満期になっても除隊されない古参上等兵の数が増加したためで、その調整のために作られた。
そうだったんだ。

二等兵ー一等兵ー上等兵ー兵長 ここまでは「兵」
兵長の上は伍長、その上は軍曹、准尉(特務曹長)と続きますが、こちらは「下士官」

実際に軍隊を支えたのはこの下士官、特に軍曹と准尉。
然しながら総じて下士官は積極的、優秀で、戦場でも敬服すべき働きぶりを示すものが多かったとのこと。
戦争では分隊長として兵隊の先頭に立ち、部下をいたわり、善戦したのがこれら叩き上げの下士官。


指揮能力というのは、いかに部下を殺さず、いかに戦果をあげるか、にかかっている。
そしてその根幹をなすのは、部下より先におれが死のう、あとにつづけ、の精神である。

下級の兵隊が上官に敬礼するのは、陸軍礼法できまっているからでも、相手の学歴や階級を尊敬しているからでもない。
一にその指揮能力を信じ、死ぬときは先に死んでくれる、という思いがあったからである。

しかし多くの統率者は、自分が偉いから敬礼されるのだと安直に錯覚し、兵隊の期待を裏切った事例枚挙に遑がない。
ただ、分隊長である下士官が兵隊の期待を裏切ったという事例は、率からいうとほとんど無いのである。 (『兵隊たちの陸軍史』)


『兵隊たちの陸軍史』には大正10年生まれ昭和17年2月入営の人物の軍歴が紹介されていて、それを見ると
17年2月二等兵、
 同年8月一等兵、
18年2月上等兵、
 同年8月兵長、
19年3月伍長、
 同年8月軍曹。
著者曰く、


入営後三年六ヶ月で軍曹というのは最高に早い出世で、同時入隊兵でまだ一等兵の者が三分の一はいたはずである。
通常この年限で伍長になれれば目立った出世であった。
一等兵と上等兵の差でさえ、いかに隔たっている(出世に時間がかかる)かを、兵隊経験者ならよくしっているはずである。


そうなんだ…
この方、祖父より1年遅い入営。
祖父は入営1年後に上等兵、その2年半後の昭和19年6月に兵長、昭和20年8月に伍長。
復員直後の昭和22年3月、現役除隊の前日に軍曹になっている。
これは所謂ポツダム進級かと。

母から祖父は軍曹になって帰ってきたと聞いていたのだけれど、確かにそれは本当だけれど、まあ実質的には伍長…というより兵長か。

そう思うとこの方、確かに無茶苦茶早い出世である。

軍歴証明ノート(3)

ビルやマンションの建築現場監督をしていた人が、

関西の職人は右向けと言ったら左を向く。
関東の職人は右向けと言ったら夕方まで右を向いてる。
西から東に行くと仕事が物凄く楽だが、東から西に来ると物凄くしんどい。

関東関西の気質の違いをそう話してくれたことがある。
関西…というか、まあ大阪だと思うけれど基本的には「お上何するものぞ」。
これは歴史から来ていて、幕府がありそのお膝元であった江戸と、日本一の商業都市で商家が多い大坂の権力に対する感覚の違いが出ている。
元は太閤さんの町やというのもある。
そんなこんなで、大阪や京都の師団が弱いのは商売人の子弟が多いからだと一般的には言われている。


大阪城、第4師団司令部
(第4師団司令部@大阪城)


で、『兵隊たちの陸軍史』が引用している関幸輔「日本一弱かった師団」(『現代史研究第7集』)を孫引きします。


旧日本陸軍の中で、日本一弱いと自他共に折紙付の師団が存在した。
その名を大阪第四師団という。

日露戦争で連戦連敗、『又も負けたか八連隊』の勇名(?)は、日本中に喧伝され、以来昭和十二年の日中戦争までの間に起きた、いくたの事変にも一度も出動せず、わずかに昭和八年大阪市内盛り場の交差点で、一兵士が信号無視して警官と衝突事件(ゴー・ストップ事件)を起し、大事件に発展して時の寺内師団長が皇軍の威信に関すると見当違いの大見得を切って世人の嘲笑を買った事件が大阪師団唯一の武勇伝である。


