Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

インパール

NHKスペシャルの「戦慄の記録 インパール作戦」を見ました。
祖父はこういう戦場で戦ったのだと途中から涙が出てきて堪らなかった。
「戦争の事なんてなにひとつ話さなかったけど、こんなの話せる訳がない」
と母が隣で号泣しておりました。
書籍で読むのと、現場の様子を見たり聞いたりするのとでは、肌で感じる具合が全然違う。

見ていて驚いたのは、祖父と同じ部隊にいた方がまだご存命であったこと。
第31師団、通称烈兵団の山砲兵第31連隊。
しかも上等兵とのことで、祖父と全く同じ立場である。
手榴弾持って戦車に飛び込めって、それがギリギリのところで助かったって。
私の祖父も勿論この方と同じ立場だっただろう。
爺ちゃん、そんな所にいたんだね…

生きている方の証言を取れるのはもうこの1・2年が限界でしょう。
NHK、頑張ってあちこちで話を聞いて来てくれ。
それに斎藤と仰る当時少尉の方の日記と証言、よく見つけて撮ってきましたね…

(兵隊を5千殺せばここは落とせる等と平気で口にする高級将校らの姿を見て)
日本の軍隊の上層部が考える兵隊なんてそんなもん
その内実を知ってしまうと辛い

そう吐き捨てる様に言って泣いておられる姿が胸に迫りました。
本当にね…
牟田口や辻政信がやっている事なんて鬼畜の所業としか思えない。


20170815_2


折しも叔母に送付を依頼していた祖父の連隊史が到着した所だったのだ。
本当にしんどいけど(精神的に)、頑張って調べようと決意新た。
祖父の為にも祖父の戦友の為にも、話されなかったから知らなかった、で終わらせていい話ではないと思うから。


20170815_1


そしてお盆が終わりました。
今年も例年同様お仏壇にお膳をあげておりました。
13、14、15日の3日間。
13日は早朝に近所の川までご先祖さんを迎えに行って、15日の夕方にお供えしていたお花やお供え物と一緒に送りに行く。

お膳は宗派によるそうです。
家は真言。母の実家は浄土真宗ですが、こういうのはなかったとのこと。
へー、そうなの。

ちなみにお膳の後ろに見えているのは自家製梅干しです。笑
三日三晩干すという、最後の日に雨である。あーあー

ダイバーシティ こぼれ話(3)

え?3?
という感じですが、3ですん。
2は昨日までの昭和天皇の周辺の話です(と言い張る)。

「ダイバーシティ」を書き終えてから『昭和天皇の時代』(文芸春秋編・出版/1989)という本を見つけてしまったのだった…
オムニバスで、昭和天皇に関する回顧などが掲載されている書籍。
前に紹介した足立たかの回想もこちらから引用したのですが、後藤武男の「天皇外遊と三人男」が収録されていて、これもう少し早く知りたかった…
あーあ…(笑

後藤については、「ダイバーシティ(4)-3」で名前を出しました。
時事新報の記者で大正10年の皇太子御外遊の際、その殆どの行程に随伴している人物です。


昭和天皇、竹下勇、沢田節蔵 
エッフェル塔からパリを見下ろす。
左端から設計者のエッフェルさん、竹下君、殿下、殿下にチョコレートの食べ過ぎを注意した沢田さん。


皇太子がエッフェル塔を見学に行った際、山本信次郎にお土産を買っておいてと頼む場面があります。
しかしながら山本も傍にいた人も手持ちが足りず、財布を持っておらず…
困り果てた時に後藤が持っていた(会社の)お金を借りている。

皇太子が買い物に出掛ける時に一緒に車に乗せてもらったり、名前も覚えられていて、
「新聞記者は大変だね」
と何度か声を懸けられたそうです。

皇太子外遊の話については、サイトで掲載した所なので詳細はここでは触れません。
そっち読んで(丸投げー
サイトの方は外遊の行路、皇太子のテーブルマナーが非常にまずかった旨を書きましたが、その辺りの話が出ていました。


