Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

撒饌

広瀬神社から撒饌を送っていただきました。
毎年ありがとうございます。来年は行けると思うんです…(涙

今年は軍神せんべいを頂いた!と思いきや…
あらーん…


せんべい 


軍神せんべいじゃなくなっとるよ。
武夫せんべいになっとる。


せんべい


中身は変わってなかった。笑
せんべいの方にはばっちり軍神の文字が入っています。
型が戦前のものだそうで、意匠を変えるのは流石に難しかろう。
それはとにかく軍神せんべい、とっても久しぶりなのでおいしくいただきたいと思います^^

Sweet Home

本の返却の関係でダイバーシティの続きをそろそろ書かねば…と思った矢先に予約していた本がやって来るという罠。
海兵17期、秋山真之と同期同郷の山路一善の娘さんの本を見つけましてね(有名な方のようでした)。

読んでいたのですが、何という幸せ家族…
山路のイメージとはかけ離れとるー!
とりあえず山路が家でパパと呼ばれていたことに驚いたわ。


確かに山本五十六の家でも、妻礼子さんが子供たちに向かってお父さん(五十六)のことを「パパちゃん」と言ってたよ。
原敬の家でも、養嗣子貢さんが養子になる前、原家で預けられていた時に原敬の内縁の妻を「ママちゃん」と呼んでいた。
え、じゃあ、じゃあ、原敬の事も「パパちゃん」…?
原敬を…、パパ…?


原敬 


と思いきや、流石にそうは呼べなかったらしく(笑)
おじさんと呼んでいた。

原貢は原敬の姪の子供ですが、家庭の事情で原家に預けられてから養子になる迄期間があり、幼心に自分だけが苗字が違うのが悲しかったそうです。
そうであったため養子になった時は嬉しくて嬉しくて、何の衒いも躊躇いもなく原の「おじさん」を「お父さん」と呼んだ。
これには原もちょっとびっくりしたらしい。笑
原も子供好きだからなー嬉しかったんじゃないかなー

料亭に行ってもハーフ(半玉/10代初め~後半の半人前の芸者)にもってもてだったそうですよ。笑
半玉がみーんな原の側にいっちゃうと、加藤友三郎も言っている。笑
話が上手だから、楽しいの。
演説は貢に義理にも上手いとは言えないと言われる程のヘッタクソなんですけどね!(加藤にも言われとります)

上の写真は昨日の新聞に載っていた原。
恐らく首相就任後の撮影だと思われますが、初めて見た(多分)ので切り取っておいた。


それはいいのですが、山路家裕福やわ…
芝白金に3000坪の家。
門を入ってから玄関までは並木道になっている、家というか正に御屋敷…^^;
そして向い側には財部彪の家。
あー芝白金三光町か。目の前か。
住所調べたら山路の家、芝白金三光町519番でした。
財部の家も恐らく同等規模程度かそれ以上であったのではないかと思います。

しっかしアレだね。
山路と財部は相婿になる訳ですが、奥さんが…大分違う…
財部の妻は山本権兵衛の長女、山路の妻は次女ですが、うむ…
山路の妻・すえちゃん。

彼女がね、滅茶苦茶素敵な女性なのよ!
ママ大好きの子供目線からの母親像(しかも筆者は母が44歳の時の末っ子。第8子)なので、多少贔屓目に見ている所もあるだろうけど、それを差し置いてもめっちゃ素敵な女性である。
夫と子供への愛と優しさに溢れとるね。
こういう家庭に育つ子供は幸せだと思う。
凄いわー
理想的な「the 日本の母」だわ。


屋敷には行儀見習いのお手伝いさんが沢山いたものの、出来ることはすえさんがほぼすべて自分で行っていたそうです。
料理が大層上手だったらしい。
読んでいて、大正末期~昭和初期に主婦がこんなの作れたんだと驚きました。
主婦と言っても実父は海軍の長年の実力者で2度の首相経験者とか、夫が海外経験も豊富な海軍中将っちゅうのは、大分世間一般の主婦とは様子が違いますけれども^^;

上がっていたのはグラタン、タンシチュー、コールドミート、ローストビーフ等。
子供たちのおやつもほぼ手作りだったそうで、ゼリー、フルーツポンチ、プリン、ビスケット、クッキー、パウンドケーキ、カステラ、タピオカのプリン、パイ、お団子、お汁粉…など。

タピオカのプリン!?