師団唯一の武勇伝である(キリッ

笑。
ゴー・ストップ事件とか久しぶりに聞いたわ。
文中の寺内師団長は寺内寿一(寺内正毅の長男)。
事件について興味がある方は調べてみてください。
師団長も師団長なら陸相も陸相で、本当に恥知らずというか厚顔無恥というか。


昭和14年のノモンハン事件の際、仙台・大阪師団に応急動員で出動が命じられた時、仙台の第2師団はハイラルより徒歩行軍4日で現地到着し、先遣隊である新発田16連隊は直ちに戦闘加入。
その一方、


大阪師団は出動下命されるや、急病人激増、何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し、怒った連隊長が医務室に出向き、自ら軍医の診断に立会う始末。
やっと出動部隊を編成したまではよいが、ハイラルから現地までの行軍では<略>一週間を要し、しかも落伍兵続出、現地にやっと先遣隊が到着したら停戦協定成立。

とたんに元気が出た浪花ッ子の面々、口口に戦闘に間に合わざりしを残念がり、落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰。
帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった。


201410272.jpg 


太平洋戦争開始されるや、(※土原註:おとぼけ師団過ぎて)使い場が無く、結局大本営直轄の南方軍予備という名目で上海付近でぶらぶらしながら待機。


しかし昭和17年4月フィリピン戦線に派兵され、今度こそ一巻の終わりと「青菜に塩」で「力無く」戦場に向かったが、


軍主力の一翼となり、ビクビクしながら進むうちに、弱り切った米比軍が勝手に白旗をかかげて降伏してくれ又も停戦成立。
初めての勝ち戦さに有頂天になったおとぼけ師団の将兵は、まるで自分たちでバターンを占領したような大ボラを吹きまくり、郷里大阪では号外が出る騒ぎになった。

(※一緒に戦った兵団は精鋭師団の中から選抜された部隊でした)


大本営でもこの第四師団の戦力と使い方にはよほど困ったと見えて、その後あれほど南方各地で陸軍が苦戦しても、この師団は遂に激戦地に使用されず、専ら後方基地で待機。
終戦は、タイ国バンコック付近で休養中に迎え、復員開始されるや全員血色のよいはち切れそうな元気さで帰国、出迎えの痩せ衰えた内地の人々を驚かしたという。

思えばあまりにも弱いとの定評が幸いし、おそらく南方出動師団のなかで、一番戦死者を出さず、逞しく生き抜いた大阪人のド根性は見事であり、もっとも人間的には正直な、平和愛好師団だったというべきかもしれない。


申し訳ない、笑ってしまった。
こういう兵団もあったんやな。


大阪編成の第34師団に於ては、ある作戦の際に将校・下士官・古参兵の入院が相次いだそうです(消極的かつ合理的な出動拒否)。
この時は中国軍の兵力・装備が圧倒的で日本軍は多大な犠牲を出し、それでも生き残って帰還した古参兵に入院していた兵が口々に、
「お前は何のために参加したのか」
実は作戦開始前に「囮として使用される」と噂が流れており、入院者は囮になることを嫌ったとのこと。

これは臆病とか卑怯とか、そういうことではない…とは思わんけど、それだけではないと思う。
合理的…
うん、伊藤桂一が言う様に合理的で無駄を嫌うんだろうな。
同書には司馬遼太郎の話も出ていて、曰く、


大阪は元々商人の町で、幕府の威光も大名の権力も怖れない独自の生き方をしていて、こんな環境で育った青年をいきなり軍隊に徴集し
「国家の為天皇の為戦死せよ」
と言い聞かせても、なぜ自分たちが国家と天皇の為に戦い戦死せねばならぬのか、その理屈が実感としてどうしても飲み込めない。

これが仮に東北の若者なら常に領主の圧制に屈してきた伝統に育ってきたから、
天皇>>>>>領主
と説けば、簡単に通じる。

しかし大阪人にはいくら言っても分かりかね、
「えらい迷惑なこっちゃ」
という意識がどこかにあって、まず不合理につまづいてしまう。
それを考えると戦争に弱いのは当たり前……

