Para Bellum

Si vis pacem, para bellum

秋山真之の書簡(続々)

秋山が欧米視察旅行に出かけたのが大正5(1916)年3月~10月末になります。
(この辺りの話は「Extraordinary」をどうぞ)
戦争の真っ最中。

欧州では大戦参加国の大本営に顔を出して戦況を見聞していたそうで、戦争の様子もよく分かっていたのではなかろうか。
当時既にドイツの飛行船がイングランドや東部戦線・西部戦線を爆撃したりしているので、その様子なども聞いていたかと思われます。


帝国海軍では大正5(1916)年4月に海軍航空隊が誕生しているのですが(横須賀鎮守府所管)、安全に飛べる飛行機は10台ほどしかないとか、そういう状態であったそうです。
慢性的な財政難、そして大正3(1914)年1月に表面化したシーメンス事件、第一次世界大戦による資材の高騰といった環境の中、軍艦の建造でさえ困難が生じているので、中々航空関係まで資金が回らない。
大正6年6月の前川宛て秋山書簡にも「艦政局に融通の資金無之」という文言があるのですが、まあそんな感じ。


秋山真之 


日露戦後~大正期は軍艦ひとつを例にとっても非常に技術革新が進んだ時期で、
「やったー!予算取ったー!」
という段階で、まだ作りもしない軍艦が既に旧式艦になっていたりするのですよ…
(技術革新のスピードが早すぎて、当局でもどのスタイルの軍艦を採択すればいいのかが分からない。挙句の果てに旧式艦)


「84艦隊とか88艦隊とか呑気なことを言っている時節ではない」
「危急に適応できる武器を準備する必要がある」

6月の前川宛書簡で秋山はそうも書いているのですが、当時の様子を見ている当局者からすれば真実そうした感じであったのではないかと思われます。
世界と自国の状況を鑑みて、どんどん進んでいく軍事技術についていかないといけないのに、資金がないから思うに任せないというのはかなりのジレンマだっただろうなあ。
文面から読み取れる以上の危機感、焦燥感があったのではないかと思います。

体調が悪く、また通常勤務も難しいという中でも尚且つ頭の中がこういう状況か。
これでは本当に頭も心も休まらなかったのではなかろうか。
その上医者に治してもらうつもりがなかったら、治る病気も治らないよ秋山…

うん。
色々な感慨の沸く書簡でございます…


もう1通釈文を頂いたのは森山慶三郎宛の秋山書簡です。
わーい。もーりーやーまー!(落ち着け
大正3年7月のもので、秋山が海軍省軍務局長の時期のもの。
シーメンス事件について書かれていたようだったので、ちょっと内容が気になったのさ…(結果としてあんまり内容はなかった^^;)
未公開書簡でもあることから、内容は書かない旨お伝えして釈文を頂いておりますので、これについては書きません。
ただ当時森山は在留民保護のためにメキシコ西岸に派遣されていたようで(出雲艦長)、日本の軍艦、結構手広くあっちこっちに行ってるのだな、と感心しました(感想文か


坂の上の雲ミュージアムの担当者様、色々と御骨折り頂きましてありがとうございました。
(こちらをご覧頂いているかは分かりませんが…)

秋山真之の書簡(続)

昨日の続き。
大正5年末から6年の秋山真之と言えば、大本教と出会ってのめり込んだ時期になります。
当時、秋山と初対面を果たした大本教の幹部、浅野和三郎による秋山の印象は以下(詳細は「Changing ~ 秋山真之と大本教」をどうぞ)。


頭脳の働きの雋敏鋭利を極わめ、為めに停滞拘泥することを嫌い、自分が善と直覚するものに向かって、周囲の一切の顧慮を打棄てて勇往邁進する勇気にかけては、確かに天下一品の概を有して居た。

一つの仕事をして居る中に、モウ其の頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居るといった風で <略>


こちらのパンフに載っている平岡宛書簡では体調が悪く2・3日療養していた旨が書かれていますが、6月の前川宛書簡でも「出勤できるようになったら」という一文がある。

パンフによると秋山は大正5年頃から体調が思わしくなく、翌6年春からは通常勤務が難しくなっていたとあります。
秋山は6年5月に盲腸炎で入院し、7月中旬には第二水雷戦隊司令を免ぜられ将官会議員に補されている。
将官会議員はまあ閑職・名誉職ですので、病気療養のための陸上勤務ですな。
勤務ちゅうてもほぼ勤務あるかないか…
まともに働けない状態だったと思われる。


秋山真之


浅野の言に「頭の一部には他の仕事を幾つも幾つも考えて居る」とありますが、6月の前川宛書簡は
既に水雷の話ではなく、飛行機に搭載する機雷の話になっております。
機雷とか小魚雷と書簡には書いてあるのだけれど、要するに爆弾のことだろう。