この無格好のマンナーをながめて、びっくりしたのが、御用掛として供奉してきた海軍大佐山本信次郎であった。
彼は断然皇太子の無作法を改めさせようと決心したのである。
彼はこの午餐会(※土原註:御召艦香取での高級士官とのランチ)が終わってから、早速皇太子を別室におよびして、ヨーロッパ・マンナーを教え込むことにした。
<略>

皇太子は「アア、ソウ」と喜んで学んだ。
山本大佐はそれから食事のたびに、皇太子の様子を傍にいてながめていた。そして、もう少しでもマンナーに反するような節があったら、食後必ず厳重に注意してあげた。


山本信次郎 


山本大佐は艦内でフランス語を教える役だった。
皇太子はフランス語の発音が下手だったので、皇太子が泣顔をされるまで叱った。
「そんなフランス語は通じません」
と無遠慮に申上げた。

山本大佐は今まで皇太子にはれ物にさわるようにしていた宮内省の役人と反対に、ビシビシと仕込むことに決心したのである。


マンナーを教えていたそうです。マンナー(しつこい
迪宮裕仁親王、川村家に里子に出された時は「自分の孫と思え、遠慮するな」と言われ、乃木希典にも生活態度からして甘やかされないよう教育されてきました。
この時位までは迪宮の立場を忖度して特別視しないように、と配慮されていたようです。

ただ東宮御学問所の辺りからか、皇太子に勝ってはならない、皇太子に1番は譲る、という様になっていた様子。
周囲の御学友はそう言い含められていた。

またこの後藤の回顧を見ると、東郷平八郎と珍田捨巳は、皇太子の日常生活については極めて無指導だったという意見を書いていて、これはひとつの意見としてありだな、と思いました。
ただ珍田が皇太子と関わったのは外遊の時からなので、その前任者、浜尾新だろう。
というか皇太子の日常生活云々は、御学問所総裁の東郷でなくて、東宮大夫の浜尾新の管轄だろう。



シンガポールにつくまで、軍艦の甲板ではデッキゴルフをされた。
多くの宮内省や高級士官たちは、皇太子のためにわざと負けてやっていた。
皇太子は自分はいつも勝つものだと思うていた。
これは皇太子を誤まらしめるものだと、御用掛西園寺八郎と山本大佐は感じたのである。


西園寺八郎は西園寺公望の養嗣子です。
実父は長州藩最後の藩主である毛利元徳。
皇太子外遊を推進した若手式部官で、外遊直前に外遊に反対する人間に襲撃されております。


デッキゴルフをするとき、西園寺と山本は、皇太子をどしどし攻め立てた。
皇太子は二人に向ってとても勝てなかった。
西園寺は皇太子に柔道の相手をしていた。
宮内省の他の人々は、皇太子を投げるものが一人もいなかった。
皆で負けてやっていたのである。

西園寺は皇太子をドシンドシンと投げつけてしまった。
若い皇太子は
「もう、西園寺御免だよ」
と悲鳴をあげたのである。


西園寺八郎、小松輝久、山本信次郎、漢那憲和
@香取甲板。漢那憲和(兵27)は御召観香取の艦長


ビリヤードでも西園寺、山本のふたりは、皇太子を容赦なくやっつけた。
ポーカーやトランプには二荒芳徳伯も加わったが、この人もお座なりに負けて上げるということを決してしない人物である。
どうかして、皇太子に、自己を発見させ、自己の信念を強めるようにさせ、自己の創意を生かすように努めさせるのに苦心した。


山本信次郎、西園寺八郎、二荒芳徳、竹下勇、奈良武次


軍艦生活の中に、皇太子の個性の発展に、非常に苦心したのは、実に西園寺、山本、二荒の人々であった。
彼等は皇太子の真の補導役になり、友になり、父親のようにもなって導いたのである。
皇太子もこの三人を尊敬もし、師事もし、よく言うことをきかれた。

私は帰国してからも、これらの人々を、「皇太子の三人男」と呼んだのであった。


当時20歳の皇太子にとって、この軍艦生活は結構なカルチャーショックであったのではないかと思います。
人を見る目や、価値観なんかが色々と変りそう…
ただ若い頃にこういう人達が傍にいたというのは、非常に幸せなことだと思います。
そして後年の昭和天皇のこの回顧に繋がるのですね。