確かに東北と大阪では大分大分違うだろう。


大阪兵団のもつ
「無益な犠牲は出したくない」
「不合理な戦闘はしたくない」
「無理に敵を追及する必要はない」
といった理論は、当時の陸軍においては、奇妙奇天烈な気質としてうけとられたはずである。
<略>

日本の軍隊がもしすべて大阪兵団のようだったら、日中戦争また多くの事変や戦争は起こらなかったろうし、最後に大敗することもなかったかもしれない。

しかしその代り、もっと早い時期に、どこかの国に、よりみじめな状態で隷属せざるを得なくなったかもしれない。
判断のむつかしいところである。


この本の大阪兵団の話は面白いという以上に、ちょっと考えさせられるものでもありました。
成程なと思った。

そして「国のため」「天皇のため」という意味が最後まで分からなかった兵隊は大阪兵以外にも沢山いたといいます。
それは分かる気がする。

兵隊達は常に「お国のため」という合言葉を信条として非条理な軍隊の内務生活に耐え、過酷な戦場を戦った。
「お国のため」という言葉には覚悟と諦観が含まれており、またこの言葉の裏には、「おふくろのため」「好きな女のため」という、兵隊独自の思いが隠されていた。
厳しい軍律や運命の中をどう生き抜くか、兵隊の知恵の集約されたものが「お国のため」という言葉で、
「国のため」ではなく「国のため」という敬語のなかに含まれる兵隊の感情の微妙なニュアンスは、たぶん「お国のため」に働いた者でないと、実感的にはわからないかもしれない。


兵隊業の想像を絶する過酷さに思いを致さざるを得ない文章であります。


大阪兵団、ヘタレ話ばかりではないと一応紹介しておく。
伊藤正徳『帝国陸軍の最後』にはマレー半島進撃時の独立工兵第15連隊の行動が紹介されているとある。孫引きで申し訳ない。
この連隊は敵が爆破し去った橋梁の架設工事に挺身、その働きぶりは

大阪の兵隊は弱いなどと誰が誤り伝えたのか、それは大きい誤伝であって、この工兵部隊に関する限り、大阪兵団の献身敢闘は、軍や師団の参謀達が、真夜中に起き出でて現場に表敬訪問せねばならなかったほどの没我奉公の光景であった

軍歴証明ノート(2)

『兵隊たちの陸軍史 兵営と戦場生活』(伊藤桂一)を参考文献のひとつとしています。
大昔に読んだ記憶がある。

兵隊気質の郷土性の話が出ており、それが興味深かったです。
日本の兵団の中で強いと言われたのは東北と九州になります。
逆に弱いと言われたのは大阪。
ピンポイントか。笑

またも負けたか8連隊、それでは勲章9連隊

と歌われた程の抜群の知名度。笑
9連隊の編成地は京都で、大阪と一緒に俗謡で笑われていたのであった…


東北の兵隊は言われた通りを守るので、餓死しても命令のない限りその場から離れない。
昭和13(1938)年の張鼓峰事件の時、警戒命令を出した将校が命令を出したことを忘れてしまい、いつまでも交代要員が来なかった。
それで歩哨に立った兵は適宜判断で陣地に引き上げたが、東北の初年兵だけは引き上げなかった。
そこへ敵陣からソ連軍の将兵が数名の兵隊を従えてやってきた。
初年兵がどうしたかというと、ソ連将校に敬礼。
将校には敬礼せよと教えられているから、敵味方なく敬礼した。
このソ連兵は日本軍に降伏したいと言ってやってきたもので、初年兵は彼らを自陣地に案内した。
捕虜にしたではなくて、案内、した。

こういう兵隊は東北兵団にしかいなかったそうです。


命令を出したら、必ず解除を忘れぬこと、という一条を、東北兵団の指揮者が守るのは、部下兵員の純朴さを知るからである。
戦闘の際、こういう部隊が、特に守備に強いことは自明の理である。