タピオカが一般的なってきたのってこの15年程だと思うのですが、山路家では既に食べていた。

実父山本権兵衛が郷土のお菓子・かるかんが好きでね、道具を態々取り寄せて自分で作っていたんですよ。
中々思う様に作れなかったそうで、娘に作り方を聞いていた。
これが確かすえちゃんじゃなかったかと思う。

結婚前は嗜みとして琴や三味線を習っていたそうですが、イギリスに滞在している山路が洋楽を好きと知って、琴も三味線も燃やしてしまったり。
子供がどうしてと理由を質した時の答えが、
「パパと同じ趣味を持ちたい、同じ心になりたいと思ったのよ」
ですよ。

家に帰ったらこんな奥さんが子供と待ってるんやで…
帰るのが楽しみだったんじゃないかと思いますわ。

著者のお名前、鎮子さんですが、祖父山本権兵衛の命名だそうです。
桜が満開の時期に生まれたから桜子でどうだろうとお伺いを立てたら、
「桜はパッと咲いてパッと散るからやめよう」
鎮海要港部で生まれたから「鎮」の一字を取っての命名だった。

山本権兵衛の家も近いのですよ。芝高輪でエラい近いのよ。
山本は時には総領孫の満喜子を連れて朝は散歩をしていたのですが、その散歩コースにこの娘ちゃんたちの家がある訳ですよ。
タイガーが毎朝やって来る。笑
娘はいいけど婿の立場だと辛かろう。笑

ノスタルジア

肌寒いわー…
皆さんのお住まいの所でも同じなのでしょうか。
ジンジャーエール用にジンジャーシロップを作ったのですが、お湯で割って飲む羽目に。笑
新生姜が出ている間にもう一回作ろうと思いつつ、青梅を買う。(あら…
今年はブランデー梅酒を作るでえ。
日曜日に仕込んだのですが、飲めるようになるまでにはまだ時間がかかるなあ。
待つ楽しみもあるのだけれど、出来るだけ早く飲み始めたい。笑

それはさておき、聞いてくれ!

中野直枝の懐旧談を手に入れた!
やったー!


小栗孝三郎、百武三郎、佐藤鉄太郎、井出謙治、中野直枝


これと同じものかな?どうだろう。
こちらは伝記らしいので違うのかな?
流石にこの時よりは自分の中野情報は増えていると思いたいけれど、残念ながら大して変わっていないのである。あーあー…

中野直枝と言ってもすぐにピンと来る方はそんなにいないかと思いますが、海軍兵学校15期です。
海兵15期です(大切なことなので2回言いました)。
広瀬武夫と同期よ!
最終は中将。
中野は日露戦争時の大本営参謀だったということで、今迄何度か名前も出している。

ついでに書けば上掲写真の小栗孝三郎も同期で、こちらは最終が大将です。


日露開戦当時の軍令部(大本営海軍部)は副官を入れて14名なのですが、その内の5人が15期になります。
軍令部長伊東祐亨、次長伊集院五郎(5)、海軍参謀山下源太郎(10)、江頭安太郎(12)、森義太郎(10)、井内金太郎(13)、財部彪(15)、小笠原長生(14)、中野直枝(15)、森越太郎(15)、高木七太郎(15)、田中耕太郎(16)、谷口尚真(19)。
副官江頭安太郎(兼任)、小黒秀夫(15)。

作戦の方で中心になっていたのは山下源太郎と財部彪。
しかし期を見ていると中枢になっているのが、見事に兵学校教育が整い始めた辺りですな…

そしてみんな若いよね。
15期は明治元年前後の生まれが多く、14~17期は大体明治元年ごろを生年と思えば、大体36~8歳辺りです。
明治と共に成長してきた世代が日露戦争の中核になっていた事が分かります。
山下源太郎は41歳、連合艦隊司令長官であった東郷平八郎でさえ56・7歳ですからねえ。

東郷はもっと老人のイメージがありますが^^;
戦場でベストな判断を下すのに、体力のない老人では無理だと思う。
そう思うと停限年齢をどこに設定するかは大事だわな…

ちなみに山下は広瀬武夫の兄勝比古と同期になります。
仲が良かったそうで。一緒に写っている写真もありますね。うふふ。

あと江頭は私が15期の次に好きな12期!(数珠を繋ぐ#11
作家江藤淳の祖父になります(皇太子妃雅子さまの曽祖父でもあります)。
更についでに書くと江藤の叔父の妻が山屋他人(12期)の娘である。

高木七太郎は以前「閻魔」で紹介しました。
後輩共からけちょんけちょんにけなされてて笑った。(こら

田中耕太郎は広瀬のロシア駐在時の同僚です。
一緒に写っている写真があるん。

広瀬武夫、加藤寛治、野元綱明、田中耕太郎


谷口尚真はこのブログに移ってから一発目の連載で触れました(石部金吉金兜)。


長すぎの前置きですが(笑)
あれこれの人が出てきた時は出来るだけ紹介したいのでご容赦くだされ。

で、この中野が広瀬との話を少しですが残してくれていた。
日清戦争の頃、中野と広瀬は横須賀の水雷艇隊勤務だったそうです。
同僚だった。
中野が鈴木貫太郎の後を受けて6号艇長、広瀬が18号艇長だったそうで。

ある時、金沢沖で魚雷発射をした後に揃って横浜に入港した。
そうしたら広瀬が
「今日は俺が奢るからついて来い」
とか言ってさ!

