Para Bellum

明治・大正・昭和初期の軍人・政治家の話が多め
特に海軍と広瀬武夫、偶に江戸時代中後期/幕末

つれづれ

20170814


\(^o^)/

大ラス当たった!!やったーやったー
大ラス行くのは初めてなんである!楽しみじゃー。
Epic Nightは行けなかったので、えー…何年振りのライブ?
とにかく楽しみ。2月まではこれで頑張れる。笑
ここ何年かの曲の中では「RED」がダントツに好きです。
ライブで聞いてみたいけど、Epic Nightのセトリに入っていたようなので難しいかなあ。


『九十三歳の関ケ原』読了。
大島光義という実在の人物を取り扱った歴史小説で、結構面白かったです。
多分私、今までにも名前をかすっているのだと思うのだけれど、全然記憶が…ない…
最後の「人を殺さずに戦を終わらせる矢を放つことこそ真の弓」というセリフは、中島敦の『名人伝』を思い出しました。
あとオイゲン・ヘリゲルの『日本の弓術』。

久々に本屋に行って見つけたのが『悪左府の女』。
おお…悪左府頼長…
とりあえず図書館に入っていたので予約した。
著者は伊東潤。最近よく見るな、この方。
川路利良の小説が出ていたり、あと昨年だったか一昨年だったかに新聞で連載されていた『敗者列伝』が面白く、ちょっと興味がある作家ではある。

あとぶらぶらしていたら『泣き虫弱虫諸葛孔明』の5巻が。知らぬ間に完結していた(笑
また時間見つけて読みますわ。

そして最近『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(関良基/作品社/2016)を読んでいたのだけれど、う、うん…
何というかぶっちゃけ40P位で挫折した。

可然先生御雇之儀如何可有之哉
諸生衆被聞合先生罷在候ハ
是仕合之事ニ付キ精々探索被致候

という
宛先:大久保一蔵、吉井幸輔
差出:内田仲之助、村田新八、田中清之進
…の、6月7日付書簡が紹介されていた。
ちなみに年代は不明なのだけれど、この著者の解釈が、

・文中にある先生は赤松小三郎だろう
・然るべき先生として赤松を迎え入れたことに対し、「本当に先生として信頼して大丈夫なのか?」と差出の3人が大久保吉井に問い合わせていた様子が窺われ、
・こうした懸念に対して差出3人が「これは仕合せの事なので精々探索させます」と回答したのだろう
・探索方に指名されたのが中村半次郎らであったのだろう

………?^^;
いや、あの、読み方が滅茶苦茶じゃないかこれ…
書簡全体が掲載されているのではないので、何とも言えないけれど、

然るべき先生雇用の事について書生らに大久保、吉井が問い合わせて、よい先生がいたならば、これは仕合せの事だと思うので、精々(一生懸命)大久保・吉井で先生を探して下さい。

という意味だと思うのだけれど。
「被」を取り落としていて、書簡の主語述語がヘンになっている上に、著者の解釈の話は何一つ書かれとらんと思う。
要するに、自分の思う方向に史料の解釈を曲げてないかという。
ハイ、ここで読む気失せて終了。
早かった。

面白そうだっただけに正直ちょっと残念な感じはあるのだけれど、なんだかな。

関重忠の日記抄

20170804


関重忠の日記(抄録)を見つけたのですよ~。
関と言えば日露戦争が始まる前から戦艦朝日の機関長をしていた人物で、有名な写真を多く撮影しています。


広瀬武夫_旅順口閉塞

これもそのひとつ。
前列右から3番目が広瀬武夫です。右隣は栗田富太郎。

広瀬武夫には「約束を守れ」という道徳の教科書に載った話、切手を送る約束をした少年に万が一のことがあった時の為にとロシアから切手を送るという話があるのだけれど、その少年がこの関機関長の長男重広君である。

2・3年前にこちらで連載した「艦隊勤務の日々」でも紹介しましたが、朝日のカッター競技の部員たちを鍛えていたのが広瀬になります。
その時の様子を、関は遥かな後年に回顧しているのですね。

それに長男氏によると、何処かに寄港する度に、
(柔道着持って出て行く奴がいる…)
(テニスラケット持って出て行く奴がいる…)
という感じで、顔を合わせることが結構あったようで、そこから仲良くなったのですって。
テニスは関の趣味でした。

そんなことがあったので、日記に広瀬が出て来ないかしらという純然たる広瀬目的です。

結果。

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明治37年の収録が5月から……!