前川義一の当時の所属は横須賀海軍工廠造兵部になります。
造兵部は海軍の兵器製造部門。
技術畑方面に強い方であったのか、ご子孫様によると、無線電信の開発にも関わっておられたそうです。そうなんだ。
無線電信と言えば木村摂津守(大好き)の三男・木村駿吉博士が海軍の懇望と言う名の無茶振りに応えて日露戦争までに開発、実用に漕ぎ着けており、その木村に日露戦後、秋山は感謝を記した書簡を送っている事が知られています。

今回の2通の書簡を見れば、前川から考案書を送っていたり、秋山から兵器について具体的な改良案等を意見していたり…
前川氏、兵器を初めとする技術方面で秋山と結構関わりがあったのではなかろうか。


しかし飛行機か…
日本の海軍機というと昭和に入ってからの印象が私は強いのですが、実は結構古くからあり、この大正6年の時点で既に帝国海軍には実戦経験者がおります。(大正3年青島攻略戦)
満喜の弟よ!(誰やねん
明治42年の気球研究から始まって45年には海軍航空技術研究委員会が設置され、同年の観艦式と海軍演習では既に飛んでいる。その時点でたった数基(1桁…

大正3(1914)年夏に始まった第一次世界大戦で現れた新兵器には戦車、毒ガス、潜水艦、機関銃等が挙げられますが、飛行機もそのひとつ。
戦争開始当初は偵察を目的として利用されていましたが、その内相手の偵察機の邪魔をするとか、敵地に手榴弾を落とすとか…
終いには敵地を爆撃、敵軍機を機関銃で攻撃といった爆撃機、戦闘機への発展を遂げるようになる。


つ、つづく…(ごめーん!

秋山真之の書簡

3月に松山に行った際、坂の上の雲ミュージアムで秋山真之の書簡の釈文下さいとお願いをしましたところ、快くご了承下さいまして。
3月末と先日に分けて数年前に鑑定団に出ていた書簡2通と、未公開の書簡1通分を送付頂きました。
鑑定団に出ていたのはこちらのパンフで紹介されているもので、2通の内1通の冒頭部分の写真が出ております。

宛先は前川義一、海兵27期で同期に末次信正がおります。
書簡は大正6(1917)年3月14日と同年6月5日付のもので、「舌代」から始まる写真の書簡は前者、3月に書かれたものになります。
ちなみに「舌代」ですが、これ書簡の冒頭に使う言葉なんだろうかといつも思ってしまう…


秋山真之 


頂いた釈文を読む前にもう一回自分で書き下したのですよ。
テレビ見ながら書いた釈文よりはましやったわ…(なぜ書き下せたかと言いますとテレビ画像をスクショで取っておったからです)
というかあの時何故これが読めなかったと思う部分がちらほらあるぞ^^:
うむ…

まあ、分かることはやね、兵器の話は皆目分からん。(おい…
パンフの下の方に平岡貞一宛書簡(T6.1.26)の全文が出ていて、これが話としては繋がっています。
急行掃海具と曳航水雷の製作前(平岡宛)と製作後に行われた実験後の課題の話(前川宛)。


IMG_3918.jpg 
(平岡宛)


水雷関係かあと平岡宛て書簡の冒頭を見れば、「一昨日上京爾来」秋山は具合が悪かったようなのですね。
上京か、と思いきや秋山は当時第二水雷戦隊司令として舞鶴に赴任したばかりの頃でした(T5.12月補任)。
そら話題は水雷で、上京やろ(とセルフ突っ込み

はい、今日はここまで。
短くてごめんね。2回に分けるような内容でもないのだけれど。

広瀬武夫*113回忌

広瀬武夫の御命日です。
書きたいこともあったのだけれど間に合いませんでした。
しかし触れないというのもどうかと思うので、ちょっと古い雑誌をば。


2017327_1


右のは明治37年4月、真ん中のは明治37年5月、左のは明治37年4月。
左の征露図会は復刻版。
去年鹿児島に行った際、維新ふるさと館で開かれていた古本市で350円やった…
実は中身は持っているのだけれど、本になっているものなら欲しいなと。


2017327_1

ぼろぼろですわ…

久しぶりに征露図会をぺらぺら見ていたのだけれど、広瀬の同期近藤常松の書簡が一部掲載されている。
内務省土木監督の技師であった兄宛。
(この兄が近藤仙太郎と言う高名な技術者だったらしく、利根川や大井川、天竜川の改修でかなりの功績があるようです)


向井弥一_海大講習員 
(左から2番目が近藤。荒川仲吾と向井弥一も同期)


近藤常松は旅順口閉塞作戦当時、駆逐艦漣の艦長で、閉塞隊の援護と収容の任に当たっていました。
大島正毅や松永光敬、九津見雅雄といった同期たちも同様の任に就いており、送る方も送られる方も感慨一入であったのではないかと想像します。