ついて行った先は大きな料亭で、しかもふたりの芸者付き。
どうしたの広瀬。(笑)

中野よりも早く勲六等の賜金を頂いたから奢ってやるということだった模様。
広瀬は普段こういう所に来る男ではないのに、と中野も嬉しかったようです。
私も嬉しい。笑(なんでや

これ、昭和31年の回顧で、中野は当時88歳。
約60年前の事をよく覚えてるなと思って確かめたんですね(史料批判

広瀬は明治28年10月下旬に水雷艇第18号の艇長になっています。
そして同年11月18日に勲六等単光旭日章と金200円(と従軍記章)を下賜されている。
勲六等の賜金とはこのことで、この頃(より正確には明治30年頃)の相場だと大体300万円位かな~…

この話、恐らく明治28年11月下旬の事でしょう。
結構ぴしっと覚えとるな、中野。

中野と広瀬の水雷艇は軍事普及のためによく隅田川を遡上していたそうです。
そんな事までしとったんや…
広瀬の水雷艇、よく品川に出ているのですよ。
品川にそんなに何の用事がと思っていたのですが、もしかしてそういうことだったの?
しかも18号艇は一般汽船とごっつんこして、ドック入りもしている。笑。

この18号艇長の時代の部下に藤井宗恂という人物がおり、この頃の話をいくつか残してくれています。
当時から部下は可愛がっていたようですね。
そして出されたご飯(水兵が作ったの)がおいしかったら褒めちぎってくれるんだぜ…!
ちなみに藤井の長男は広瀬から名前を貰って武夫くんです。笑

部下の話はあるのだけど、この頃の同僚や上司の話は思いの外ないのです。
中野の話、本当にほんのちょっとですが見付けられて嬉しかった。

道頓堀

道頓堀に行ってきた。
用事があったのは難波だったのだけれど、なんとなくぶらぶら…


20170603


いかにもーという感じ。
ひっかけ橋でごわす。


20170603_3


カールなくなったらここのおじさんリストラやなー(酷いこと言う…
道頓堀の辺りは戦前、道頓堀5座と言いまして、芝居小屋が5つほどあったのですよ。
現存しているのは松竹座と国立文楽劇場だけかな?

五座のひとつに弁天座がありまして、下の写真で見ると道頓堀の奥の方に建っていた。


20170603_2


座主が尼野氏で、支配人は入婿した尼野源二郎という人物です。
広瀬武夫のお友達である。イケメンです(真顔)。
奈良十津川の出で、軍人か政治家になりたいと言っていたようなのですが、何故か芝居小屋経営者の養子に…
理由は当時の友人にもよく分からなかったそうです。

弁天座は戦前に何度か火事で焼失しているのですが、その立て直しに尽力していたり、後事業に乗り出してホテル経営をしていたり…
大阪の実業家として、割と名前の知れたひとだったらしい。
広瀬とは講道館柔道繋がりで、広瀬の紹介で加藤寛治と知り合ったりもしています。
陸海軍にはかなり顔の広い人でした。

広瀬は大阪に定宿を持っていたらしいのですが、私は単純にえー道頓堀でいいじゃん、イケメンに泊めてもらえよと思っていたのですね。
こちらの定宿はちょっと不便な場所にあるので。

何年か前に知ったのだけれど、その定宿の女将、イケメンの愛人やった。笑(加藤寛治情報)
あー…絶対これイケメンの紹介や。笑

しかし座主は養父、その後は義兄な訳ですよ。
マスオさん大丈夫なのか。(いらんお世話)
とはいえ入婿自体が結構頼み込まれての事だったらしく、その辺り色々あったのかなあとも想像…

それはともかく、道頓堀に来るたびに広瀬もこの辺りを歩いたのかなーと思う訳ですよ。

ダイバーシティ(4)

日露開戦後、山本は仮想水雷母艦日光丸の水雷長兼分隊長でした。
何をしていたかと言うと、駆逐艦や水雷艦隊への魚雷等の供給、機雷の組立と補給という後方支援。
当時の機雷組立は危険な作業で、原因不明の爆発で殉職する人も少なくなかったそうです。