昭和十二、三年頃までに、外遊の三人男は、ことごとく死んだり、宮内省を去ってしまった。
天皇と膝詰めで話をしたり、戯談(じょうだん)を言って腹から笑わしたりするものもなくなってしまった。
三人男に代わるのに、近衛文麿や木戸幸一などが君側の臣となったが、近衛、木戸でも西園寺八郎や山本信次郎ほどの親しみは、天皇にはなかったのではないかと思う。

私は天皇にとって西園寺や山本がいかに大切な男であるかを痛感したのであったが、惜しいかな、彼らは早く世を去ってしまった。


官の側からでない、多少関わりのあった民間人の意見として、興味深い見方だと思います。


***


これにてダイバーシティのこぼれ話は終了です。
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
疲れたー(笑

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(6)

昭和天皇の周辺、続き。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者:足立タカさんは鈴木貫太郎首相に嫁がれたわけですが、二・二六事件の時はいろいろ陛下もご心痛だったと思うんですが。

天皇:そのことは、かえって記者あたりの方がよく知っていると思いますが(大笑い)、
鈴木タカが、首相が非常に悲しむべき状態になった時に屹然として、もうこれ以上殺さずにという希望を述べたということが話に載っているように思います。


『陛下、お尋ね申し上げます』にある戦前の臣下の話で、一番ボリュームがあるのが鈴木貫太郎。
2・26事件と終戦関係の話は、記者でなくても興味はあるよな…


昭和11年2月26日未明に起きた事件で、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎が即死。
首相岡田啓介は無事でしたが、人違いで義弟松尾伝蔵が殺害されています。


斎藤実、岡田啓介、高橋是清


当時侍従長であった鈴木貫太郎も襲撃され、銃で撃たれて本来なら即死であったのでしょうが、妻たかの行動により奇跡的に一命を取り留めております。

老臣らを襲撃した青年将校の言い分は「君側の奸を取り除く」というものでしたが、昭和天皇から見た彼等は紛れもなく「股肱の臣」(最も信頼をおく臣下)。
それを虐殺した。
国家から与えられた武器と兵まで使って丸腰の老人を。

昭和天皇は激怒します。
決起将校たちに対して同情的であった川島義之陸相に対しても、また侍従武官長であった本庄繁に対しても非常に激怒しております。

本庄の娘婿は決起将校のひとり山口一太郎(秋山真之と同期の山口鋭の甥)で、本庄は襲撃の事を予め知っていた人物でもある。

本庄は昭和天皇に、
「軍隊を勝手に動かしたのは許されるものではないが、天皇と国を思う精神からでたものであるので、咎めないでほしい」
と、立場を利用して何度も進言するのですが、昭和天皇は決して肯んぜず、こう言い放ちます(本庄日記)。


「朕が股肱の老臣を殺戮す、
此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや」

「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為なり」


ブチギレである。


鈴木貫太郎、たか


鈴木貫太郎はこの事件時、股と左胸、頭と肩に銃弾を撃ち込まれています。
指揮官安藤輝三大尉が止めを刺そうとした時に、妻たかが止めてくれと懇願した。
鈴木は直径1mほどの血の海の中に倒れている状態で、ここで息の根を止めなくても助からないだろうと判断されたため。

また、たかの緊急処置が良く、さらに医者がすぐに駆け付けた為、鈴木は何とか一命を取り留めました。


***


★★昭和55年9月2日の記者会見

記者の、元侍従長鈴木貫太郎と大変長いお付き合いがあったと聞いているが、何か思い出があれば聞かせて下さい、との質問に対して。

天皇:
鈴木とは苦楽を共にしました。
なかんずくニ・二六事件は最も不幸なことだと思っています。
その時の印象は、今日もなお強く残っています。
それから、鈴木が総理になったということは、戦いを終わらせることに力があったと思います。