われ泣き塗れて蟹とたはむる。

財部彪日記(明治37年欠落)といい、竹下勇日記(明治38年から収録)といい、関忠重日記といい、どーしてこんなにピンポイントで広瀬を外してくれるのか。

目的とするものがないという点でかなり興を削がれたのですが、一応は読んだ。
せっかく見付けたし…
数点ほどは朝日に関係する写真も収録されていました。
カッター競争の優勝旗であったり、カッター競争を応援する朝日の乗員たちを写した写真であったり。

読んでいてへえと思ったのは、海兵16期の関重孝が弟でした。
そうなんだ。
関には弟がふたり、3兄弟で全員海軍さんだった(あと妹がふたり)。
重忠は機関科、重孝は兵科、末弟重光は機関科。


海軍兵学校16期生は元々機関学校の生徒です。
在校時に機関学校が兵学校と合併し、彼らは兵科士官として卒業することになった。
(後に兵学校と機関学校はまた分離します)

広瀬武夫が海軍兵学校15期なので、その次の期。
クラスヘッドは井出謙治になります。
井出についてはワシントン海軍軍縮会議の連載をしていた時期に触れていますのでそちらをどうぞ。

ちなみに広瀬ら入学の翌年に秋山真之が海兵に入学していますが、秋山クラスは17期。
途中で機関学校の生徒たちが入ってきたから、卒業期がずれているのですね。
それはいいのですが、元々3人とも機関の方で海軍に入っている。
何かあったのかな?


関の趣味は留学先のイギリス(グリニッジ海軍大学卒)で覚えたテニスと写真だったのですが、見ていると写真は半ば公務でした。
海軍からも正式に撮影を頼まれていて、大本営海軍部から写真撮影に必要な消耗品が送られてきていたり、現像した写真を送り返したり。
ある時は呼ばれて第2艦隊司令部の写真を撮影もしている。
今現在見られる日露戦争時の海軍関係の写真の多く(というか殆どか?)を撮ったのがこの人物だと思うと、何というかもうありがとうございますとしか言いようがありません。
広瀬の写真は他にはないですか…(こら


広瀬とは5歳が離れていて、1863年、文久3年の生まれ。
5歳くらいかとは思うのだけれど、明治19(1886)年のイギリス留学中の日記には頻繁に斎藤実や、その辺りの年代の人々との交流が出ていて、たかが5年されど5年という感じですなあ。

知っているビッグネームが結構出てきます。


ビッグネームと言えば、関さん、子供の頃に静岡英学校に通っていたのよ。
そして人見勝太郎(寧)の家で世話になっていたそうで!
びっくりしたー!びっくりしたわ、もう!
この本で一番びっくりしたのはここやったわ!(笑)
私が関さんの立場だったら伊庭八郎の話を聞き倒すね!


伊庭八と言えば、少し前に日テレの年末大型時代劇シリーズを一括して頂いたのです。
「毎晩堀内孝雄鳴り響いてんな」
とか、
「毎晩里見浩太朗見てんな」
とか、言われながらえっちらーおっちらーと毎日少しずつ見ていたのですが、2・3日前に全部見終わった!

感想。


濃い。


「五稜郭」は初めて見たのですが、伊庭八、舘ひろしやった。
私の中ではもっと若いのだけれど、序に言えば土方も近藤ももっと若いのだけれど、結構合ってるなーと。
そしてブリュネが岡田真澄で笑ってしまった。
まあハーフの方なので特に違和感はないかー
本当に久しぶりに見た「白虎隊」の西郷隆盛役が見たことのない人だったので、誰だろうと。
西郷どん、どんなにチョイ役だろうと大体が名のある俳優がするだろうに…
キャスト見たら脚本家がしてた。笑
どうなん。それ^^;

MVさん、すべて見終わりました!
ありがとうございました!