近藤は日清戦争直前、広瀬と同じく水雷術練習所「迅鯨」の分隊士でした。
周囲がどんどん出征していくのを見て、当時の広瀬は焦り、自分の番が来ないことに落胆する日々だったのですが、果たして同僚の近藤までが先に出征することに…
「貴様、俺より先に征くのか」
そう広瀬から言われたと近藤本人が話を残しています。
当時の広瀬(の日記)が大変かわいくて(おっと失礼)、私としては大好きな時期です。
近藤が兄に宛てた書簡の最後に、


一言之を云へば唯壮絶惨絶と申すの外無之候
遂に我親愛なる広瀬武夫を失ひ申し候


とある。
同期ですから当然と言っちゃ当然ですが、やっぱり仲が良かったんだろうなあ…


また作戦に赴く広瀬を見送った霞艦長・大島正毅の回顧も残っている。
霞が福井丸と並走していた際に大島が

今夜は星光微かにして薄き靄あり、決行最上の夜と思はる。
已に天佑あり成功疑ひなし


こう信号した。
そうしたらすぐに船橋天幕に登ってきた広瀬が手旗信号で返信。


我又成功を確信す、有難う左様なら


そのまま福井丸を見送った霞はその後、閉塞隊援護・警戒に回る。
その内に空が白み始め、海を漂う端艇を見つけて近付けば乗っていたのは福井丸の乗員だったそうです。


広瀬中佐は「どうされた」と問ひしに、「戦死しました」と答ふ

それから乗員を収容したのだけれど、


能くゝゝ見れば戦死者負傷者多数端艇の底に倒れ、血肉は飛散し端艇は破れ
実に凄愴惨憺の極みにて、暗愁痛惜無限の感に打たれつゝ、
中佐の肉片を大切に白布に包ましめ、其他の戦死負傷者を丁寧に収容し、
全部終了せしを以て、端艇を舷側に横附けの儘繋止し、沖合に向へり。


この肉片はアルコール漬けにされた上、大島艦長であった兄勝比古の元に届けられ、4月初旬に帰国しております。


日露戦争直前_同窓会_広瀬武夫


向井弥一のご子孫様から頂いて、自分で人物の特定をした15期の集合写真は私の宝物です。
これは明治37年2月5日撮影。
後年の写真でもなく、当時のまんま戦場にいる時まんまの姿で写っているというのは、なんとも感慨無量になります(出征前日ですが)。
この写真には大島も、松永も久津見も写っている。
近藤がいなくて残念ですが、この人たちか、と当時の回顧等を読むと思います。

広瀬についてはもっと多くの人の証言なり回顧を集めたいと思うのですが、それがなかなか難しい。
上の写真の中では、特に町田の話を私は聞きたいと思うのですね…
町田に限りませんが、”軍神”じゃない、”軍人”広瀬武夫の話がもっとあると思うのですよ。
杓子定規な広瀬武夫像でもなく、「広瀬中佐!」と変に敬う感じでもなく、もう少し自然体で広瀬に触れられる機会があればと思うし、そういう場をサイトやブログで作って行ければいいなと思います。

そんなこんなで広瀬武夫の113回忌でございました。
合掌。

大正6年海軍小演習、再び!

1ヶ月程前にobjectさんよりご連絡頂きまして、


大正六年秋、海軍演習


この写真について氏名不詳のまま終わった方の内、2人の名前(阿武清少佐、中村亀三郎少佐)をご連絡頂きました。
流石です。すげえ…
写真やら史料を御呈示頂いて私もそうだなと思ったのですよ。


大正六年秋、海軍演習


で、サイトの該当ページを改訂すべく作業をしていて更に気付いたのだけれど、


大正六年秋、海軍演習


じゃねえ?と書いてますが、この方有地十五郎だと思う。


大正六年秋、海軍演習


そしてもうひとかた、日比野正治。
3列目の樺山可也?(と書いていますが樺山ではありませぬ)の方と迷ったけれど、2列目の方だと思う。
?付いてるけど、多分そうだと思う。
違うかな…

有地と日比野、二人とも当時海大の学生。甲種15期。
古賀も中村も同じく海大甲種15期になります。
そうしたら15期、塊で写ってるのかな?っちゅう。
objectさんどう思う?(笑)(聞くなよ…)
うむー…

ついでに調べていたらこの小演習時、統監である島村速雄が座乗していた艦が通報艦満州だと判明しました。
満州は元々ロシアの客船だったそうですが、日露戦争が始まった際に日本のものに。
内装が豪華であったため、観艦式の供奉艦や来賓を迎える等の艦になっていたそうです。
そうであるので、これは満州での撮影ではないかな?と思う次第。

しかし集合写真はハードルが高いわ~
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