記者の、2・26事件の印象は特に強烈だったと思うが、特にどういう点がと問われて。


天皇:
そのニ・二六事件の時のことは、皆も知っているように、鈴木が反軍のために襲撃された、
あのことが一番印象が強くあることですが、このことはかえって新聞記者が知っていることと思います(笑い)

記者:
いや、いつもそれでまいっちゃうんです(大笑い)。
陛下、あの鈴木侍従長が襲われたということを聞かれたのは、どこで聞かれたんですか。

天皇:それは皇居で聞きました。

<略>

記者:
それから当時の侍従武官長本庄繁大将が『本庄日記』の中で、陛下が大変お怒りになって直ちに鎮圧するようにとおっしゃったとか記しているわけですが、事実でございましょうか。(※土原註:上記本庄日記の引用部分のこと)

天皇:それは大体、事実だと思います。

記者:
鈴木貫太郎総理の自伝の序文の中で、終戦の8月15日の夜、鈴木総理が自宅へ戻ると、陛下が非常によくやってくれたと二回いわれたと、それで総理が感涙にむせんだということを息子さんが書いていらっしゃいます。
やはりそういうことはあったんでございますか。

天皇:
あるいは、そういうことをいったかもしれませんけれども、今覚えていないですけど。

記者:
終戦における鈴木総理の力というか、鈴木総理をおいてあの決断で終戦まで持っていくことはむずかしかったのですか。

天皇:
ええ、そうです。
なかなか閣議でも、御前会議の席上でも、伝わっているように決定が鈴木総理ではできなかったので、鈴木総理が私の意見を求めたからいったわけです。

しかし、さっきもいったように、鈴木のような人が総理になったということは、そういう御前会議のような状況ではありますけれども、そういうことになるのも、鈴木総理だったからできたのかもしれません。

記者:
陛下、御前会議で意見が三対三にわかれてしまって、総理としては裁断をすることができなくて、ご聖断を仰いだわけですが、陛下のご聖断を仰ぎますというようなことは、事前に一応のお話はあったんでございましょうか。

天皇:それは今、はっきりそうした記憶はないんですが。
記者:やっぱりその、ひとつのアウンの呼吸といいますか……。
天皇:ええ。


******


特に終戦の部分に関しては、鈴木の事を信頼されていたということがよくわかる記者会見であると思います。
しかし阿吽の呼吸でか。
こういう国家存亡の秋にこういう人物がいたというのは、日本にとって本当に幸運だったと思います。
鈴木は「九死に一生」の連続ですが、このために生かされてきたんじゃないかなあ…


と、まあこんな感じでこの話は一旦終了である。
なんというオチのなさ。笑
後はそうですね、西園寺公望の話が少しあったのと、加藤友三郎の名前が一ヶ所だけ。

加藤は関東大震災の直前、大正12年8月24日に亡くなっています。
当時皇太子として摂政を務めていた昭和天皇、箱根にいく予定だったのが加藤の死去に伴い政変が起こり、東京にいた。
大震災は9月1日。
より震源に近い小田原、箱根の被害はとても大きくて、避暑に来ていた皇族数人が亡くなっている。

箱根は震災で大被害を受けたが、もし箱根に行っていたら……加藤が守ってくれたのだ

こう言われれば加藤も本望だろうなー…

つれづれ

「昭和天皇と周囲の人々」は今日はお休み。
こちら、存外長引いておりますが、き、興味あります?
大丈夫ですかー着いてきてますかー^^;

2・3回で終わるつもりだったのだけれど、終わりませんね。やっぱりね。
いつも通りですねそうですね。
まあそんな感じですが、よろしくお付き合いくださいませ。
拍手して下さっている方もありがとうございます。
読んで頂いている方がいると分かるだけでも安心する。笑


んで、最近毎日のように『ドリフターズ』をペラ読みしとります。
れ、歴史好きには堪らんわ…
泣くよっかひっ飛べとか言われたら心臓がもたない(真顔
薩摩好きを殺りにかかってるとしか思えんわー!
キュン死させる気かこのやろう!(笑)
だ、大体島津の退き口から話が始まるとかどうなのよ!え?!どうなのよ!
合戦好きホイホイか!