この文章、特に前半の一文が凄く印象に残っている。
ここ読んだ覚えがあるなと今見ても思うほどであったので、その時も余程印象に残っていたのだと思う。

伊藤桂一によると、九州兵の勇敢さは南国特有の多血性と純朴な地方性から来ており、東北程の粘り強さはないものの素質は良い。
九州と言っても中核は熊本と鹿児島で、

熊本 …竹を割ったようなからっとした性格
鹿児島 …南州を誇る独自の地方色で、小柄だが敏捷な薩摩隼人の伝統に恥じない

そしてその他の九州兵団の特色と言えば、

福岡連隊 
…炭鉱従事者が多く、川筋気質と言われる気の荒さ、人情仁義の厚さが個性。
それに佐賀の葉隠精神が支えとなるので、理屈抜きの行動性を尊び、第六師団(熊本)の気質に対抗し、久留米編成師団の名を売っている

久留米兵団は天皇への忠誠一辺倒という筋金入りの将校ばかりがいて、強兵を指揮していたそうです。
将校は地生えではなく他所から赴任してくるものなので不思議に思うのですが、そういうものなのか。雰囲気に染まる所があるのかもしれない。
ちなみに久留米で編成された師団には第18師団があり、これは兵団文字符に「菊」を与えられた強兵で知られた師団です。


久留米で編成された第37師団は運城(北支)からカンボジアのプノンペンまで直線距離にして四、五〇〇キロを歩いている。
この部隊の兵員は、歩きながら、連れている牛のふと股を剣でえぐりとり、それを焼いて昼食の菜にした。
陣地攻撃をするとき、正面を見すえて応戦するので、戦死者はほとんど眉間を射抜かれていた。
この師団所属の一連隊は、命令をききまちがえて、師団全部で攻撃して取るべき敵城(祁県)を、一個連隊で攻めて取ってしまった。


お、おう…
1個師団は大体2~2・5万人、1個連隊は3000~3500人位です。


こういう気質を兵営生活に置き直すと、当然強兵たるべき訓練――として、私的制裁もまたきびしかろうし、初年兵の、それに耐える能力も高い、ということになる。


私的制裁、兵営生活の中での上官や先輩からのビンタであったりですが、そうしたリンチにも郷土性があったようです。
伊藤桂一は「高田の歩兵第58連隊では営内における私的制裁が殆どなかったと聞いたことがある」と書いていて、私も同じことをどこかで見たことがある(この本では…)。
(新潟のこの連隊はレルヒ少佐がスキーを教えた連隊。インパール作戦のコヒマの戦いに参加)

東北兵団の、上記したああいった性質の兵隊は私的制裁しても張り合いがなく、また二年兵三年兵になっても、こういう兵隊は下の者を制裁しないだろう。
恐らく東北や日本海側の部隊では東京大阪のような私的制裁の在り方ではなかったと思う。
仮にあっても、よく人情の通った上での制裁であったのでは?

…とあり、各地の地域性というか、郷土性は中々個性的というか、強烈なものなのだと思います。
ちなみに著者自身も関東兵団で7年兵隊をしていて、その関東兵団の印象は、

・東京兵がかなり混じるので気質的にはさっぱり。兵員の知的水準も高かった筈
・兵営生活もあくどくはないにしても、底に人情が通うということもない
・戦場でも兵営でも標準的、典型的であった気がし、どこか無性格・無特徴

何だか分かる気がします…
著者自身も7年身を寄せていて、その性格をどう説明していいか正直言って分からない、と述べている。


そして思わず笑ってしまったのが、大阪の兵団の特徴。
著者曰く、弱いのではなく、合理的。

第34師団が作戦時、路上で疲れて休んでいると、前方に日本兵に追われた中国の敗走部隊が姿を現した。
こういう場面に出くわせば、いかなる部隊でも攻撃、捕捉、殲滅するだろう。
が。

大阪兵はそれをみても全然動かなかった。

ちょっと。笑。


理由は、自身も疲れているし、敵も疲れている、かりに敵を捉えてみても大局に影響はないし、また捕虜を連れるとそれだけ足手まといで骨が折れる、逃がしてやれ、と考えたのである。


中国兵は指呼の間に大部隊を発見して驚愕したけれど、彼らは一向に無表情で敵か味方か判別できず、不審げに振り返り振り返りしながら逃げおおせたそうです。

そんな話あったんや。笑
大阪兵団の話続く。(まさかの
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