『両性具有の美』

白洲正子の『両性具有の美』を読む。
そこに出てくる三島章道の「よかちごの死」という小説を見つけたので読んでみた。
…のだけれど、う、うむー(笑

あのう、題で大体の想像がつくかと思いますが、薩摩です、ヨカ稚児です…
誰のヨカ稚児かと言えば、西郷隆盛のお稚児さんで、名前は伊集院君(※美少年)。

主人公の青年、村田が西郷どんの稚児に横恋慕する話。
それ以上でも以下でもないのだけれど、最後は村田と伊集院の斬り合いとなり、伊集院は命を落とし、村田はその責任を取って切腹することになる。

伊集院君がさー美しいのよー
ぱっちりとした瞳に長い睫、赤い唇。
一緒に歩いていてわくわくし、歩く拍子で偶に手が触れてドキドキする村田君。
あれ?これ『城下の少年』?(笑
甘酸っぱさがパネぇ。

互集と言われる集会の最後に、悪いことをした年少者を反省させるため、寄って集って(面白がって)お尻をつねるという場面があるのですね。
その時、伊集院君もつねられる事になるのですが、伊集院君をつねった村田君、あろうことかここで大変な快感を感じてしまった…
やべえ…違う世界の扉開けっちゃたよこの子…(震え声


何だか見ちゃいけないものを見ちゃった感が若干あるのだけれど(男色どうこうでは無く、読んでいるこっちが恥ずかしくなる感じ)、白洲正子曰くこの作品は、
「幕末の薩摩隼人の生活と風習が見事に描かれている」
とあって、そうなんだと。

関係がとても濃密であることを思わせられると同時に、非常に閉ざされた世界だと感じますな。
確かにこの社会の中で仲間外れにされるのは非常に辛いだろう。
そう思うと薩摩に帰りながら私学校党に与しなかった永山弥一郎や貴島清は筋金入りだったんだなと今更ながら思う訳です。


著者は薩摩出身、「鬼県令」と称された三島通庸の孫で、作品の発表は大正10年頃。
著者は生まれも育ちも東京だけど、薩摩の風習を知っていた知っていた人だろうし、まだ旧薩摩藩士が沢山生きていた時分の文章で、そうそう近世の風習と違うことも書けなかっただろうし、書かなかっただろうと思う。


『女なんてけがらはしい』凡てかう云つた空気の中に生長し、特に女を軽蔑し、女を穢らはしい物あつかひする事を教へられて育て上げられる薩摩武士の子は、しかし男を愛す事は許されるのだつた。
<略>
青年が少年を愛す事は、武士仲間では公然の秘密として許されてゐた。


という説明的な一文が作品の中にはあって(秘密のつもりやったんか^^;)、大正期だと男色は既に”変態性欲”になっている時期ですが、そこで敢てこの作品を発表したのって何故なのだろうという疑問は生じる。
ただ、明治期東京に男色持ち込んだのは薩摩だというのは周知だっただろうし、そんなに深い意味はないのかもしれないけどさ。
白洲正子は「殆ど実話かもしれない」と書いているけれど、実際にこういう話結構あったんじゃないかなあ。

とは言え、白洲正子も書いていたけれど、美しいものを美しいと思うのは、性別は関係ないよなと私も思う。
多感な時期の青年が、美しい少年、可愛い少年を見て、美しい、可愛いと思う心の動きは自然で、ちっとも変じゃないと思うのですわ、私も。


『両性具有の美』を読んでいて思わず笑ってしまったのは、京都醍醐寺所蔵の「稚児之草紙」という鎌倉時代の絵巻物の話。
まあ、あれです。そういうのです。察して。

江戸時代にも似たようなのあったな。
具体的なやり方とかな。
…とか思いながら読んでいたのですが、能々考えると院政期が日本史屈指のお盛な時期である。
興味本位で草紙名でググってみたら、ガッツリ18禁でした。笑
去年の「春画展」にも出ていたらしく、良く展示したなこれ。笑

全然笑う本ではないのに、なぜか笑いながら読了…
いや、普通に面白かったのは本当ですよ。
はい、好奇心的な意味で。

ひとくせ(加藤拓川)