『ヘルシング』の時もうっすらと思ったのだけれど、ヒラコー歴史好きなんかしら…
イェニチェリなんて『ヘルシング』で本当に久しぶりに見て、うわーと思った記憶はある。
自分のフィールドが日本史なので、オスマン帝国とか、輪を掛けて縁遠いというのもあるけどさ。
というか髭面のアーカードカッコいいよね(そこか
アーカードのモデルってルーマニアのドラキュラ伯爵ですよね。
ドラキュラ伯爵の逆読みですよね、アーカード…
家にあったはずのコミックが行方不明であっちこっち捜してんだけど出てこないorz

それはいいのだけど、読んでいて、あ、これ知らんと分からんなと思う所がちらほらあるかなあ。
三国志の陳宮は、まあ三国志はメジャーだと思うのでアレですが。笑
陳宮ポジションとか言われたら泣くわー(笑
劉邦の話はやや微妙かなあ。
あれは司馬遼太郎の『項羽と劉邦』の劉邦ですな。
私は韓信が好きでした(どうでもいい

与一の水夫(かこ)を殺すという手書きセリフは、源平合戦知らんと無理やなー。
当時、戦場に駆り出されてはいても水夫は非戦闘員なので、殺すのはルール違反でした。
そのルールを壇ノ浦で破ったのが源義経。
一の谷の鵯越にしても背後からの攻撃ですからねえ。


こういうのを見てるとやっぱり自分は合戦物が好きなんだと再認識する。
そもそも歴史好きになったのは、平安時代の戦物語からなのです。
江戸でもなく近代でもない。
私の歴史好きの原点は武者とか武士とか、あのあたり。
「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ」
の世界が大好きで、5・6歳の頃に出会った源義家が大好きで、そのままここまで来た結果がこれである(なぜ近代…

血がふつふつ沸き立つような気持ちになるのよー
何年か前に大河ドラマで描かれた保元平治の乱は本当に大興奮でした。笑
当時はドラマレビューをしていたので、ご覧頂いていた方はよくお分かりかと思いますん。
昨日まで明治の話してたのに日曜日にはいきなり平安時代。
そして明治以上の熱の入れよう。笑
どれだけの人に引かれたか。

映画の「ロード・オブ・ザ・リング」でも「二つの塔」が大好きで(ハルディアー!)、あと「王の帰還」のペレンノール野の合戦、セオデン王がローハンの騎士を率いる場面が大好き。(でも3作の中では「旅の仲間」が一番好きです…ボロミー…)

セオデンが自分の軍に向かって「Death!」(死を!)と叫ぶ場面があるのです。
ああいうのを見ると、本当に震えるような気持になる。
そしてこの場面が好きすぎて、前のブログ「forth!」は、セオデン王の「Forth Eorlingas!」(進め、エオルの子らよ!)から取ったのだった…

「Death!」については、似たような場面が日本にもあって、吉川英二の『太平記』とかで、合戦中、部下に向かって武将が叫ぶ。
「死ねや、ものども!」

戦いに向かって魂を奮い立たせる時って、東西問わずに通う所があるのだなと思ったのですね、指輪物語見て。

いやーしかし『ドリフターズ』、これから結構な戦物語に発展しそうなので続きが楽しみだわー

昭和天皇と周囲の人々(主に明治)(5)

衝撃の「東郷元帥の印象ない」発言から一夜(こらー
続きです。

★★昭和53年12月4日の記者会見

記者の、東郷元帥とか保育にあたった足立たかなどの思い出はどうか、という問いに対して。

天皇:
東郷元帥に対しては私はあまり深い印象をもっていないから、鈴木タカに対してのみをここでは述べることにしたいと思います。<略>
鈴木タカは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります。<略>


養育係冥利に尽きるだろう思います…
足立たか、後に鈴木貫太郎と結婚して鈴木たかになる女性で、いくらかエピソードがあるのですが、昭和31年10月の回顧(『昭和天皇の時代』文芸春秋編・出版/1989)からひとつだけしつまみ食い。