そんな機雷を沈置する将兵はしばしば戦功を立てるのですが、組立てる方はその功を認められることもないわけで。
無いと困るのに、表には出てこない作業は認められにくい…

山本の部下の兵たちは、自分たちが苦労して作った機雷で戦友たちが功名を上げていく状況に耐えられなくなってきて、
「自分たちも機雷沈置の選抜に加えるよう、上長にとりなして欲しい」
そう嘆願してきた。

そしてその願いを一蹴する程山本は冷淡にはなれなかった…
命懸けで機雷を作る部下たちを見ている人なので、何とかしてやりたいと思うのが人情だろう。
これ明治37年5月頃の話だと思われます。


山本は艦長経由で東郷平八郎連合艦隊司令長官に願い出ます。
そうしたら秋山から
「艦載水雷艇隊を率いて旅順港口に機雷沈置に行かないか」
と声を懸けられ、山本はこの話を承けた。
ただ嘆願してきた部下たちと共に、とはいかなかったようですが。


艦載水雷艇 


旅順口封鎖に従事していた艦隊が当時持っていた艦載水雷艇は8隻であったけれど、1隻は東郷司令長官用として必要で、実動可能なのは7隻。
その内1隻は6月初旬の機雷沈置の際に喪失しており、山本に話が下りて来た時には6隻だったとあります。


調べてみたらアジ歴に指揮官の報告書がでており、作戦の実施は明治37年6月7日、指揮官は田中茂蔵少佐(37年6月7日第1回艦載水雷沈置戦闘詳報)。
10期ほど上と山本が書いていたので、15・6期ね!知ってる人かも!と思ったのだけれど知らん人やった…(ごめん…)
16期、井出謙治クラスの人。

しかし報告書にある艇隊の編制を見ると8隻になってるよ…
ん?
三笠の戦時日誌を見ても8隻とあったので、こちらが正しいですな。
(浅間、八雲、三笠、朝日、敷島、富士、八島*2)

報告書によると機雷投下中に敵の砲火を浴びせられたけれど、特に損害は出さずに済んだ。
その帰還時に曳航してくれていた駆逐艦白雲の転舵が原因で八雲の艦載水雷艇が沈んでいる。


艦載水雷艇 


これだけ小さいと曳航する船の速力や方向転換に大きな影響を受けただろう。
というかこんなのでよく敵陣近くまで行けるな…こわいわー
報告書からは分かり辛かったのだけれど、山本の回顧を見ると、猛烈な砲火により作業途中で退却した、というのが実際の所のよう(実施責任者の書いた報告書なので中々そんな感じでは書かれないと思われ^^;)。


とまれ、先にこうした失敗があり、加えて先の指揮官より遥かに経験不足の山本では無理だろう。
そう考えた島村速雄参謀長は山本へは4隻の艦載水雷艇を任せるよう秋山に告げたそうですが、


処がどういう訳か、(※土原註:秋山)参謀は私の為にいやに頑張られて、終に最初の意見を通され、私は六隻全部をお預かりする事となった。
私は責任のいよいよ重大且大なるを覚えた。


秋山の主張で6隻を預かることに。
そらー男としては期待に応えたい所ですな。
あれこれ考え幾らかの実験をした後、6月13日に6隻を率いて旅順港口へ機雷沈置に向かっております。
これもアジ歴に山本本人の報告書が残っていました(37年6月13日旅順口外機械水雷沈地の行動に関する報告)。
そしてこちらは機雷沈置に成功した。
(あっさり…


山本は明治33・4年の常備艦隊附から始まって、明治37年の旅順港口での作戦、38年のネボガトフ、ロジェストウェンスキーの通訳と秋山と縁があり、分かる所ではここでおしまいかと思いきや、まだあった。

秋山が大正5(1916)年3月~10月末に欧米視察に出掛けた事は何度か触れていますが、その際立寄った国にイタリアがあります。
当時島田繁太郎がイタリアに駐在しておりまして、その際の軍務局長が秋山でした。
その赴任の際に島田は

「イタリア語を覚えても仕方ないだろうから、フランス語でも学んでこい」

そう秋山より言われたと回顧しています。
田中宏巳『秋山真之』にも以下のような記述があります。


七月下旬、イタリアに入った。
山本信次郎中佐と嶋田繁太郎少佐が出迎えた。
山本はフランス語とイタリア語を自在に操る語学の達人で、その上、熱心なカトリック教徒で、イタリア人の高い人望を得ていた。


続くのだけど、このままブログで続けるかちょっと迷ってる…
Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)