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松山旅行で見つけた『加藤拓川』(畠中淳/松山子規会/S57年)をつまみ食いしながら読了。
いや、松山の郷土出版だけに正岡子規関係での出版物なのですよ。
私正岡子規にあんまり興味ない…
とはいえ加藤が新聞で発表した文章や書簡、加藤を知っている人の追憶や座談会も収録されていたので、これは結構面白いと思う。
この座談会の出席者がビッグネームでびっくりしたのです。
犬養毅、古島一雄、内田康哉、石井菊次郎、林権助、吉田茂…

<●><●>

古本屋で見た時こんな感じになった。笑
原敬の名前がちらほら出ている時点で買うか大分迷ったのだけれど、ここは決定打だったわ。

加藤、原とは私が想像していた以上に仲が良かったみたい。
というか、人生の転機に関わった重要人物のひとりとしてこの本では紹介されていた。
このあたりの関係は先日「青森と盛岡つながり」で書いたので、そちらをどうぞ。


司法省法学校を退学させられた学生のひとりに国分青崖がいるのですが、国分はこの時の仲間で明治11年に富士登山をした話を回顧していた。
登山メンバーは、国分、陸、福本、加藤。原はいてない。
国分曰く、その当時もっとも親しかったのはこの5名だったそうです。


原敬、加藤拓川、陸羯南


当時はまだ列車が東京横浜間しかなく、横浜からは徒歩。
しかも国分、下駄。
下駄で横浜から富士山まで歩き、更に登山し、その上大阪まで行った。
若いから出来る業である^^;
しかし神戸まで行った所で、余りに異様な風采を怪しまれて、大久保利通暗殺の嫌疑者か一味の者として警察に引っ張られた。笑
その後どうなったかは描かれていないので不明ですが、まあ嫌疑は晴れたんだろう。


上記追憶座談会で思わず笑ってしまったのは、加藤、下ネタに事欠かない人物であったらしい。
相当下ネタがあるらしい。
外交官では珍しい気がするし、加藤にそういう印象なかったわ。
この本には座談会2回分が収録されているのだけれど、1回目も2回目も伏字が(でも大して過激な内容でもない)。笑

石井には、
「奇談があるけど言わない方がいいよね」ァ '`,、ヽ(´∀`)'`,、'`,、
「記録には書けない」
とか言われ、加藤が松山市長を務めていた時の副市長には
「この前の座談会も猥談に始まり猥談に終わったけど、記録にしてはどうも困る…」^^;
とか言われ、
林権助には、こんな座談会、
「野郎ばかりならまだよいが、家族などがおられた時は本当に困ることがある」
とか言われ。笑

随分いたずら好きでもあり、上司が「加藤が苛めてきて仕様がない」と零すようなこともあったそうです。
思っていたよりも一癖二癖ある人物だったみたいで、思わず笑ってしまった。

『徳川慶喜家の子ども部屋』

徳川さん宅(ち)の常識』を読んで、積読になっていた『徳川慶喜家の子ども部屋』を読む。
面白い。


著者は徳川慶喜の孫で大正10年生まれ。
生まれる前に慶喜は亡くなっていたので顔を見たことはない。
そして元将軍家は幕府が滅亡した後も色々な意味で凄かった…

もうね、付き合う層が全然違う。当然ながら。
姉妹の嫁ぎ先が大名家、皇族というのが普通である。親戚に普通に皇族がいる。笑
というか、著者の姉が高松宮のお妃であったわ…
そうだったの。高松宮喜久子妃殿下でございました。
当時の皇族の縁組とか大名の縁組とか、幅広すぎて覚られない。


姉が高松宮に嫁いだ時、著者は10歳。
高松宮にも大変可愛がられたようで、著者はこの義兄が大好きになり、姉に向って
「半分分けてちょうだい」
かわいい。笑
高松宮というと阿川さんの『高松宮と海軍』の印象が強いです。
そして同じく喜久子妃の印象もここからなんだなあ。