日露戦争後の論功行賞があった頃の話。
足立たかが迪宮と淳宮(秩父宮)、光宮(高松宮)のお供で御所に出ていた時、
「今日はおじじさまはお忙しいから、皇后さまの方に向かう様に」
とのこと、皇后に拝謁する為に人形の間という部屋で待っていたら、そこにぞろぞろと爺さん連中がやってきた。

それが金ぴかの盛装に勲章をつけた元老だったのですね。
原文には七元老とあるのだけれど、当時は5人だと思う…

伊藤博文、山縣有朋、松方正義、井上馨、大山巌。
黒田清隆と西郷従道はもう亡くなっているので。
もしかしたら桂太郎と西園寺公望が入っているのかな?


足立たかは、やってきたじーさんらにびっくりして場所を変えようとした。
そらーねえ…
紛れもなく当時の国を動かしていた人達(の集団)ですから、幾ら皇孫のお相手をしているとはいえ、23・4歳の女性では流石に怯む^^;
というか、そこそこ場数を踏んだおっさんでも怯むだろう。笑

これ、明治39(1906)年4月1日の話だと思います。
伊藤、山縣、大山がこの日に大勲位菊花章頸飾(内閣府/別窓)を受章していて、恐らく間違いない。


当時迪宮は満年齢で5歳、淳宮4歳、光宮は1歳とちょっと。
前年の日露戦争中は、号外を売り歩く鈴の音を聞いて、皇孫御殿で兄弟で鈴を鳴らして号外を配るごっこ遊びをしていた。
まあ、それ位の幼児である。かわいい。


伊藤博文、山縣有朋


入ってきたじーさんらを見てか、足立たかに背中を押されてか、淳宮と光宮は早々に場を変えてしまった。
けれど、迪宮だけはちょっと立ち止まって元老たちを見ていたそうです。
そうしたら伊藤博文が傍にやってきて、


「皇孫殿下にいらっしゃいますか」
といわれました。
「さようです」。
そこであいさつを遊ばしたんですよ。

殿下は「誰か?」ってお尋ねになられました。

「私は伊藤でございます。きょうはおじじさまから結構な頂戴物をいたしましたので、お礼に参りました」。
「そこにいるの誰か」
っておっしゃるので、つぎつぎに山県元帥からずっと七元老の名前を伊藤さんが申上げたんです。

殿下は「そうか」っておっしゃって、いちいちごらんになっておいでになりました。
みんな大きな方の中に水兵服を召した小さな殿下なのに、やっぱりプリンスとしての態度がご立派なものですから、伊藤さんが非常に喜ばれて、

「ああ、きょうは良い折りにお目にかかりました」
と喜んで、
「あとのお二方様も、どうぞこちらへいらしって頂きとうございます」
といわれたので、それからお二方をお連れしまして、七元老がごあいさつなさいました。
<略>

迪宮さまが、
「勲章がたくさんあるが、きょうはどれを頂いたのか」
とおっしゃる。


伊藤博文
(伊藤、明治40年の撮影。多分こんな感じだったかと)


伊藤さんが
「これを頂きました。まことに有難いことで」
と申されますと、
「そのほかに着いてる勲章は何か」
ってお尋ねになる。

たくさん着いておりましたのですよ。
「これは外国の勲章でございます」
とかいちいち申上げまして、山県さんなどはびっくりしていらっしゃるんです。<略>


山縣を驚かせたか。
確かに5歳で元老連中相手にこれは流石に凄いわ。

これから13年後の大正8(1919)年に出てきた、当時皇太子であった迪宮のヨーロッパ外遊を推進したひとりが山縣でした。
その理由のひとつが、皇太子の社交性(コミュニケーション力)の無さで、山縣が、
「拝謁しても御下問なども無く、まるで石地蔵のようだ」
なんて人に漏らす程だったのですね。

山縣ほどの地位にあれば、皇太子に拝謁する機会は度々あったと思いますが、13年前とは違う意味でびっくりしていたんじゃないかと思います…


つづくー
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