著者、当然ながら通っていた学校は学習院なのだけれど、


日本史の先生はどなたも、学生が華族の子女、つまり大名、公家など歴史に登場する家の子女が多かったから、「学習院は歴史の授業がやりにくい……」とこぼしておられたと聞いている


やっぱり。笑

あと読んでいてそうなんだと思ったのは、昭和5年当時、著者が住んでいた御殿の家令(昔で言うと家老)は三輪修三という元海軍大佐とあったのね。
へーと思って何気なく調べてみたら、海軍兵学校17期でした。
あらま。
秋山真之クラスか。
軽くググってみた程度では何も分からん。
手元資料を確認した所、後から数えた方が早いハンモックナンバーだったということぐらいしか判明しなかった。笑
東京の人のようで、元々幕臣だったのかな?
何かしら縁がある人であったかと推察しますが、退役後にそういう進路もあるのですね…

そして著者の父、徳川慶喜の子息らは修業のために嘉納塾に預けられていたそうです。
あらー。
そうなんだ。

嘉納塾は過去何度か触れていますが、講道館柔道の嘉納治五郎の私塾になります。
そもそも嘉納治五郎は教育者なのですよ。
英語ペラペラ、且つ東大で文学、政治学、理財学、哲学を修めた当時の超エリート。
宮内省や文部省に出仕する傍ら大鳥圭介にスカウトされて学習院の教授兼教頭になった。
27歳の時。
柔道ばっかりやっていたわけではないのである。


そういう関係で嘉納はハイソな知人の子供を預かることがありまして、その預かり先が後の嘉納塾。
一方で嘉納は講道館も運営していますし(英語塾も運営しとります)、嘉納塾では柔道必須であったようなので、講道館の初期に柔道を嗜んだ顔ぶれには当時の上流階級であったりエリートであったりがかなり多いです。

大鳥圭介の息子ふたりもその流れで講道館に通っており、広瀬武夫とは仲良しでした。
これも今まで何度か触れていますが、一緒に遊びに行ったり旅行に行ったり、職場に見学においでとか。広瀬は弟のような感覚で接していたのだと思う。

また広瀬は自分の腹違いの弟を家族が反対するのを説得して上京させていて(学費は広瀬持ち)、その弟を14歳で嘉納塾に入れるのですが、これを後々広瀬はやや後悔していた。
(広瀬は講道館と書いているのですが、書簡を見ていると「在塾」とあり、また『軍神広瀬中佐詳伝』を見ても嘉納塾幼年舎です)

というのも、上記の通り嘉納塾にはハイソが多いのですよ。
広瀬は厳しく育てられた幼少~少年期、海兵生徒時代を経て、講道館を取り巻く世界を知る訳ですが、弟は豊後竹田から上京してすぐにその世界に放り込まれた。

弟は1年位で病気の為に退塾するのですが、広瀬が考えていたのとはちょっと違う感じになってしまったようですね。
広瀬から見ると嘉納塾・講道館に在籍する上流階級の雰囲気の、悪い風の影響を受けたと感じたようです。
広瀬自身が質実剛健を地で行くような人だったので、余計に思うところがあったのではないかと思う。

この広瀬弟は明治11年生まれ。
『徳川慶喜家の子ども部屋』著者の父・徳川慶久(慶喜七男)は明治17年生まれ。
7歳違うと、嘉納塾の寄宿生活でも顔を合わせたかどうかという感じか。
ただ慶喜五男、六男は明治10年11年の生まれで、同時期に在籍した可能性はあるのでは?と推測。
調べたら分かりそうですが、そこまではいいや。
広瀬弟が在籍していた時期が思春期だからなあ…
余計に影響を受けやすい時期だったのではなかろうか。


で、よくよく見たらこの著者の祖母が慶喜側室の新村信でした。
そうなんだ!
新村信の義弟が新村出(しんむら・いずる)といって、広辞苑の編纂者です。
新村の実父が木戸孝允と交流があり(神道無念流の同門でした)、その縁で京都にあった木戸邸の一部を新村が自宅に移築しています。
これは現存していまして、何年か前に見学に行った際のレポートがありますので、興味のある方はどうぞ^^

Copyright © 土原ゆうき(ヒジハラ)